92 呼べない名前
小さな窓から、昼前の明るい日差しがシンクをきらきらさせている。
鼻唄を歌いながら野菜を刻んで、くふっと笑みが漏れた。
「おールルアちゃん、随分ご機嫌じゃねえか」
「そ、そうかな?! ちょっと、思い出し笑いしちゃっただけ!」
慌ててローラを誤魔化して、きゅっと表情を引き締めた。
だって、笑っちゃうよ。
ぶっすり不貞腐れた顔が、まるで子どもみたいで。
「ローラはさ、犬を飼ったらどんな名前にする?」
「え? ルルアちゃんにはもう名前があるだろ?」
「なんで僕?!」
確かに……そう言えば確かに判明しちゃったわけだけど。
僕、魂が混じってるんだなあって。
それも、あの――。
ぶふっと派手に吹き出して、慌てて澄ました顔を取り繕った。ローラの生ぬるい視線が痛い。
あの夜、ゆっくり……それはもうディアンに荒っぽく起こされるまで寝ていた僕は、帰る前に絶対に聞いておこうと師匠にまとわりついたわけだけど。
それがもう、師匠ってばちっとも教えてくれない。犬の名前だよ? ただの犬の名前! やっぱり、僕と混じっているという秘密を抱えているから……? じゃあないね。
うん、少し表情の豊かになった師匠は、どう見てもそういう重大な顔をしていなかったから。
「――ケチ! ケチンボ師匠! 犬の名前を教えるくらい、何がダメなの!」
「うるせえ! 名前なんか呼んでねえ!」
「呼んでなくたってあるんでしょ、教えてよ!」
僕のことだって大抵『おい』ですませるんだから、そりゃそうだったかもしれないけど。
でも、実際名前はあるんだからさ! なんで教えてくれないんだろ。
すっかりむくれながらヴェルさんに乗った時、ばさっと羽ばたいたヴェルさんが、意味深に鳴いた。
そして、僕用にだろう、ゆっくり、一文字一文字を浮かべてみせる。
「巻き戻し……じゃなくって、再現? 言葉……あ、複唱するってこと?」
「クァ」
「このっ……てめえ!」
何を? と思ったけれど、下で怒っている師匠を見てハッとした。
そ、そうか! ヴェルさんも犬の名前を知ってる! 古代魔法文字でも、音なら再現できる!
うん、と力強く頷いた僕に、ヴェルさんがゆっくり飛びながら文字を浮かべる。手の届きそうな低空にいるのは、絶対わざとだ。
なんとなく、ディアンが『ウゼえデカ鳥』と言っていたのが分かる気がする。
後ろのディアンも少し身を寄せたので、きっと興味が出てるんだろう。だって、あんな頑なに言わないんだもの。
「えっと……うん、音だけ、訳さないってことだね!」
多分、犬の名前は古代魔法文字じゃあないってことだ。
何も見逃すまいとその金色の文字を見つめ、ひとつひとつ音へ変える。
「『い』『ち』『ご』……え」
ぐっ、と後ろでむせた音がする。い、いや待って、まだ続いてる。
もしかすると、イチゴリディアとか、そういう可能性が――
「『く』『り』『い』『む』――ッ!!」
「クアァ」
だ、だめ、師匠がすぐそこで……!!
正解、と言いたげな声がする。必死で体を丸めて、ヴェルさんの羽毛に顔を突っ込んだ。
く、苦しい。お腹がよじれそう……! そしてディアン、震えすぎ!
「俺じゃねえ! 元からだ!!」
やっと高く上昇し始めたヴェルさんの下で、師匠の怒鳴り声がする。
そ、そっか。うん、それは言えないね。
確かに師匠は犬の名前を呼んでなかっただろうな、と想像して、ますます笑いが止まらない。
「かわいい名前だね!」
「うるせえ!!」
ようやく顔を覗かせ、小さくなっていく師匠に声を落とした。
もう見えなくなったのが残念だ。きっと、見たことない顔をしていただろうに。
「クカカカカ」
「ヴェルさん……結構いたずらっ子だよね」
「そんなかわいいもんじゃねー」
晴れ晴れした顔でくちばしを鳴らしたヴェルさんが、急に動物じみた顔できゅるっと首を傾げてみせる。そんな顔しても、もうダメだよ。
「あはは、もうホントに、もっと早く教えてくれたら良かったのに! 僕、余計なことで悩んで……あれ? 悩み自体はたまたま合致していたわけだけど。だって僕、実際犬の魂はちょびっと混ざってるんだもんね。あの子、い、いちご――」
「いちごくりーむ」
ことさら低い声が耳元で聞こえて、ごふっ、と吹き出してむせた。ちょっとディアン?!
やめて?! 師匠がひくぅい声で呼んでいるところを想像しちゃったじゃない!
案外ディアンは平気で言えるんだ、と振り返ると、悪い顔でにやっと笑った。
「野郎の弱みなら、問題ねえ」
「そ、そういうもんなの?」
「次の土産は決まったな」
「ディアン……行きたがらないくせに」
あんまりいいことではない気がするけど、機嫌の良さそうなディアンにくすくす笑った。
遥か高く、風の光る空を行きながら、随分今の僕は軽いだろうと思う。
ヴェルさんに乗せてもらわなくたって、飛んでいけそうだ。
「僕、なんで重かったのかサッパリわからないな」
「いや……まだ重くてフツーだと思うけどな……」
「そう? でも僕、いちごくりーむの魂と一緒で嬉しいよ! 全然嫌じゃないもの」
くっとお腹に力の入ったディアンに、僕も遠慮なく笑って――。
――ヴェルさんの背で空を行く感覚を思い出し、野菜を刻む手を止めて目を閉じた。
風が柔らかく僕の両ほっぺを撫でていく感触。ふわふわそよぐ髪。音が、匂いが薄くなる感覚。
「ルルアちゃん、もう沸いてるぞ。入れられるか?」
「あっ、うん!」
一気に意識が地上へ引っ張り戻され、調理中の半端な匂いで鼻腔いっぱいになる。
大急ぎで残りを刻んで、鍋へ放り込んだ。
「ルルアちゃん、犬を飼いたいのか?」
「えっ僕? ううん、そういうわけじゃないけど?」
「じゃーなんで犬の名前?」
あ、そうだった。ローラに話を振ったままだったことを思い出し、ふとお腹につっかえるものに意識が向いた。
そっと撫でて、丸い存在感を確かめる。
じゃあ、この子にもとびっきりかわいい名前をつけてみる?
何がいいかな。アレを越えるのは、中々難しい。ディアン、眉間にしわを寄せた不機嫌顔で呼んでくれるんだろうか。
「犬じゃないけど、トカゲは飼うつもりだよ!」
「トカゲぇ?」
そっとキッチン台に取り出した卵は、僕の手の平より大きい。
生きているんだな、とにっこりした。
だって、大きくなってる。
「トカゲの卵かぁ……なんかもっとカワイーのにしようぜ? ルルアちゃんに似合いのさ。その点、柔らかタワシとかいい感じだと思う!」
「るっ!」
言ってることが分かったらしいグリポンが、どうやら怒っている。
『柔らかタワシ』でも自分のことだと認識するあたり、結構賢いのでは。
……力はないけど。いとも簡単にあしらわれ、意気消沈して窓辺で拗ねている。
そういえばグリポンの名前は、結局決まらないまま……もはやこれが名前のように定着してしまっている。
そもそも造語だもの、名前でいいんだろうか。
せっかくディアンがつけてくれたし。いい意味ではなかったけども。
僕はそっとグリポンをすくい上げると、おひさまに温められた羽毛の香りを吸い込んだ。




