【第191話】それぞれの道
朝、エルダンは動いている。
戦争が終わり、条約が結ばれ、連邦が四都市になり、復興計画が動き始めている。この街の人々は、それぞれの場所で、それぞれの次の一歩を踏み出していた。
◆
――鍛冶屋。
ルッツが金槌を振っている。
親方の隣で、鉄を打つ。まだ腕は追いつかないが、体が覚えている。十歳まで父の鍛冶屋で見ていた手の動きが、十数年の空白を越えて戻ってきた。
「ルッツ。火加減が甘い。鉄は赤くなりすぎると脆くなる。明るい赤で止めろ」
「はい、親方」
「はいじゃない、目で見ろ。色を覚えろ。鉄の声を聞け」
親方の声は厳しい。だが、弟子を教える声だ。命令ではない。導く声。ルッツが監察局で聞いていた声とは全く違う。
エルディンの鉱夫が、隣の炉で別の鉄を打っていた。ルッツの手つきを見て、黙って頷いた。鉱夫と鍛冶屋の弟子。鉄で繋がっている。
ハインツの金槌が、ルッツの作業台に置かれている。前の持ち主は二十三歳で死んだ。その金槌を、元監察局の男が引き継いでいる。影の手が、鍛冶の手に変わりつつある。
◆
――港。南方連合。
レオスが船着き場に立っていた。
エルダンから届いた書状を手に持っている。ラディア復興計画の第一報。マルシオの筆跡。
「ラディアか。あの村、まだ人が残ってたのか」
隣の男——ダミアンと同じ港の荷役仲間だった男——が聞いた。
「残ってる。三百人。助けがいる」
「助けに行くのか」
「行く。ダミアンが守った連邦だ。あいつの名前に恥じないことをする」
レオスは書状を懐にしまい、アルヴァ議長のもとに向かった。議長は「鍋から始まった連邦を広げろ」と言うだろう。そして、船を一隻出してくれるだろう。
港の風が、ラディアの方角から吹いている。
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――サリュス。商業組合。
ヴェルナーが帳簿を広げていた。
エルダンとの交易実績。エルディンの鉄鉱石の流通量。ラディア復興計画への投資試算。
グスタフが報告に来た。
「ヴェルナー殿。ラディアの鉱脈再調査に、ドルク殿が鉱夫五名を派遣すると」
「五名か。十分だ。鉱脈から何か出れば、投資を回収できる。出なくても、交易路の整備で物流利益が出る。どちらに転んでも損はしない」
「慈善ではなく投資、ですか」
「慈善と投資は矛盾しない。結果が同じなら、動機は何でもいい」
ヴェルナーが帳簿に数字を書き込んだ。商人の目。だが、その目の奥に、エルダンのスープの味が残っている。数字だけでは動かない。味を知っているから動く。
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――工房。
ミーナは一人で立っていた。
作業台の上に、自分が作った石が並んでいる。第四型。師匠の品質には及ばないが、施術には十分使える。数は師匠より多く作れるようになった。
手帳を開いた。自分の手帳。施術の記録、石の品質データ、患者の名前。ページが厚くなっている。最初は師匠の技を真似るだけだった。今は、自分の判断で動いている。
工房の窓から、市場が見えた。あの市場で、師匠が最初の石を売った。あの場所から、全てが始まった。
「師匠」
振り返ると、晴貴が入口に立っていた。
「ミーナ。話があるんじゃないか」
ミーナの目が見開かれた。
「……わかってたんですか」
「お前が工房で一人で立って、窓の外を見ている時の顔は知っている。何かを決めようとしている顔だ」
ミーナは深呼吸した。
「師匠。私、自分の工房を持ちたいです」
静かに言った。声は震えなかった。
「エルダンの南区に、空き家が一軒あります。そこを改装して、癒しの処を開きたい。師匠の工房とは別に。自分の名前で、自分の石で、自分の患者を」
晴貴は黙って聞いていた。表情が動かない。ミーナの心臓が速くなった。
