脱走
真夜中を過ぎて辺りがすっかり寝静まった頃、瑛莉はゆっくりとにベランダの窓を開けた。ここでバレてしまっては元も子もないのだ。
しばらく待って誰も部屋に入って来ないことを確認すると、バルコニーの格子に幾重にも折った布を通して慎重に手すりの向こうへと身体を移動させる。
前回は隣の部屋に移動したが、今回は真下の部屋への移動となった。布の耐久性には若干不安は残るものの数秒持てば良いし、内側に体重を掛ければ落ちたとしても大した怪我ではない。多少怖くはあるが、時間を掛ければ掛けるほど見つかりやすくなる。
瑛莉は一つ深呼吸をすると、落下地点だけを考えて行動に移した。身体をかがめて真下に下りるように飛び降りれば両腕にぐっと体重が掛かるのを感じたが、足元のバルコニーまでの距離はせいぜい脚立程度だと瞬時に目算した瑛莉は握りしめた布から手を離す。
ぴっと布が裂ける音を聞きながら、両足で着地したものの衝撃を殺しきれず地面に倒れ込んだ。
両腕で身体を庇うように息をひそめながらゆっくり三十秒数えて、夜の静寂が保たれていることを確認すると瑛莉はようやく身体を起こして息を吐く。
(……ここまでは大丈夫だ。あとは夜明けまで室内で待ってから動くだけ――あれ?)
室内に入ろうと窓に手を掛けたが、僅かに動くだけで開かない。まさかの事態に焦りながらさらに力を込めるがびくともせず、鍵が掛かっているという事実に頭が真っ白になる。
(え、だって掃除の時に手間だから窓にいちいち鍵なんて掛けないって言ってたじゃない!)
掃除中のキャシーを観察しながら、暇つぶしに掃除方法などを質問している際に得た情報だったが、だからこそ嘘を吐く必要もなく開いていて当然だと思い込んでいたのだ。
(まずいな……ガラスを割ると流石にバレるかも。……でもさっきの要領で一階まで下りるほうがリスクは高いか)
足元の布を拾えば既に三センチほど破れていて、体重を掛けた瞬間真っ二つに裂けてしまうだろう。
溜息を吐きながらどうしたら音が響かないようにガラスを割れるか考えていると、カチリと小さな乾いた音が耳に届いた。
思わず身体を強張らせる瑛莉をよそに窓が開き、囁くような声に目を瞠る。
「エリー様、中にお入りください」
驚きながらも声に従い部屋に入れば、すぐさま窓が閉まり音を立てないようにカーテンが引かれて室内が真っ暗になる。
「ジャン、何でここにいるんだ?」
「……エリー様はすぐに無茶をするからと副団長に頼まれまして。第一騎士団の手前、陰ながら見守っておりましたが、まさか本当にこんな無茶をされるとは思いませんでした」
少し呆れたような声音に顔が見えなくてもジャンが眉を下げているのが分かったが、瑛莉には確認すべきことがあった。
「ディルクはいつ出発予定になっている?」
「……予定を告げればエリー様は討伐隊に合流しようとしますよね。副団長からはエリー様の身の安全を最優先にと言われていますので、申し訳ございません」
仕事に徹しようとしているのか先ほどとは打って変わって、一線を引くようにジャンは淡々とした口調で答えた。
「私がいる場合といない場合、生存率はどっちが高いと思う?」
瑛莉の質問にジャンは答えようとしない。自分でもずるいなと思いながらも、ジャンの良心に訴えてでもここから逃げ出してディルクと合流しなければならないのだ。
(勝手に死なれても目覚めが悪いし、魔王のことを何とかしてもらわないといけないからな)
ディルクのためではなく、あくまでも自分のためである。ジャンが瑛莉の安全を最優先するというのなら、そこを納得してもらえばいい。
「討伐隊のメンバーはジャンも知りあいのはずだろう?……それにディルクならちゃんと私を守るだろうし、本当にやばい時はちゃんと逃がすと思う。私だって命は惜しいから、その時は全力で逃げるよ」
それだけ伝えると瑛莉はジャンの言葉を待つことにした。瑛莉を見逃すということは王族であるヴィクトールに逆らうということだ。巻き込みたくはないが、本来ジャンはここにいるはずではないのでなかったことにしてくれればいい。
そんな風に願いながらしばらく無言の時が過ぎ、瑛莉の目が暗闇に慣れてきた頃、ジャンはようやく口を開いた。
「分かりました。ただし私も同行しますので、絶対に離れないと約束してくれますか?」
「……いや、見なかったことにしてくれたら十分だ。下手したらジャンも反逆罪に問われるぞ」
口を開く直前、ジャンはまるで痛みを堪えるかのような、耐え忍ぶような表情を浮かべたように見えた。それに気を取られながらも答えれば、ジャンはいつもと変わらない表情で穏やかに告げた。
「特に塁が及ぶ家族などもおりませんから、ご心配なく。エリー様をお一人で行かせるほうが恐ろしいです」
正直なところジャンが味方になってくれるのならこれほど心強いこともない。
元々の計画としては夜明けと当時に通いの下働きに混じって城から出て、街で情報収集しながらトルフィ村を目指すというものだ。
しかし地理や移動方法の知識が乏しい瑛莉が無事にたどり着けるのか分からない。また脱走が明るみになれば状況はさらに困難となるのだ。最終的には聖女の立場を振りかざし我儘を通す方法も考えなくはなかったが、成功率は低いだろう。
(でも貴族という後ろ盾がないのなら、ジャンの処罰は相対的に厳しくなるんだよな)
失敗した時のことを考えればどうしても二の足を踏んでしまう。
そんな瑛莉の心情を察してか、ジャンはさらに言葉を重ねた。
「それに俺は元々討伐隊に志願するつもりでした。向こうで功績を挙げれば相殺されずとも最悪の事態にはなりませんよ」
「……ありがとう、ジャン」
申し訳なさと安堵が入り混じった状態で礼を言えば、ジャンは淡い微笑みを返してくれたのだった。




