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この手に、癒しと富を。――鉱石錬成で生き抜く異世界再生録  作者: 一条信輝


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192/200

【第192話】市場の朝

マルタは朝が早い。

 日の出前に起き、倉庫からりんごの籠を運び出し、通りに並べる。布を外し、一つずつ磨く。傷がないか、色が変わっていないか、手触りで確かめる。毎朝、同じ作業。戦争の前も、戦争の間も、戦争の後も。

 「おはよう、りんご。今日も甘いかい」

 りんごは答えない。だが、マルタは毎朝聞く。三十年、果物屋をやってきた。店を開けなかった日は、戦争の時の三日間だけだ。

 あの三日間、籠に布をかけた。「また出す」という約束の布。約束は守った。四日目に布を外し、りんごを並べた。あの日の朝のりんごの味を、一生忘れないだろう。

 通りを掃く。箒の音が、石畳に響く。この音が市場の目覚ましだと、隣の布地商が言っていた。マルタの箒の音が聞こえたら、朝が来たということだ。

 隣の出店はサリュスの布地商。その隣がエルディンの鉱物商。さらにその隣が南方連合の干物商。半年前にはなかった店ばかりだ。市場が広がっている。四都市の商品が並ぶ通りは、マルタが知っている中で最も賑やかな市場になりつつある。

 「あたしが一番古株だよ。それだけは誰にも負けない」

 りんごに向かって言った。りんごは答えない。だが、甘い匂いが朝の空気に混じった。


 ◆


 通りに人が増えてくる。

 最初に来るのは、いつもアレッサだ。支援所の鍋に入れる野菜を買いに来る。

 「マルタさん。おはよう。今日のりんご、どう」

 「いつも通り甘いよ。ほら、持ってきな。支援所の分」

 「ありがとう。今日のスープに入れようかな。りんご入りスープ」

 「やめときな。スープにりんごは合わないよ」

 「冗談ですよ。でも、いつか試してみたいんですよね」

 「試すなら、うちのりんごは使うなよ。もったいない」

 二人が笑う。毎朝の会話。変わらない。

 だが、アレッサの手が少し変わった。鍋を持つ手に、以前はなかった自信がある。戦争の間、三千二百人の避難者にスープを出し続けた手。修道女と施術者と連携して医療拠点を動かした手。あの経験が、アレッサの手を一回り大きくした。

 「アレッサ。あんた最近、いい顔してるね」

 「そうですか?」

 「ああ。前より堂々としてる。鍋の前に立ってる時の姿勢が違うよ」

 「……戦争の時に、少し変わったのかもしれません。あの三日間、鍋を止めなかったこと。それが、自分の中で何か変えた気がします」

 「鍋を止めなかったのは偉いよ。あたしも看板を下ろさなかった。二人とも偉い」

 「マルタさん。偉いのは偉いですけど、自分で偉いって言うのは」

 「偉いから言うんだよ。遠慮してたら、誰が褒めてくれるのさ」

 アレッサが声を出して笑った。籠からりんごを三つ取り、銅貨を置いて去っていった。


 ◆


 次に来たのは、鍛冶屋の親方だった。

 「マルタ。ルッツのやつにりんごを六つ持ってってやってくれ」

 「あの元監察局の子? もう客がつくの」

 「客はまだだ。だが、よく働く。朝から晩まで鉄を打ってる。腹が減ってるだろうと思ってな」

 「あんた、弟子に甘いね」

 「甘くない。りんごで機嫌を取ってるだけだ。機嫌がいい方が、鉄がよく延びる」

 「理屈があるんだかないんだか」

 親方が銅貨を六枚置いて去った。マルタはりんごを紙に包みながら、親方の背中を見た。あの男は戦争の前夜、夜通しで矢じりを百本打った。エルディンの鉱夫と並んで。あの夜から、親方の腕が一段太くなった気がする。気のせいかもしれないが。