「師匠の技は教わりました。名前を聞いてから施術すること。石の品質を妥協しないこと。敵味方を選ばないこと。全部、覚えています。だから——」
「だから、もう俺の隣にいなくていい。そう言いたいのか」
ミーナの目が潤んだ。
「隣にいたくないんじゃないです。隣にいたい。ずっと。でも、隣にいたら、私は師匠の弟子のままです。自分の足で立ちたい。自分の工房で、自分の癒しを」
晴貴は窓を見た。市場が見えた。マルタがりんごを並べている。香辛料商が鍋を温めている。あの市場で、最初の石を売った日のことを思い出した。あの日、自分も一人で立っていた。
「ミーナ。お前に教えたことは三つだ」
「はい」
「名前を聞け。石を妥協するな。手を伸ばせ。この三つを守れるなら、お前はもう施術者だ。弟子ではなく、施術者だ」
ミーナの涙がこぼれた。三度目。だが、今回は師匠の前で、師匠の許しを得て。
「ありがとうございます。師匠」
「礼はいらない。お前が独り立ちするのを見届けるのは、師匠の仕事だ」
晴貴が作業台から石を一つ取った。ミーナが作った第四型。
「これを持っていけ。お前の工房の最初の石だ」
「師匠が作った石じゃなくて、私が作った石ですか」
「お前の工房だ。お前の石で始めろ」
ミーナが石を受け取った。青い光が、ミーナの手の中で脈打っている。師匠の石と同じ光。だが、温度が少し違う。ミーナ自身の温度。
「師匠。一つだけ約束してください」
「何だ」
「たまに、うちのスープを飲みに来てください。アレッサさんに負けない鍋を置くつもりです」
「お前、料理もするのか」
「施術者は患者の体も心も癒します。心を癒すには、スープが一番です。師匠が教えてくれました」
「俺はそんなこと教えてないが」
「教えてなくても、見てました。師匠がアレッサさんのスープを飲む時の顔で、全部わかりました」
晴貴が笑った。負けた。完全に。
ミーナが工房を出ていった。手に石を一つ握って。自分の石を。
出ていく背中を見ながら、晴貴はあの日を思い出した。リセの教会を出て、一人で歩き始めた日。手に石を一つ持って。何もわからないまま。
ミーナは違う。何もわからないのではなく、全部わかった上で出ていく。名前の聞き方も、石の作り方も、手の伸ばし方も。師匠より少し優しく、師匠より少し素直に、自分の癒しを始める。
「行ってこい」
声に出した。もうミーナには聞こえていなかった。だが、言わずにはいられなかった。
◆
――政庁。屋上。夕方。
晴貴はティナと並んで立っていた。
「ミーナが独立する」
「聞きました。帳面に書いてあります」
「……お前の帳面には何でも書いてあるな」
「全部書いてあります。この街で起きたことの全部が」
夕陽がエルダンを照らしている。鍛冶屋の煙。港からの風の匂い。市場の喧騒。工房の青い光。
それぞれの場所で、それぞれの道が始まっている。ルッツは鉄を。レオスは船を。ヴェルナーは数字を。ミーナは石を。
「みんな、自分の道を歩き始めてますね」
「ああ。俺がいなくても」
「いなくてもじゃないですよ。晴貴さんがいたから、みんなが自分の道を見つけられた。種を蒔いたのはあなたです」
「種を蒔いただけだ。育てたのは、それぞれ自身だ」
「それが一番難しいことなんですよ。種を蒔いて、あとは任せる。手を出さない。信じて待つ。それができる人は少ない」
晴貴はティナを見た。赤い帯が夕陽に染まっている。
「お前がいたから、待てた。一人では、手を出していたかもしれない」
「私がいたから?」
「お前が隣で帳面を書いてくれていたから。全部記録してくれていたから。記録があると安心できる。任せても大丈夫だと」
ティナの耳が赤くなった。夕陽のせいだと言えなくもない。だが、晴貴はもう騙されない。
「……ありがとうございます。帳面冥利に尽きます」
「帳面冥利とは何だ」
「今作りました」
二人が笑った。
屋上の下で、エルダンが動いている。それぞれの道を、それぞれの足で。




