【第188話】カラスの選択
カラスが政庁に来たのは、朝一番だった。
いつもは壁際に立つ男が、今日は執務室の中央に立っている。まっすぐに。黒衣を纏ったまま。
晴貴、ユリウス、ティナが机の向こうにいた。
「領主殿。提案があります」
カラスの声はいつもと同じ低さだったが、いつもとは違う響きがあった。覚悟の響き。
◆
「黒衣連隊を解散し、正規防衛組織として再編したい」
沈黙が落ちた。
ユリウスが最初に反応した。
「解散。具体的に何が変わるのか」
「三つ変わります。一つ、名前。"黒衣連隊"という名を廃し、"連邦護衛隊"とする。二つ、指揮系統。これまでは俺の私兵に近い形でしたが、連邦評議会の管轄下に入る。ギルバート殿の防衛隊と並列の組織にする。三つ、任務。暗殺、潜入、情報操作といった影の任務を廃止する。防衛、護衛、偵察に限定する」
晴貴がカラスの目を見た。
「影の任務を捨てるのか」
「捨てます」
「お前の部下たちは、影の技術で生きてきた。それを捨てれば、彼らのアイデンティティが失われる」
「失われません。影の技術は残す。偵察や護衛に転用できる。だが、目的が変わる。誰かを暗殺するための技術ではなく、誰かを守るための技術にする」
カラスの声が、わずかに震えた。この男が震えるのを見たのは初めてだった。
「俺は、この街に来る前、影の中で生きてきました。光を知らなかった。光の中に出ることが、こんなに怖いとは思わなかった」
「怖いのか」
「怖い。影にいる方が楽だ。暗闘の中では、自分の顔が見えない。誰からも見えない。それが楽だった。だが——」
カラスが窓を見た。朝日が差し込んでいる。黒衣の男の顔に、光が当たっている。
「この街で、光の中に立つことを覚えた。マルタ殿がりんごをくれた。アレッサ殿がスープを注いでくれた。ティナ殿が"カラスさん"と呼んでくれた。名前で呼ばれたのは、何年ぶりだったかわからない」
ティナの目が潤んだ。カラスは気づかなかった。
「俺は"黒衣のカラス"ではなく、"カラス"でありたい。黒い服を着ていても、影の任務をしなくても、この名前で呼ばれたい」
晴貴は黙って聞いていた。カラスがこれほど多くの言葉を一度に話すのを、初めて聞いた。この男は寡黙で、必要最小限のことしか言わない。それが今日は、自分の内面を全て机の上に並べている。
「部下たちは」
「全員に話しました。反対は一人もいなかった。彼らも同じことを感じていたのだと思います。ルッツが鍛冶屋に行ったのも、他の者がギルバート殿の防衛隊に志願したのも、同じ理由です。影から出たい。光の中で生きたい」
ユリウスがペンを止めた。
「組織論として確認させてほしい。連邦護衛隊の規模は」
「現在の黒衣連隊は百三十七名。そこから、ギルバート殿の防衛隊に移った者と、鍛冶屋など民間に転じた者を除いて、護衛隊に移行する者は百名ほどになる見込みです。リヒト殿の元部隊からの合流希望者を含めれば百十名ほどに」
「百十名の護衛隊。任務は防衛、護衛、偵察。報酬は連邦の予算から。運営は評議会の監督下」
「はい。全て透明にする。影の組織は不透明だからこそ影だった。護衛隊は透明でなければならない」
ユリウスが帳面に書き込んだ。
「承認の手続きを進めます。評議会への提案書は、明日までに用意できますか」
「用意します。書類は苦手ですが」
「苦手でも書いてください。光の中の組織は、書類で動きます」
カラスの口元がわずかに歪んだ。苦笑に近い。影の男が、書類と向き合い始める。それも光の中で生きることの一部だった。
◆
晴貴は立ち上がった。
机の向こうから、カラスの前に歩いた。
「カラス。お前に最初に会った時のことを覚えているか」
「覚えています」
「お前は俺に背中を預けるなと言った。影の人間は信じるなと」
「言いました」
「俺は預けた。お前は裏切らなかった」
「裏切れなかった。あなたが背中を預けたから」
晴貴が手を差し出した。
「連邦護衛隊。いい名前だ。承認する」
カラスがその手を握った。影の男の手。だが、温かかった。
「ありがとうございます。領主殿」
「晴貴でいい」
「……それは、まだ早い」
「なぜだ」
「俺にとって、あなたは"領主殿"です。それが、俺の敬意の形です。名前で呼ぶのは——もう少し、光に慣れてからにします」
晴貴は笑った。順番がある。カラスにも、カラスの順番がある。
◆
午後、黒衣連隊の——最後の黒衣連隊としての——集会が行われた。
政庁の中庭。黒衣の兵たちが整列している。全員が黒い外套を纏っている。最後に、この姿で並ぶ日。
カラスが前に立った。
「諸君。今日をもって、黒衣連隊は解散する。明日から、我々は連邦護衛隊となる」
兵たちの顔に、様々な感情が浮かんでいた。安堵。少しの寂しさ。そして、新しい名前への期待。
「黒い外套は、着続けてもいい。脱いでもいい。それは各自の判断に任せる」
一人の兵が手を挙げた。
「隊長。黒い服のままで、護衛隊をやっていいんですか」
「いい。色は関係ない。中身が変わればいい」
「じゃあ、俺はこのままで。この服に愛着があるので」
別の兵が言った。
「俺は脱ぐ。新しい服がほしい。護衛隊の制服とか、作れませんかね」
カラスがユリウスに目を向けた。
「制服の予算は」
「検討します」
兵たちから笑いが起きた。黒衣連隊が笑っている。最後の日に、笑っている。
◆
集会の後、カラスは一人で市壁の上に立った。
廃石橋の方角を見ている。あの橋で、晴貴がリヒトと会った。あの橋で、影と光が初めて向き合った。
自分もまた、影だった。影の中に生まれ、影の中で育ち、影の仕事をしてきた。
だが、今日、影に別れを告げた。
名前は変わらない。顔も変わらない。技術も変わらない。だが、目的が変わった。壊すためではなく、守るために。暗殺ではなく、護衛のために。
それだけのことだ。だが、その「それだけ」が、カラスにとっては生まれ直すほどの変化だった。
足音が聞こえた。
リヒトだった。市壁の上に来て、カラスの隣に立った。
「聞いた。黒衣を解散したそうだな」
「ああ」
「いい判断だ」
「お前に言われると複雑だな。お前も影だったろう」
「俺はまだ影だ。だが、この街の影だ。以前は王国の影だった。影にも種類がある」
「種類、か」
「ああ。守る影と、壊す影。俺たちは守る影になった。それでいい」
カラスが鼻で笑った。
「守る影。悪くない」
二人の影が、夕日の中で並んでいた。黒い外套と灰色の外套。色は違うが、向いている方向は同じだった。
市壁の下から、マルタの声が聞こえた。
「カラスさーん! りんご取っておいたよ! 今日のは特に甘いよ!」
カラスの口元が動いた。笑みとは呼べない。だが、それに限りなく近い何か。
「……行くか」
「行くか、とは」
「りんごだ。マルタ殿が呼んでいる」
「お前、本当にりんごが好きだな」
「誰にも言うなと言ったはずだ」
「もう街中が知っている」
カラスが市壁を降りていった。リヒトが後に続いた。
影の男が、りんごを買いに行く。光の中を。
それが、カラスの選んだ道だった。