 ◆


 昼前に、リセが支援所から出てきた。

 修道服の白が、市場の色の中で目立つ。住民が会釈していく。リセは一人ひとりに微笑みを返した。

 マルタの前に来た。

 「マルタさん。りんごを二つください」

 「あんたは金を出さなくていいよ。修道女さんは無料だ」

 「そういうわけにはいきません。対価を払うのが正しいですから」

 「堅いねえ。じゃあ、銅貨一枚でいいよ。修道女割引」

 リセが微笑んで銅貨を置いた。

 「マルタさん。この市場は、いつ来ても温かいですね」

 「温かいかどうかは知らないけど、うるさいのは確かだね」

 「うるさいのが温かいんです。静かな場所ばかりにいたので。教会は静かでしたから」

 「あんた、教会に帰らなくていいの」

 「帰りません。ここに必要とされていますから」

 リセの声は静かだったが、迷いがなかった。この修道女は、エルダンを選んだ。教会ではなく、この市場の喧騒を。

 「ま、いてくれると助かるよ。あんたがいると、市場の空気が品良くなるからね」

 「品が良い、ですか」

 「うん。あたしみたいなのばっかりだと、がさつになるだろう。白い服が一枚あるだけで、みんな少し丁寧になる」

 リセが笑った。マルタも笑った。果物屋と修道女が、りんごの籠の前で笑っている。

 リセがりんごを齧った。甘さに目を細めた。

 「このりんご、甘いですね。どこから仕入れているんですか」

 「北の農家だよ。戦争の前は入荷が途切れかけたけど、今は街道が安全になったから安定してる。和平のおかげだね」

 「和平が、りんごの味を守っているんですね」

 「大袈裟だねえ。でもまあ、そうかもしれない。街道が安全で、農家が安心して育てて、馬車が安全に運んでくる。その全部が揃って、このりんごがここにある」

 リセは残りのりんごを大事そうに修道服のポケットにしまった。もう一つはミーナに持っていくのだろう。


 ◆


 午後、香辛料商が新しい鍋を持ってきた。

 「マルタさん。見てくれ。エルディンの鉄で作った鍋だ」

 「鍋を見せに来たのかい」

 「そうだ。これで今夜の鍋を炊く。四都市の食材で。エルダンの野菜、南方連合の魚介、サリュスの香辛料、エルディンの干し肉。全部入れる」

 「全部入れたら味がめちゃくちゃにならないかい」

 「ならない。鍋は全てを受け入れる。何を入れても、鍋の中で調和する。それが鍋の力だ」

 「鍋に力があるのかい」

 「ある。この街を作ったのは鍋だろう。石じゃない。鍋だ」

 マルタは笑った。この男は大袈裟だ。だが、間違ってはいない。この街の最初の繋がりは、スープの鍋から始まった。それは確かだ。

 「じゃあ今夜、あんたの鍋を食べに行くよ」

 「来てくれ。量は多い。足りなければ追加する」

 「足りなくなるわけないだろう。あんたの鍋はいつも多すぎるんだよ」

 「多すぎるくらいがいいんだ。余ったら、誰かが食べに来る。通りがかりの鉱夫が。黒い外套の男が。修道女が。誰でも。鍋は全てを受け入れる」

 夕方近く、カラスがりんごを買いに来た。いつもの三つ。

 「カラスさん。今日も三つかい」

 「三つだ」

 「そろそろ味の好みも教えてくれたっていいだろう。甘いのが好きか、酸っぱいのが好きか」

 「……甘い方が好きだ」

 「やっと言ったね。じゃあ、奥の棚から出してやるよ。一番甘いやつ」

 マルタが奥からりんごを三つ選んで渡した。カラスが銅貨を置き、黙って去っていった。だが、去り際に小さく頭を下げた。初めてだった。

 マルタは頭を下げられた方向を見送った。黒い外套が通りの向こうに消えていく。あの男も、この市場の客だ。りんごの味で繋がっている。

 ガルトとヴォルフが連れ立って来た。ガルトがりんごを四つ、ヴォルフがパンを二つ買った。ヴォルフは相変わらず口数が少ないが、パン屋の主人に「ありがとう」と言った。小さな声で。だが言った。

 トマスとフィンが石段に座って、香辛料商の鍋から立ち上る湯気を眺めていた。フィンが「今夜の鍋、楽しみですね」と言うと、トマスが「お前は食べてばかりだな」と返した。二人とも笑っている。かつて偵察に来た街で、鍋を楽しみにしている。


 ◆


 夕方、市場が閉まる前に、晴貴とティナが通りを歩いていった。

 マルタが声をかけた。

 「領主様。今日は何も買わないのかい」

 「見てるだけだ。市場が動いてるのを見てると、安心する」

 「安心するのはいいけど、見てるだけじゃ売り上げにならないよ。りんご買いな」

 「……一つくれ」

 「二つだろう。隣のお嬢さんの分も」

 ティナが赤くなった。

 「マルタさん。いちいち数えないでください」

 「数えてないよ。見れば分かるんだ。二人分の顔してるから」

 マルタがりんごを二つ渡した。晴貴が銅貨を置いた。

 二人が去っていく。肩が触れる距離。赤い帯が夕陽に揺れている。

 マルタは籠に布をかけた。今日も一日、店を開けた。りんごが売れた。鍋が温まった。市場が動いた。

 売り上げを数えた。戦争の前よりいい。四都市の客が増えたからだ。鉱夫が買い、商人が買い、修道女が買い、黒い外套の男が買い、領主が隣の女の子の分も含めて二つ買う。

 帳面はつけない。マルタの帳面は頭の中にある。誰が何を買って、どんな顔で食べたか。全部覚えている。

 明日も同じ朝が来る。籠を出し、りんごを磨き、「おはよう、りんご」と声をかける。

 それが、マルタの戦い方だ。剣も石もない。だが、この市場が動いている限り、エルダンは生きている。

 籠に布をかける。また明日。

 また明日。この言葉が、この街の一番強い呪文だ。

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