【第193話】リセとの対話
支援所の裏庭に、薬草畑がある。
リセが作った畑だ。戦後、支援所に常駐すると決めた時、最初にやったのがこの畑作りだった。教会から持ってきた薬草の種を蒔き、毎朝水をやり、葉を摘んで煎じ薬を作る。
晴貴がリセを訪ねたのは、その畑の前だった。
朝の光の中で、リセが膝をついて雑草を抜いている。白い修道服の裾が土で汚れている。隣に小さな水桶と、摘み取った薬草を入れる籠がある。
この畑を作った日のことを、アレッサから聞いた。リセがエルダンに残ると決めた翌日、支援所の裏庭の荒れ地を一人で耕し始めたという。石を拾い、土を起こし、種を蒔いた。誰に頼まれたわけでもなく。
「この土地には、癒す力がある」と、リセは言ったそうだ。「ヒールアロイの鉱脈が地下にあるなら、その上の土にも力が宿っているはずです」。修道女の直感は正しかった。薬草は驚くほどよく育った。
「リセ」
「晴貴さん。おはようございます」
リセが立ち上がり、手の土を払った。微笑み。いつもと同じ、穏やかな顔。
「少し話したいことがある。時間はあるか」
「ありますよ。薬草は逃げませんから」
◆
二人は裏庭の石段に座った。
支援所の壁に背を預け、畑を見ている。薬草の緑が朝日を受けて光っている。
「リセ。お前がいなければ、今の俺はなかった」
「また、その話ですか」
「何度でもする。あの日、教会で俺を迎えてくれなかったら、この街もこの連邦も存在しない」
「大袈裟ですよ。私がしたのは、温かいスープを出して、寝床を貸しただけです」
「それが全ての始まりだった。癒しの原点は力ではなく手を伸ばすこと。お前が教えてくれた」
リセは薬草畑を見た。静かな目。
「私が教えたのではないと思います。晴貴さんは最初からそうでした。石を一つ持って、怖がりながら歩いていた。でも、石を離さなかった。あの石を握り続けたのは、癒したいという気持ちがあったからです。私はそれを、少しだけ手伝っただけ」
「少しだけ、か」
「はい。少しだけ。あとは全部、あなた自身の力です」
晴貴は黙った。リセはいつもこうだ。自分の功績を最小化し、相手の力を最大化する。修道女の謙虚さではない。本心からそう思っている。
「リセ。街の未来について、話させてくれ」
「未来、ですか」
「ああ。これからのエルダンの十年を、お前と一緒に考えたい」
◆
「十年後のエルダンを考えている」
晴貴は地面に小枝で線を引いた。エルダンの地図。大雑把だが、通りと市壁と支援所の位置はわかる。
「今、エルダンの人口は五千人。連邦全体で四万人近い。十年後には、エルダンだけで一万人を超えるかもしれない。ラディアの復興が進めば、連邦はさらに広がる」
「一万人。大きな街になりますね」
「ああ。人が増えれば、支援所一つでは足りなくなる。ミーナが南区に自分の工房を開いた。いずれ北区にも、東区にも、癒しの拠点が必要になる」
「施術者の育成が必要ですね」
「そうだ。ミーナは一人で動けるようになった。だが、ミーナ一人では一万人を癒せない。ミーナの弟子が必要だ。さらにその弟子が。癒しの技術を、人から人へ伝えていく仕組みが要る」
リセが頷いた。
「教会の治療院と同じですね。修道女が新しい修道女を育て、薬草の知識を受け継いでいく。私たちは何百年もそうやってきました」
「ああ。その仕組みを、エルダンにも作りたい。教会ではなく、連邦の制度として。癒しの学校のようなものだ」
「学校」
リセの目が光った。
「晴貴さん。それは——とても素敵なことだと思います」
「リセに、その学校の設立に関わってほしい。教会の治療院の知識と、ミーナの錬成の技術と、お前の薬草の経験。三つを合わせれば、新しい癒しの教育ができる」
リセは少し間を置いた。畑を見ている。自分が蒔いた薬草が、朝日の中で育っている。
「……私は修道女です。教師ではありません」
「教師でなくていい。お前がやることは、あの日と同じだ。傷ついた人がいたら手を伸ばすこと。その手の伸ばし方を、次の世代に見せること」
「見せるだけでいいんですか」
「見せるだけでいい。技術は教えられるが、姿勢は見せるしかない。お前が患者に手を伸ばす姿を見た人間が、同じように手を伸ばす。ミーナがそうだった」
リセの目が潤んだ。拭わなかった。
「……あの子は、私を見ていたんですね」
「見ていた。お前が戦場で敵兵の手を取った時も。子守歌を歌った時も。薬草を整理していた時も。全部見ていた」
