【第197話】語り継がれる物語
異変は、市場から始まった。
晴貴が通りを歩いていると、子どもたちが指を差して囁いた。
「あの人だよ。スープの領主様」
「スープの?」
「うん。スープで三千人の兵隊を追い返したんだって」
「スープで?」
「うん。大きな鍋で、兵隊にスープを飲ませたら、みんな泣いて帰ったんだって」
晴貴は足を止めた。
何か、話が違う。
◆
マルタの店の前で、旅の商人が話を聞いていた。
「それでね、あの領主様はね、鉱脈から千人の光る兵隊を呼び出して、王国軍を蹴散らしたんだよ」
マルタが語っている。
「千人じゃない。千体以上だ。そしてね、光る兵隊は剣を振らなかった。ただ立っていた。それだけで三千人が逃げ出した」
「すごいですね。その領主様は魔法使いですか」
「魔法使いじゃないよ。錬成士だ。石を握って、鍋を食べて、りんごを——いや、りんごは関係ないか。とにかく、石と鍋でこの街を作った男だ」
「石と鍋で街を?」
「ああ。石で人を癒し、鍋で人を繋ぎ、りんごで——」
「りんごは関係ないのでは」
「りんごは大事なんだよ! あたしのりんごがなかったら、この街はとっくに終わってた!」
旅の商人が困った顔をしている。だが、手帳に必死にメモを取っている。
◆
晴貴が政庁に戻ると、ティナが笑いを堪えていた。
「聞きました。市場で"スープの領主"伝説が広まっているそうですね」
「聞いたのか」
「帳面に書きました。"市民の間で領主の伝説が形成されつつある。ただし内容に著しい歪曲あり"」
「歪曲って何だ」
「"晴貴さんが三千人の敵兵全員にスープを飲ませて降伏させた"という話が出回っています」
「飲ませてない。十二人癒しただけだ。しかも癒したのはミーナとリセだ」
「知ってます。でも、伝説はそうやって育つものです」
ティナが帳面を見せた。市場で拾った「噂の一覧」が書かれている。
「一、"スープの領主は鍋一つで三千人を撃退した"」
「していない」
「二、"光る兵隊は領主のスープを飲んだ死者の魂"」
「飲んでない。英霊にスープは出していない」
「三、"領主の妻は帳面で敵の作戦を全部見破った"」
「お前の帳面は確かに万能だが、作戦を見破ったのはリヒトだ」
「四、"果物屋のりんごは魔法のりんごで、食べると強くなる"」
「それはマルタの自作自演だろう」
「五、"黒い外套の男はりんごで動く"」
「……それはカラスに聞かせたら怒るぞ」
「カラスさんはもう知ってますよ。"誰にも言うな"って言ってましたけど」
「もう手遅れだ」
ティナが帳面をめくった。
「六、"鉱夫のドルクは石を食べて力を得る"」
「石は食べない。ドルクに失礼だ」
「七、"サリュスの商人ヴェルナーは、銅貨を数えるだけで天気がわかる"」
「それはただの偏見だ」
「八、"南方連合の議長アルヴァは、鍋の匂いで敵軍の位置を当てた"」
「一つも事実がない」
「九、"修道女リセの祈りで畑の薬草が一晩で育つ"」
「一晩では育たない。リセは毎朝水をやっている」
「十、"領主の結婚式で、五千杯のスープが振る舞われた"」
「五鍋だ。五千杯じゃない」
「でも、五千杯の方が伝説としては映えますよね」
「映えなくていい。事実を書け」
「事実は帳面に書いてあります。伝説は市場が作ります。私の仕事は事実の方です」
ティナが帳面を閉じた。にやりと笑った。
「でも、"スープの領主"は気に入ってます。悪くない響きですよ」
「……勘弁してくれ」
◆
午後、カラスが来た。
「領主殿。一つ報告がある」
「何だ」
「市場の子どもたちが、"黒い外套ごっこ"をしている」
「何だそれは」
「黒い布を被って市場を走り回り、りんごを盗む真似をする遊びだ。俺がりんごを買うのを見ていた子どもが始めたらしい」
「……それは問題か」
