【第186話】癒えない傷
祝祭の翌日、晴貴は一人で歩いていた。
ティナには「少し出てくる」とだけ言った。どこに行くかは言わなかった。言えば、ティナは一緒に来ると言うだろう。だが、これは一人で行かなければならなかった。
◆
ハインツの家は、市場の裏通りにあった。
鍛冶屋の息子。二十三歳。半年前に防衛隊に志願した。前夜に「怖い」と言い、ギルバートに「怖くていい」と言われ、朝の戦闘で矢を受けた。
家の前に立った。小さな家。壁に鍛冶屋の道具が掛かっている。父親の道具だ。
扉を叩いた。
開けたのは、五十代の男だった。目の下に深い隈がある。痩せている。息子を亡くしてから、あまり食べていないのだろう。
「……領主様」
「ハインツさんの、お父上ですか」
「はい。ハインツの父、ロルフです」
「お時間をいただけますか」
通された部屋は、狭かった。壁に、ハインツが使っていた鍛冶の金槌が掛かっている。小さい頃から父の仕事を見て育ったのだろう。その金槌の隣に、防衛隊の腕章が置かれていた。
「あの子は、領主様に憧れていました」
ロルフが茶を淹れながら言った。手が震えている。
「錬成士が街を変えた。自分もこの街を守りたい。そう言って、防衛隊に入りました。鍛冶屋を継げばいいのに、と言ったんですが——聞かなくて」
「……すみません」
「謝らないでください。あの子は自分で選びました。領主様のせいではありません」
ロルフの声は穏やかだった。だが、茶を注ぐ手が止まった。
「ただ——」
声が詰まった。
「ただ、朝、あの子が出ていく時に、"行ってくる"と言ったんです。"行ってくる"と。いつもの朝と同じように。いつもの声で」
ロルフの目から涙がこぼれた。拭わなかった。
「あの"行ってくる"が、最後の言葉でした。普通の言葉だったんです。特別な言葉じゃなくて、ただの"行ってくる"で——」
晴貴は黙って聞いていた。石を握る手が、膝の上で震えている。
癒しの力がある。骨折を治し、傷を塞ぎ、病を退ける。だが、この父親の涙は、石では癒せない。失われた息子は、どんな錬成術でも戻らない。
「ロルフさん。俺には、ハインツさんを生き返らせる力はありません。癒しの錬成士ですが、死は癒せない」
「わかっています」
「だが、一つだけ約束できます。ハインツさんが守った街を、守り続けます。この街が続く限り、ハインツさんの名前は銘板に残ります。忘れません」
ロルフは膝の上で拳を握った。
「……あの子の金槌を、鍛冶屋の親方に預けました。親方が"弟子の道具として使う"と言ってくれました」
「親方が」
「はい。あの子は鍛冶屋にはなれなかったけれど、あの子の道具は、次の弟子が使ってくれる。それが——あの子が残したものだと、思いたいんです」
晴貴は頷いた。言葉が出なかった。
帰り際、ロルフが玄関で頭を下げた。
「領主様。あの子を叱らないでください。怖がりでしたが、最後まで立っていました」
「叱りません。ハインツさんは、この街の英雄です」
「英雄、ですか。あの子が聞いたら照れるでしょうね。照れ屋でしたから」
晴貴は家を出た。
通りを歩きながら、ポケットの中の石を握った。温かい。だが、この温かさをロルフに渡すことはできなかった。「息子を失った父親の痛み」を癒す石は存在しない。
市場を通り過ぎた。マルタの店の前を通った。マルタが声をかけてきたが、晴貴の顔を見て言葉を飲んだ。代わりに、黙ってりんごを一つ差し出した。晴貴は受け取り、齧らずにポケットに入れた。
マルタは何も聞かなかった。果物屋の女主人は、聞くべき時と黙るべき時を知っていた。
◆
次に、ダミアンの遺族を訪ねた。