「それなら——」
リセが背筋を伸ばした。修道女の姿勢。凛として、穏やかで、揺るぎない。
「やります。癒しの学校。私にできることがあるなら」
「ありがとう」
「お礼はいりません。あの日と同じです。手を伸ばすだけですから」
リセが畑の隅から薬草を一本摘んだ。小さな緑の葉。
「この薬草は、教会で何百年も育てられてきたものです。種は代々受け継がれて、今ここにある。癒しの技術も同じですよね。一人から一人へ。晴貴さんからミーナさんへ。ミーナさんから、次の誰かへ」
「そして、リセから俺へ。最初の繋がりが、お前だった」
「そう言ってもらえると、この畑を作ってよかったと思えます」
リセは薬草を晴貴の手に置いた。小さな葉。何百年分の知識が、この一枚に宿っている。
「学校の最初の教材にしてください。この薬草から始めましょう。小さなものから」
「小さなものから。いつもそうだったな」
「はい。いつもそうでした」
◆
話は広がっていった。
十年後の連邦のビジョン。癒しの学校だけではない。
「交易路の整備。サリュスとエルディンを結ぶ街道を、連邦の共同事業として改修する。ヴェルナー殿が計算している。投資に見合う交易量は確保できると」
「鉱脈の共同開発。エルダンとエルディンの鉱脈を連邦の共有資源として管理する。ドルク殿が鉱夫の組合を作ると言っている」
「南方連合の港の拡張。レオスが動いている。ラディアへの物流拠点として、そして将来的には海外との交易の窓口として」
「海外、ですか」
「ああ。この大陸の外にも、国がある。連邦が安定すれば、海を越えた交易も視野に入る。ヴェルナー殿は既に計算を始めている」
「商人は速いですね」
「速い。だが、交易が広がれば癒しの需要も広がる。船乗りの怪我、港の疫病、異国の病。施術者が足りなくなる」
「だから、学校が必要なんですね」
「そうだ。今のうちに育てなければ間に合わない。十年は長いようで短い」
「防衛体制の統合。ギルバートの防衛隊とカラスの護衛隊を、連邦軍として一本化する構想。リヒトが計画を練っている」
リセは一つ一つに頷いた。
「大きな話ばかりですね。でも、全部の根っこにあるのは、小さなことですよね」
「小さなこと?」
「スープ一杯。りんご一つ。石一つ。名前を聞くこと。手を伸ばすこと。全部、小さなことから始まった。十年後も、きっと同じです。大きな制度の根っこに、小さな手がある」
晴貴は笑った。
「お前に言われると、全部当たり前のことに聞こえるな」
「当たり前のことだからですよ。当たり前のことを、当たり前にやり続ける。それが一番難しくて、一番大事」
◆
裏庭に、ティナが来た。
「晴貴さん。ユリウスさんが呼んでます。ラディアの復興計画の第二版ができたそうです」
「わかった。行く」
立ち上がった。リセに手を差し伸べた。
「行こう。リセ。お前も聞いてくれ。癒しの学校の話を、ユリウスに伝えたい」
リセが手を取って立ち上がった。
「晴貴さん。一つだけ」
「何だ」
「十年後のエルダンがどうなっていても、この畑は残してくださいね。薬草は、いつの時代も必要ですから」
「残す。約束する」
三人で支援所を出た。市場の通りを歩く。マルタが手を振る。香辛料商が鍋を掲げる。カラスが壁際で頷く。
リセが通りを歩きながら、小さく笑った。
「こんなに賑やかな街になるなんて。あの頃は想像もできませんでした」
「俺もだ」
「でも、温かさは変わっていませんね。最初にあなたにスープを出した日と同じ温かさが、この通りにある」
「ああ。それだけは変わらない」
「変わらないでください。十年後も。何が変わっても、この温かさだけは」
「変わらない。約束する」
二度目の約束。畑と温かさ。どちらも小さなものだ。だが、小さなものの約束こそ、一番重い。
政庁に向かって歩きながら、晴貴はポケットの中の石に触れた。最初の石。リセに助けられた後、初めて人を癒した石。あの日から全てが始まった。
今日、リセと未来を語った。十年後のビジョン。癒しの学校。連邦の拡大。大きな話をたくさんした。だが、一番大事なのは畑の約束だ。薬草が育ち続ける場所を守ること。温かさを変えないこと。
それが、十年後にも二十年後にも残るものだ。条約は書き換えられる。制度は変わる。だが、畑の薬草と、スープの温かさは、変わらない。
変えない。




