朝の4時、ロワールに座す
夏休みの一日は、魔術に始まり、魔術に終わる。それは日曜日とて変わらない。
マダム・リーは毎朝4時に現れる。
例によって、きちんとした身なりで、ドアを三度叩き、部屋にふわりと入ってくる。毎晩1時までパーティーをしているのに、そんなことをみじんも感じさせない。
ベッドから跳ね起き、マダム・リーの顔を見ただけで、言いたいことを悟った。
「すみません」
いきなり謝った。
「なぜ謝る?」
マダム・リーがその眼を光らせた。
「昨夜、眠るのが遅くなって、まだ身支度ができていないからです。でも30秒ください。30秒で支度します」
マダム・リーがベッドを見つめている。その瞳の中に魔法陣が浮かぶのが見え、驚いた。
「おばあさま?」
「だとしても」
マダム・リーがピシャリと言った。
「どんな時でも胸を張れ」
「はっ、はい」
マダム・リーが左の人差し指を上に向け、何個か円を描いた。その途端、あっという間に洗髪&スタイリングされ、歯が磨かれ、顔が洗われる。全身をシャワー後の爽快感が駆け抜けたと思ったら、もうパジャマが、開襟シャツと黒いズボンに変わっている。
「これなら30秒とかからない」
マダム・リーの言葉に頷く。
既にマダム・リーの指の動きも、描いた魔法陣も頭の中に入った。
この点は、どんなに寝起きだろうと寝不足だろうと何だろうと魔術を覚えるとなると、いささかの乱れもなく頭が回転する。しっかり覚えてしまった。
この覚えたことが、そのまま使えればどんなにいいだろう……でも今の魔法陣は描くのにさほど難しいものではない。もしかしたら、奇跡的にできるかもしれない。そもそも、マダム・リーの服のチョイスは固くるしい。ジーンズにTシャツに着替えたい。指を動かそうとした時だった。
「クリス、お前が犯人ではないことは分かった」
マダム・リーの声が低く、冷酷に響いた。
「犯人って何の話ですか?」
「昨夜、書庫に入った人間がいる」
「えっ!」
咄嗟にマリーの顔が浮かんだ。
「心当たりがあるようだな」
「何のことでしょう?」
とぼけようとしたが、もう遅かった。マダム・リーに既に読まれている。思わずマダム・リーの左手の薬指を見た。拘束具の指輪がはまっている。それなのにどうして心が読めるんだ? もっともそんなことは怖くて聞けない。
「マリーに教えたのか?」
これは、バラの図書室の奥にある秘密の書庫のことだ。リー一族の護る禁忌に近い魔術があるほか、最大の使命に関わるものがある。
そのため書庫へアクセスできるのはリー一族の当主マダム・リーと孫である俺クリストファー、そして3賢人と呼ばれている従伯父レオンとルドルフそして従伯母のクロエしかいない。
とはいえ3賢人といえど、通常時、アクセスは禁じられている。マダム・リーからの要請があり、かつマダム・リーと一緒に、でなければ入っってはいけない。つまり許可なく出入りできるのはマダム・リーと孫の俺しかいない。いくらマリーでも、あんな大切なところに入れるわけがない。
「なるほどお前が教えたのではないのか」
マダム・リーがひとり頷いた。
「マリーに直接聞くとするか」
ぼそりと恐ろしい言葉をはいた。昨日のマリーの様子を考えれば、マダム・リーの尋問で倒れかねない。
「待ってください。まだマリーと決まったわけではないのですよね」
「昨日の午後も忍び込んだ」
だから夜も忍び込んだと言っているのだ。確かにマリーは可愛い顔して、結構大胆だ。夜中に忍び込むなんて普通は考えないが、マリーは分からない。動揺する心を鎮めるよう、ゆっくりと呼吸をする。
「書庫内で盗まれたものがあるのですか」
「いや。しかしあそこは秘密の書庫だ。入ること自体許されない。たとえ偶然だとしても」
偶然! いいことを教えてもらった。
「偶然に入れる場所ではないですよね。マリーは書庫の扉を開錠できないはずです」
「3賢人の一人、ルドルフはあの子の父親だ。開錠できる」
「でもルドルフさんが教えるとは思えません」
「ルドルフは真面目な男だが、娘を溺愛している」
「だからこそ、愛しているからこそ教えるとは思えません。そんなことしたら、おばあさまがマリーを許さなくなるじゃないですか」
マダム・リーが乾いた笑い声をたてた。
「なるほど。なあクリス、では犯人は誰だと言うのだ」
「それは……物取りではありません」
「そんなことは分かっている。やはりマリーに聞く」
マダム・リーが踵を返した。
「待ってください」
マダム・リーの腕を掴んだ。マダム・リーは振り返り、冷ややかな青い瞳を細めた。
「犯人は俺が見つけます。だから」
「マリーを尋問するなと?」
「はい、マリーは犯人じゃありませんから」
マダム・リーは考えるように押し黙っていたが、やがて
「3日だ」
絞り出すように言った。
「この件、3日で犯人を見つけること。再発を防ぎ、上手く処せれば今回の件は不問に付してやる。それからもう一つ、解決まで魔術の授業はなしとする」
「わかりました」
震える足を悟られないよう膝を折り、マダム・リーへ頭を下げた。




