86 食いきれずに腐るから
「幽霊茸……こんなになっちゃった……」
すごく長かった気のする一夜が明け、もうすぐ人の暮らす場所へ帰り着く……そんな折。
しっかり握っていたはずの袋がぺしゃんこになっていて、まさか落としてきたかと思ったけれど、そうではなかった。
取り出したのは、ひらひらした半透明の干物のよう。
ぺたんこになってる……どうして?
見る影もない幽霊茸だったものを手に、しょんぼり肩を落とした。もしかして、依頼失敗だろうか。でも、確かに採ったのに。
……いくらしみじみ眺めてみても、ぺたんこになった幽霊茸は変わらない。
切り替えよう。僕のはダメになってしまったけれど、ディアンはどうだろう。
そう思って振り仰いで――
「ねえ、ディ……え?」
サッと顔を背けたディアンに、きょとんとする。
……何かおかしいことがありましたか。そんな、口元を抑えて堪えるほどに。
むっとむくれて見上げると、肩を震わせていたディアンが、ようやく息を整えた。
「それで、フツー。それが幽霊茸だ」
「これで……? じゃ、じゃあ大丈夫なの?!」
ぱあっと瞳を輝かせた僕を見て、また発作に襲われたディアンが顔を背けた。
……ディアン? 今、笑うところではないよ?
あと僕、もうちょっと早く教えてくれても良かったと思うんだ。なんで黙って見てたの?
むっすり頬を膨らませた僕は、歩く速度を速めて町へ向かったのだった。
「――凄いね……?! こんなにもらえるんだ! 薬草ともゴブリンとも、全然違う!」
報酬をもらって興奮冷めやらぬ僕に、溜め息が落ちてくる。
「てめえの命は随分安いと思わねえのか」
「あっ、そっか。でも……どうだろうね? 僕、そんなにお値段つくかなあ」
確かに、奴隷売買の闇市は金貨が当たり前だと言うし。
僕、孤児だからその点は大幅マイナス。ただ魔法使いだから……それに、まだ若い。なるほど、結構な価値があるかもしれない。
それを思えば効率は悪いし、ただのお肉となって魔物に食べられるのは、あまりにもったいない。
「でもさ、僕を売ったら僕の自由がなくなるわけだし。お金があっても……」
「そういうことを言ってんじゃねえ……!!」
違ったらしい。割りと真剣に考えたのに。
「分かるよ、もったいないよね。だって、いっぱい頑張って、いっぱい貯めて来たものがあるんだもの。僕も、ディアンも。大事にしようね!」
「……俺はひと山いくら、だ」
ため息交じりの声に、唇を尖らせた。
「ディアンがたくさんいたら、そうかもしれないけど。いないじゃない」
「俺みてえなのはいくらでもいる。てめえは、自覚しろ」
「甘く見すぎたよ、ディアンは」
「あァ?」
途端にまなじりを険しくしたディアンが、真正面から僕を見る。
ねえ、その瞳。
「ディアンの経験は、ディアンにしかないから。経験ってものの価値を、甘く見てるよ」
力のほとばしるような、その生命力に満ち満ちた瞳。朝日と夕日の橙。ああ、命だなあと、そう思う。
それを、どうやって手に入れたの?
ね、選択なんて無限にあるんだから。
「……マジでてめえはどういう神経してんだ」
ふいに、がしっと目を……というか顔を塞がれた。濃橙の瞳を存分に眺めていられたのに、大きな手で顔半分が覆われてしまう。
不機嫌な声音に、言わんとすることは分かるものの、しょうがないでしょう。僕なんだもの。
僕の言いたいことも、少しは伝わればいいんだけど。
「ディアンがわからなくても、僕が大切にするからね!」
「はぁ……? 先にてめえの身を守れるようになってから、大口叩きやがれ」
非情にごもっともなことを返され、うっと言葉に詰まった。
でも、逆に言えば僕が身を守れるようになれば、好きなだけ言えるってことだ!
えへっと笑った僕に、ディアンが額に手を当てて息を吐く。
どうやら、ディアンの想定と違うらしい。
こういう選択をするから、僕なんだな。そう思って可笑しくなった。
ねえ。人間一人に積み上がる経験と選択って、いったいどのくらい……?
黙って歩き出したディアンの横につきながら、教会とは違った方向に首を傾げる。
「どこに行くの?」
「食材店」
あ、そうか。お魚は魔物じゃないものね。
道中狩ったような小物類は、お肉としても素材としても売れないらしく、教会へのおみやげになる。
お魚も半分くらいは教会用にとっておくんだって。
街歩きも慣れたもの。遅れないようちょこちょこ駆けながら、収納から本を引っ張り出した。
これは、ミラ婆さんから借りた食材の本。こんなところで役に立つとは思わなかったけれど。
幽霊茸は食材じゃないらしく載っていなかったけれど、お魚は……あった!
「レッド・シロウロスだって! 赤かったかなあ……? あ、ヒレの話?」
すごく美味しい、だったらいいなと思ったけれど、食用であることしかわからなかった。
僕が食べられるところだったけれど、なんて思ったら可笑しいような……そうじゃないような。
ふと、ぱらら、とページを捲った。
すごい、な……。人間には文字がある。
人間一人に積み上がる経験と選択を、他に分けることもできるんだから。
恐ろしい生き物だ。個の経験を群れに、これほど多くに、正確に伝えられる生き物がいるだろうか。
グリポンを思い出して、ふふっと笑った。
個であり群れである彼らほどではなくたって、人間もわりとすごいでしょ。
なんだか身震いするような心地。僕の中に詰まった知識は、一体どのくらいの人生分だろう。
「……やっぱり、もったいないよ。大事にしなきゃ」
「欲張ったところで、どうせ、食いきれねえで腐るだろ」
「……!!」
僕は、はっと目を見開いた。
ディアンが、訝しげにしながら大きな食材店へ入っていく。
そうか、そういうこと。師匠がしたいことは。
腐らせてしまうより……。
「ディアンは……凄いね! なんて賢いんだろう」
「…………そうか」
そんなぬるい視線を気にも留めず、僕は渾身の笑みで見上げた。







