【第187話】二人の距離
朝、ティナが政庁に来た時、赤い帯を締めていた。
祝祭で買った帯。サリュスの絹にエルダンの刺繍を合わせたもの。いつもの服に、その一点だけが新しい。
晴貴は気づいた。だが、言わなかった。言えば赤くなるのがわかっていたから。
ティナも何も言わなかった。だが、帯に触れる指先が、時折嬉しそうに動いていた。
二人の間に、言葉にならないものが増えている。それは居心地が悪いものではなかった。むしろ、温かい。
◆
午前中、ティナと一緒に街を回った。
戦後の復旧状況の確認——という名目だったが、実際にはただ二人で歩きたかった。名目がないと歩けない。まだ、そういう段階だった。
最初に鍛冶屋に寄った。
親方がエルディンの鉱夫と並んで鉄を打っていた。炉の前に、もう一人いた。若い男。見覚えがある。リヒトの部隊にいた男だ。
「親方。あの人は」
「ああ、ルッツって言ってな。リヒトの部下だった男だ。実家が鍛冶屋だったらしくて、"鉄を打ちたい"って言うから、手伝わせてる」
戦争の前夜に親方が話していた「実家が鍛冶屋だった兵」。十歳で監察局に連れていかれ、それきり鉄に触れていなかった男が、十数年ぶりに金槌を握っている。
「腕は」
「まだまだだ。だが、筋はいい。体が覚えてる。鉄を打つ手は、一度覚えたら忘れないもんだ」
ルッツが炉の前で、真剣な顔で鉄を見つめていた。監察局の精鋭だった男の目が、鍛冶屋の弟子の目に変わっている。
ティナが帳面に書き込んだ。「リヒト部隊・ルッツ。鍛冶屋で研修中」。
「帳面に書くことか」
「記録は大事です。この街で何が起きているか、全部記録します。十年後に読み返した時に、この日のことがわかるように」
「十年後、か」
「十年後も、ここにいるつもりですから」
さらりと言った。だが、その「ここ」には、この街だけでなく、晴貴の隣という意味が含まれていた。
◆
次に支援所に寄った。
ミーナが一人で施術をしていた。患者は鍛冶屋の徒弟。作業中に手を火傷した。
「大丈夫ですよ。皮膚の表面だけです。石を当てますね」
ミーナの手つきは安定していた。師匠がいなくても、一人で回せている。
リセが奥で薬草の調合をしていた。修道女たちは先週帰ったが、リセだけが残っている。支援所の常駐治療者として。
「リセさん。修道服、少し汚れてますよ」
ティナが指摘すると、リセは袖を見て笑った。
「薬草の染みです。洗っても落ちなくて。でも、これが仕事の証ですから」
アレッサが鍋の前で鼻歌を歌っていた。今日のスープは南方連合の魚介出汁を使った新作。
「アレッサさん、その歌は」
「昨日リセさんに教わったんです。教会の歌。鍋の前で歌うと味が良くなる気がして」
「気のせいでしょう」
「気のせいかもしれないけど、気持ちが良くなるのは本当ですよ」
支援所は穏やかだった。戦争の痕跡は消えつつある。寝台に負傷者はもういない。代わりに、日常の怪我や病気の患者が戻ってきている。それが平和の証だった。
◆
市壁に上がった。
ギルバートが北門に立っていた。隣に、あの若い兵がいる。ハインツの代わりに配置された兵ではない。ハインツと同期の兵だ。
「隊長。今日も異常なしです」
「ああ。異常なしが一番いい」
ギルバートの顔には、以前より皺が増えていた。だが、目は穏やかだった。
晴貴が声をかけた。
「ギルバート。防衛隊の増員、考えているか」
「考えている。今は三十名だが、五十名まで増やしたい。志願者は来ている。リヒトの元部下から三名、エルディンの鉱夫から二名。腕は未知数だが、やる気はある」
「リヒトの元部下が防衛隊に」
「ああ。"もう影の仕事はしたくない。日の当たる場所で守りたい"と言ってきた」
影から光へ。カラスが目指していたものを、名もない元監察局の兵が、自分の言葉で語っている。
市壁の外を見た。溝と岩壁。英霊の青い草。北の街道は静かだった。
「きれいですね。戦場だったのに」
ティナが言った。
「戦場は、時間が経てば草原に戻る。草が生え、花が咲く。人の痕跡が消えていく」
「でも、青い草は消えない。英霊の記憶は残る」
「ああ。消えるものと、残るもの。両方ある」
「私たちの記録も、残りますよね」
「残る。お前の帳面に書いてあるから」
ティナが帳面を胸に抱えた。
「全部書いてあります。最初の署名式から、戦争から、告白から。全部」
「告白も書いてあるのか」
「書いてあります。日付と場所と、天気と、晴貴さんの第一声が"お前がいないとスープが美味くない"だったことも」
「……消してくれ」
「消しません。記録ですから」
◆
午後、カラスとリヒトの訓練を見学した。
市壁の外で、黒衣と元監察局の合同訓練。遊撃の連携を磨いている。
カラスとリヒトが並んで走っている。言葉なしで体が連動する。夜間遊撃で築いた信頼が、日常の訓練に落とし込まれている。
ガルトが若い黒衣の兵に組み手を教えていた。トマスが地図を広げて偵察ルートを確認している。フィンが木の上から周囲を見張っている。
「みんな、自分の場所を見つけてますね」
ティナが言った。
「ああ。一年前には想像もできなかった光景だ」
「一年前、晴貴さんは一人で石を握ってましたもんね」
「今は違う」
「何人いますか。仲間」
晴貴は考えた。数えようとして、やめた。
「数えきれない」
「いい答えです」
ティナが笑った。赤い帯が風に揺れた。
◆
夕方、政庁に戻った。
執務室のドアの前で、ティナが足を止めた。
「今日は楽しかったです。復旧確認」
「復旧確認か。確かに、確認はした」
「ちゃんと帳面にも書きましたよ。鍛冶屋の状況、支援所の状況、防衛隊の状況、訓練の状況。全部」
「仕事として完璧だな」
「仕事です。仕事として完璧です」
二人とも、仕事だということにしていた。仕事だから一緒に歩いた。仕事だから一日中隣にいた。仕事だから。
「ティナ」
「はい」
「明日も復旧確認に行かないか」
ティナの唇が動いた。笑いを堪えている。
「……帳面、新しいの用意しておきます」
「ああ。頼む」
ティナが執務室に入っていった。赤い帯が、扉の向こうに消えた。
晴貴は廊下で一人、息をついた。
復旧確認。名目として完璧だ。だが、二人とも知っている。明日も名目が必要で、明日も一緒に歩いて、明日もこのドアの前で「仕事でした」と言い合う。
それでいい。順番に。一歩ずつ。
手を繋ぐのは、もう少し先だ。だが、赤い帯が風に揺れるのを見る時間は、もう十分に持っている。




