【第196話】誓いの言葉
晴貴がティナに言ったのは、ある朝の執務室だった。
予告なく。前置きなく。帳面を開こうとしたティナの手が止まった。
「結婚しよう」
ティナの手から帳面が落ちた。
床に帳面が当たる音が、執務室に響いた。それ以外の音は、しばらくなかった。
「……今、何て」
「結婚しよう」
「二回言いました」
「二回言った」
ティナの顔が、段階的に赤くなっていった。首から耳へ、耳から頬へ、頬から額へ。朝日は窓の反対側だ。言い訳ができない。
「場所」
「ここでいい」
「場所がここでいいんですか。執務室で。帳面を落とした直後に」
「順番を間違えたか」
「間違えてます。完全に」
だが、ティナの目は笑っていた。涙が浮かんでいたが、笑っていた。
「……はい」
「はい?」
「はい、です。結婚します。帳面を拾ってからですけど」
ティナが屈んで帳面を拾った。立ち上がった時、目が赤かった。泣いていた。帳面を拾う間に、泣いていた。
「泣いてるのか」
「泣いてません。帳面を拾っていただけです」
「目が赤いが」
「朝日のせいです」
「朝日は反対側だ」
「知ってます」
二人が向かい合った。執務室の机の上に、帳面が横たわっている。今日までの全ての記録が詰まった帳面。署名式の日。戦争の日。告白の日。全部この帳面の中にある。
「晴貴さん。一つだけ確認していいですか」
「何だ」
「プロポーズが"結婚しよう"だけって、もう少し何かないんですか」
「スープが美味いから結婚しよう、では駄目か」
「もっと駄目です」
「じゃあ——お前と一緒に、この街の朝を迎えたい。明日も、明後日も。全部の朝を」
ティナの目から、また涙がこぼれた。今度は拭わなかった。
「……それでいいです。それがいいです」
◆
結婚の報告は、まずユリウスにした。
ユリウスは帳面にペンを走らせた。
「"連邦代表・葵晴貴、政務補佐官・ティナ。婚姻届出"。日付は」
「今日だ」
「式は」
「市場広場でやりたい」
「また市場ですか。この連邦は何でも市場でやりますね」
「署名も調印も市場だった。結婚も市場でいい。この街の中心はあそこだ」
ユリウスが帳面を閉じた。
「承知しました。段取りは俺が組みます」
「頼む」
ユリウスが出ていく時、振り返って小さく言った。
「おめでとうございます。領主」
珍しく、声が柔らかかった。
◆
マルタに伝えると、市場中に五分で広まった。
「結婚! やっとかい! この街で一番遅い二人が、やっと!」
「そんなに遅かったですか」
「遅いよ! あたしは三ヶ月前から祝い用のりんごを取っておいたんだ。もう少し遅かったら、りんごが腐るところだったよ」
「三ヶ月前から準備してたんですか」
「当たり前だ。この市場で一番早く気づくのは、あたしだからね」
マルタが籠から一番大きなりんごを取り出した。
「これが祝い用だ。特別に取っておいた。一番甘い。あんたたちにふさわしい」
ティナがりんごを受け取った。赤い実。赤い帯と同じ色。
「ありがとうございます、マルタさん」
「泣くんじゃないよ。泣くのは式の時にしな」
「泣いてません」
「目が赤いよ」
「りんごの色が映っただけです」
「嘘つき」
二人が笑った。市場の通りに笑い声が響いた。
◆
式は三日後に行われた。
市場広場。三度目の——いや、四度目の式典。連邦署名式、エルディン加盟、自治権確認条約に続く、四度目。だが今回は条約でも調印でもない。
広場の中央に、小さな台が置かれている。花で飾られている。リセが教会の花を摘んできた。マルタが果物で飾り付けた。アレッサが鍋を三つ並べた。
住民が集まっている。五千人の街から、千人以上が広場とその周辺に。条約の時より多い。この街は、領主の結婚を見届けたがっている。
晴貴が台の前に立った。
いつもの服。特別な衣装ではない。ポケットに最初の石。
ティナが隣に来た。赤い帯を締めている。あの祝祭の日に買った帯。それだけが、いつもと違う。
「準備はいいか」
「帳面は持ってきました」
「結婚式に帳面は要らないだろう」
「記録は大事です。日付と天気と、晴貴さんの第一声を記録します」
