表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この手に、癒しと富を。――鉱石錬成で生き抜く異世界再生録  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

196/200

【第196話】誓いの言葉

晴貴がティナに言ったのは、ある朝の執務室だった。

 予告なく。前置きなく。帳面を開こうとしたティナの手が止まった。

 「結婚しよう」

 ティナの手から帳面が落ちた。

 床に帳面が当たる音が、執務室に響いた。それ以外の音は、しばらくなかった。

 「……今、何て」

 「結婚しよう」

 「二回言いました」

 「二回言った」

 ティナの顔が、段階的に赤くなっていった。首から耳へ、耳から頬へ、頬から額へ。朝日は窓の反対側だ。言い訳ができない。

 「場所」

 「ここでいい」

 「場所がここでいいんですか。執務室で。帳面を落とした直後に」

 「順番を間違えたか」

 「間違えてます。完全に」

 だが、ティナの目は笑っていた。涙が浮かんでいたが、笑っていた。

 「……はい」

 「はい?」

 「はい、です。結婚します。帳面を拾ってからですけど」

 ティナが屈んで帳面を拾った。立ち上がった時、目が赤かった。泣いていた。帳面を拾う間に、泣いていた。

 「泣いてるのか」

 「泣いてません。帳面を拾っていただけです」

 「目が赤いが」

 「朝日のせいです」

 「朝日は反対側だ」

 「知ってます」

 二人が向かい合った。執務室の机の上に、帳面が横たわっている。今日までの全ての記録が詰まった帳面。署名式の日。戦争の日。告白の日。全部この帳面の中にある。

 「晴貴さん。一つだけ確認していいですか」

 「何だ」

 「プロポーズが"結婚しよう"だけって、もう少し何かないんですか」

 「スープが美味いから結婚しよう、では駄目か」

 「もっと駄目です」

 「じゃあ——お前と一緒に、この街の朝を迎えたい。明日も、明後日も。全部の朝を」

 ティナの目から、また涙がこぼれた。今度は拭わなかった。

 「……それでいいです。それがいいです」


 ◆


 結婚の報告は、まずユリウスにした。

 ユリウスは帳面にペンを走らせた。

 「"連邦代表・葵晴貴、政務補佐官・ティナ。婚姻届出"。日付は」

 「今日だ」

 「式は」

 「市場広場でやりたい」

 「また市場ですか。この連邦は何でも市場でやりますね」

 「署名も調印も市場だった。結婚も市場でいい。この街の中心はあそこだ」

 ユリウスが帳面を閉じた。

 「承知しました。段取りは俺が組みます」

 「頼む」

 ユリウスが出ていく時、振り返って小さく言った。

 「おめでとうございます。領主」

 珍しく、声が柔らかかった。


 ◆


 マルタに伝えると、市場中に五分で広まった。

 「結婚! やっとかい! この街で一番遅い二人が、やっと!」

 「そんなに遅かったですか」

 「遅いよ! あたしは三ヶ月前から祝い用のりんごを取っておいたんだ。もう少し遅かったら、りんごが腐るところだったよ」

 「三ヶ月前から準備してたんですか」

 「当たり前だ。この市場で一番早く気づくのは、あたしだからね」

 マルタが籠から一番大きなりんごを取り出した。

 「これが祝い用だ。特別に取っておいた。一番甘い。あんたたちにふさわしい」

 ティナがりんごを受け取った。赤い実。赤い帯と同じ色。

 「ありがとうございます、マルタさん」

 「泣くんじゃないよ。泣くのは式の時にしな」

 「泣いてません」

 「目が赤いよ」

 「りんごの色が映っただけです」

 「嘘つき」

 二人が笑った。市場の通りに笑い声が響いた。


 ◆


 式は三日後に行われた。

 市場広場。三度目の——いや、四度目の式典。連邦署名式、エルディン加盟、自治権確認条約に続く、四度目。だが今回は条約でも調印でもない。

 広場の中央に、小さな台が置かれている。花で飾られている。リセが教会の花を摘んできた。マルタが果物で飾り付けた。アレッサが鍋を三つ並べた。

 住民が集まっている。五千人の街から、千人以上が広場とその周辺に。条約の時より多い。この街は、領主の結婚を見届けたがっている。


 晴貴が台の前に立った。

 いつもの服。特別な衣装ではない。ポケットに最初の石。

 ティナが隣に来た。赤い帯を締めている。あの祝祭の日に買った帯。それだけが、いつもと違う。

 「準備はいいか」