「問題だ。りんごを盗む真似をしているのに、マルタ殿が本物のりんごを渡している。子どもたちが味を覚えて、毎日来るようになった。りんごの出費がかさんでいる」
「それはマルタさんの問題だろう」
「マルタ殿は"未来の客を育てている"と言っている。商売上の投資だと」
「投資か。ヴェルナー殿と同じ理屈だな」
カラスの口元がわずかに動いた。笑みではない。だが、それに限りなく近い何か。
「もう一つ。子どもたちが"スープの領主ごっこ"もしている」
「何をするんだ」
「石を握って、鍋の前に立って、"癒します!"と叫ぶ。それから全員でスープを飲む」
「……悪くないな」
「悪くない。だが、アレッサ殿のスープの消費量が三倍になっている。予算の問題が発生している」
「それはユリウスに言ってくれ」
カラスが去った後、ガルトが来た。
「領主殿。子どもたちが俺に"狼のおじさん"と呼びかけてくる。何とかしてくれ」
「ヴォルフだから狼か。仕方ないだろう」
「仕方なくない。俺は子どもに好かれる柄じゃない」
「菓子パンを分けてやったのはお前だろう。好かれて当然だ」
ガルトが口を歪めて去っていった。後ろからフィンの声が聞こえた。
「ガルトさん、子ども好きなのバレてますよ」
「うるさい」
トマスが通りかかった。
「領主殿。一つ報告を。"元監察局の男たちは、全員りんごで操られている"という噂が出ていますが」
「否定してくれ」
「否定したいのですが、実際にりんごで釣られている者が三名います。否定しづらいです」
「……カラスを含めてか」
「カラスさんを含めて三名です」
晴貴は頭を抱えた。
◆
夕方、リヒトが市壁の上から降りてきた。珍しく、自分から晴貴に話しかけた。
「領主殿。噂を聞いた」
「どの噂だ。たくさんあるらしいが」
「"灰色の目の男は、実は領主の兄だ"という噂だ」
「兄じゃないだろう」
「当然だ。だが、市場の女性たちが"顔が似ている"と言い始めたらしい」
「似てるか」
「似ていない。断じて」
リヒトの声に、珍しく力がこもっていた。よほど嫌らしい。
ティナが後ろから言った。
「目の色が違うだけで、雰囲気は少し似てますよ。寡黙で、不器用で、でも根は優しいところが」
「……ティナ殿。俺は優しくない」
「はいはい」
リヒトが不機嫌な顔で市壁に戻っていった。ティナが笑っていた。
◆
夜、ドルクが酒を持ってきた。
「結婚祝いだ。飲め」
「ありがとう。ドルク殿」
「殿はやめろ。お前はもう鉱夫の仲間だ。ドルクでいい」
「じゃあ、ドルク」
「よし。飲もう」
政庁の屋上で、二人で飲んだ。ティナが酒の肴を持ってきた。アレッサの揚げ物と、マルタのりんご。
「ドルク。エルディンでは、領主に伝説がつくのか」
「つく。うちの先代の領主は"鉄のハンマー"と呼ばれていた。鉄を素手で折ったという伝説があるが、実際は落とした鉄床に足を潰されただけだ」
「全然違うじゃないか」
「伝説とはそういうものだ。事実は面白くない。だから、面白くする。百年後には、お前は"スープ一杯で国を作った男"として語り継がれるだろう」
「スープ一杯では国は作れない」
「作れないが、伝説では作れる。それでいいんだ。事実は帳面に残る。伝説は人の口に残る。両方あって、初めて歴史になる」
晴貴は酒を飲んだ。星が出ている。この世界の星。
「帳面はティナが書いてくれている」
「なら伝説の方は、マルタ殿に任せておけ。あの女主人の口なら、百年分の伝説を作れる」
「百年分のりんごの伝説がつく気がするが」
「それでいい。りんごと鍋とスープ。それがこの街の伝説だ。剣と血の伝説より、よほどいい」
二人が笑った。酒が美味かった。りんごが甘かった。星が綺麗だった。
百年後、この街がどう語られるかはわからない。だが、今夜の酒が美味いことだけは確かだ。