「また記録するのか」
「全部記録します。全部」
◆
誓いの言葉は、リセが取り仕切った。修道女として。
「葵晴貴。この人を伴侶として迎えますか」
「迎えます」
「ティナ。この人を伴侶として迎えますか」
「迎えます」
シンプルだった。長い演説も、大袈裟な誓約もない。二人が「迎えます」と言った。それだけ。
だが、それで十分だった。
リセが微笑んだ。
「あなたと初めて会った日のことを覚えています。あの頃のあなたは、石を一つ握って、何もわからないまま歩いていた。今日、こうして誰かと手を繋いで立っている姿を見ると、随分と遠くまで来たのだと思います」
晴貴の目が潤んだ。拭わなかった。
リセが続けた。
「でも、温かさは変わっていませんね。あの頃と同じ温かさが、あなたの手にある。今日ここにある温かさは、あの日と同じものです」
広場が静まった。千人が、修道女の言葉を聞いている。
「この二人を、この街が迎えます。この大地が。この鍋が。このりんごが。ここにいる全員が」
ティナが晴貴の手を取った。
手を繋いだ。あの夜、市壁の上で星に向かって「ここにいる」と決めた。その決断があるからこそ、今日この手を握れる。秘密を抱えたままだ。だが、この世界に留まると決めた手だ。その手で、ティナの手を握る。
嘘はまだある。だが、この手の温度は嘘ではない。
ティナの手が握り返してきた。強く。震えていた。嬉しさで。
◆
拍手が起きた。
最初に手を叩いたのは、マルタだった。
もう誰も驚かない。この街で最初に拍手するのは、いつもこの人だ。
拍手が広がっていく。千人の拍手が、広場を満たした。
ギルバートが市壁の上から見下ろし、剣の柄に手を置いたまま頷いた。
カラスが広場の端で腕を組み、口元を動かした。笑みとは呼べない。だが限りなく近い何か。
リヒトが鼻で笑った。だが、目は笑っていなかった。目は、もっと深い場所で、何かを祝福していた。
ミーナが泣いていた。声を上げて。「師匠おめでとうございます」と叫びながら。
ドルクが腕を組んで立っていた。鉱夫の顔。だが、頬が緩んでいた。
ユリウスが帳面に書き込んでいた。「婚姻成立。市場広場にて。天候、晴れ」。
レオスが南方連合の旗を振った。トマスとフィンが肩を組んで叫んでいた。ガルトがりんごを齧りながら拍手していた。
アレッサが鍋の蓋を開けた。
「さあ、祝いのスープです! 今日は五鍋出します! 何杯でも飲んでください!」
五鍋。五千人の街に、五つの鍋。一つの石から始まった街が、五つの鍋で祝っている。
香辛料商が鍋を追加で二つ出した。
「七鍋だ。五じゃ足りない。鍋は多すぎるくらいがいい」
マルタがりんごを籠ごと出した。
「今日は全部無料だ! 祝いの日は赤字を出すもんだ!」
住民が鍋を囲む。りんごを齧る。笑う。子どもが走り回る。鉱夫が酒を注ぐ。
ミーナがアレッサの隣で鍋をよそっていた。泣きながら。
「師匠、おめでとうございます。ティナさん、おめでとうございます。スープ、何杯飲みますか」
「お前、泣きながらスープをよそるな。塩辛くなる」
「塩辛いのは涙じゃなくて気合です」
リセがミーナの背中をさすった。修道女の手。この手が、今日の式を取り仕切った。この街に晴貴を迎えた日と、この街でティナを迎えた日が、同じ手で繋がっている。
◆
夜、広場の片隅で、晴貴とティナが並んで座っていた。
祝宴はまだ続いている。鍋の湯気。りんごの匂い。笑い声。鐘が鳴っている。鐘楼の管理人が、また自分の判断で鳴らしたのだろう。
「疲れたか」
「疲れました。でも、幸せです」
「俺もだ」
手を繋いだまま。離さなかった。
「晴貴さん」
「何だ」
「私、ずっと帳面を書きますから。明日も。明後日も。十年後も。全部記録します。この街の全部を」
「ああ。頼む」
「だから——いてくださいね。ずっと。帳面の隣に」
晴貴はティナの手を握り返した。
ここにいる。ずっと。
秘密はまだある。だが、この手の温度は本物だ。
星が出ている。この世界の星。見知らぬ配置。だが、もう見知らぬ星ではない。
この星の下に、帰る場所がある。