 「帳面は持ってきました」

 「結婚式に帳面は要らないだろう」

 「記録は大事です。日付と天気と、晴貴さんの第一声を記録します」

 「また記録するのか」

 「全部記録します。全部」


 ◆


 誓いの言葉は、リセが取り仕切った。修道女として。

 「葵晴貴。この人を伴侶として迎えますか」

 「迎えます」

 「ティナ。この人を伴侶として迎えますか」

 「迎えます」

 シンプルだった。長い演説も、大袈裟な誓約もない。二人が「迎えます」と言った。それだけ。

 だが、それで十分だった。

 リセが微笑んだ。

 「あなたと初めて会った日のことを覚えています。あの頃のあなたは、石を一つ握って、何もわからないまま歩いていた。今日、こうして誰かと手を繋いで立っている姿を見ると、随分と遠くまで来たのだと思います」

 晴貴の目が潤んだ。拭わなかった。

 リセが続けた。

 「でも、温かさは変わっていませんね。あの頃と同じ温かさが、あなたの手にある。今日ここにある温かさは、あの日と同じものです」

 広場が静まった。千人が、修道女の言葉を聞いている。

 「この二人を、この街が迎えます。この大地が。この鍋が。このりんごが。ここにいる全員が」

 ティナが晴貴の手を取った。

 手を繋いだ。あの夜、市壁の上で星に向かって「ここにいる」と決めた。その決断があるからこそ、今日この手を握れる。秘密を抱えたままだ。だが、この世界に留まると決めた手だ。その手で、ティナの手を握る。

 嘘はまだある。だが、この手の温度は嘘ではない。

 ティナの手が握り返してきた。強く。震えていた。嬉しさで。


 ◆


 拍手が起きた。

 最初に手を叩いたのは、マルタだった。

 もう誰も驚かない。この街で最初に拍手するのは、いつもこの人だ。

 拍手が広がっていく。千人の拍手が、広場を満たした。

 ギルバートが市壁の上から見下ろし、剣の柄に手を置いたまま頷いた。

 カラスが広場の端で腕を組み、口元を動かした。笑みとは呼べない。だが限りなく近い何か。

 リヒトが鼻で笑った。だが、目は笑っていなかった。目は、もっと深い場所で、何かを祝福していた。

 ミーナが泣いていた。声を上げて。「師匠おめでとうございます」と叫びながら。

 ドルクが腕を組んで立っていた。鉱夫の顔。だが、頬が緩んでいた。

 ユリウスが帳面に書き込んでいた。「婚姻成立。市場広場にて。天候、晴れ」。

 レオスが南方連合の旗を振った。トマスとフィンが肩を組んで叫んでいた。ガルトがりんごを齧りながら拍手していた。


 アレッサが鍋の蓋を開けた。

 「さあ、祝いのスープです! 今日は五鍋出します! 何杯でも飲んでください!」

 五鍋。五千人の街に、五つの鍋。一つの石から始まった街が、五つの鍋で祝っている。

 香辛料商が鍋を追加で二つ出した。

 「七鍋だ。五じゃ足りない。鍋は多すぎるくらいがいい」

 マルタがりんごを籠ごと出した。

 「今日は全部無料だ! 祝いの日は赤字を出すもんだ!」

 住民が鍋を囲む。りんごを齧る。笑う。子どもが走り回る。鉱夫が酒を注ぐ。

 ミーナがアレッサの隣で鍋をよそっていた。泣きながら。

 「師匠、おめでとうございます。ティナさん、おめでとうございます。スープ、何杯飲みますか」

 「お前、泣きながらスープをよそるな。塩辛くなる」

 「塩辛いのは涙じゃなくて気合です」

 リセがミーナの背中をさすった。修道女の手。この手が、今日の式を取り仕切った。この街に晴貴を迎えた日と、この街でティナを迎えた日が、同じ手で繋がっている。


 ◆


 夜、広場の片隅で、晴貴とティナが並んで座っていた。

 祝宴はまだ続いている。鍋の湯気。りんごの匂い。笑い声。鐘が鳴っている。鐘楼の管理人が、また自分の判断で鳴らしたのだろう。

 「疲れたか」

 「疲れました。でも、幸せです」

 「俺もだ」

 手を繋いだまま。離さなかった。

 「晴貴さん」

 「何だ」

 「私、ずっと帳面を書きますから。明日も。明後日も。十年後も。全部記録します。この街の全部を」

 「ああ。頼む」

 「だから——いてくださいね。ずっと。帳面の隣に」

 晴貴はティナの手を握り返した。

 ここにいる。ずっと。

 秘密はまだある。だが、この手の温度は本物だ。

 星が出ている。この世界の星。見知らぬ配置。だが、もう見知らぬ星ではない。

 この星の下に、帰る場所がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