ダミアンは南方連合の兵だった。エルダンの住民ではない。遺族はエルダンにはいない。
だが、レオスが情報を持っていた。
「ダミアンには、港に妻と娘がいる。娘は四歳だ」
「手紙を書きたい」
「手紙か。俺が届ける。南方連合に戻る時に、直接渡す」
晴貴は政庁の執務室で手紙を書いた。何度も書き直した。
最初は公式な弔辞を書こうとした。だが、途中でやめた。四歳の娘が読む手紙に、公式の言葉は要らない。
最後に書いたのは、短い文だった。
「ダミアンさんの奥様とお嬢様へ。
ダミアンさんは、この街を守ってくれました。
市壁の上に立ち、最後まで戦い、この街の人々の命を守りました。
あなたのお父さんは、とても勇敢な人でした。
この街の銘板に、ダミアンさんの名前が刻まれています。
いつか、この街を訪ねてきてください。
その時は、温かいスープを用意してお待ちしています。
リフレア連邦代表 葵晴貴」
レオスが手紙を受け取った。
「……短いな」
「長い手紙は読まれない。それに、四歳の娘に難しい言葉は要らない」
「そうだな。……俺が渡す時に、スープの話も添えておく」
「頼む」
レオスが手紙を懐にしまった。
「領主殿。一つだけ」
「何だ」
「ダミアンは、俺の隣を走って市壁に駆け上がった男だ。足が速くて、口が悪くて、酒が好きだった。港の荷役をしていた時は、仲間から"鉄腕"と呼ばれていた。荷物を片手で持ち上げるからだ」
「鉄腕、か」
「ああ。そんな男だった。名前だけじゃなく、どんな人間だったかも覚えておいてほしい」
「覚えておく」
レオスが頷いて、部屋を出ていった。
扉が閉まった後、晴貴はしばらく机の前に座っていた。
鉄腕のダミアン。足が速くて、口が悪くて、酒が好き。四歳の娘がいる。市壁の上で梯子を落とし、足を滑らせて落ちた。
名前だけでは足りない。どんな人間だったかを覚えておく。レオスの言葉は正しかった。銘板に名前を刻むだけでは、追悼にはならない。その名前の後ろにある人生を知らなければ。
ハインツは照れ屋の鍛冶屋の息子。ダミアンは鉄腕の港の男。二人とも、この街のために戦い、倒れた。
手紙の最後に「スープを用意してお待ちしています」と書いた。四歳の娘がいつか読む手紙に、スープ。馬鹿らしいかもしれない。だが、この街はそうやって人を迎えてきた。スープで始まり、スープで繋がる。
◆
夕方、晴貴は工房に戻った。
作業台の上に、石が並んでいる。ヒールアロイの欠片。青い光。
手に取った。光った。温かい。
この石で、多くの人を癒してきた。骨折も、切り傷も、病も。だが、ハインツは癒せなかった。ダミアンも。
癒しの力には、限界がある。死者は戻らない。失われた時間は戻らない。「行ってくる」の声は戻らない。
だが、残された者に寄り添うことはできる。ロルフに会いに行くことはできる。ダミアンの家族に手紙を書くことはできる。
癒せないものがあることを認めた上で、それでも手を伸ばし続ける。
リセが言った言葉を思い出した。「癒しの原点は力ではなく手を伸ばすこと」。
石がなくても、鉱脈がなくても、手紙一通でも、訪問一回でも。
手を伸ばすことはできる。
扉が開いた。ティナだった。
「おかえりなさい。どこに行ってたか、聞いてもいいですか」
「ハインツの父親に会いに行った。それと、ダミアンの家族に手紙を書いた」
ティナは少し黙り、それから頷いた。
「一人で行ったんですね」
「ああ」
「次は、一緒に行かせてください。領主様一人で背負わなくていいです」
「……ああ。次は一緒に」
ティナが工房の椅子に座った。隣に。半歩の距離。
二人で、石の青い光を見ていた。
癒せるものと、癒せないもの。その両方を抱えて、この手は明日も動く。




