25.第二十五話
敗北とは、戦場で兵士が倒れることだけを指すのではない。組織としてのプライドが砕かれ、指揮系統が崩壊し、そして「二度とあの相手には逆らえない」という恐怖が骨の髄まで刻み込まれた状態――それこそが、真の敗北である。
霞が関。旧・内閣特務呪術管理局本部。かつて日本の裏社会を牛耳っていた威容は、今や見る影もなかった。外壁は穴だらけ。窓ガラスは全て割れ、内部は紫色の毒ガスの残り香(悪臭)に満ちている。
だが、物理的な崩壊以上に深刻なのは、精神的な崩壊だった。
「……誰が行くんだ」
瓦礫の山と化した会議室で、生き残った幹部の一人が震える声で言った。議題は一つ。御堂アリスへの「完全降伏勧告」の使者を誰にするか、である。
「局長は死んだ。副局長は精神崩壊して入院中だ。……誰かが行って、頭を下げてこなければならない」
「嫌だぞ! あんな悪魔の巣窟に行けば、生きて帰れる保証はない!」
「そうだ! 塩漬けにされて壺に入れられるかもしれん!」
なすりつけ合い。罵り合い。誰もが、あの「鏖殺の魔女」の顔を思い浮かべるだけで、失禁しそうなほどの恐怖を感じていた。
だが、行かなければならない。放置すれば、次はどんな災害が降りかかるか分からないからだ。
「……くじ引きだ」
「なんだと?」
「公平に、くじで決めよう。……生贄を」
国の行く末を決める会議とは思えない、情けない結論。そして、運命の女神は残酷だった。あるいは、一番「失うものが大きく、一番死にたくない人間」を正確に選び抜いたのかもしれない。
「……あ、あぁ……」
選ばれたのは、入局二年目の若手職員だった。二十代後半。新婚。そして何より、昨日、第一子となる女の子が生まれたばかりの、幸せの絶頂にいるはずの男だった。
「頼むぞ。……日本の未来は、君の土下座にかかっている」
「君が犠牲になれば、遺族年金は弾むから」
上司たちの無責任な言葉が背中を押す。彼は絶望で膝を震わせながら、それでも立ち上がった。
プライドなどない。国のためでもない。ただ、生まれたばかりの娘の顔を、もう一度見たい。
その一心だけで、彼は地獄への片道切符を握りしめた。
翌日。株式会社クライシス・クリーンサービス、事務所。
「……へぇ。そうなんだ」
会長はソファに深々と腰掛け、退屈そうに爪を磨いていた。彼女の目の前には、一人の男が土下座をしている。
局から派遣された「生贄」の職員だ。彼は額をカーペットに擦り付け、震える声で口上を述べたばかりだった。
「は、はい! 我々の……いえ、旧・管理局の総意として、全面的に非を認めます! 今後は貴社に対し、一切の干渉を行わないことを誓います! ですので、どうか……どうか、手打ちをお願いしたく……!」
必死の懇願。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼は許しを請うた。俺――佐藤健太は、その姿を少し離れた場所から見ていた。
同情する。俺も入社初日に同じようなポーズ(土下座)をしたから、彼の気持ちは痛いほど分かる。
「ふーん。手打ち、ねぇ」
会長は爪磨きを置き、テーブルの上の紅茶を一口飲んだ。その視線が、男の頭上を越えて、部屋の奥にある棚へと向けられる。そこには、禍々しいオーラを放つ「黒い壺」が置かれていた。
『蠱毒の壺』。先日、彼らが新宿に放った特級呪物だ。桃が物理的に投げ返し、局長室で完全粉砕されたはずだが、その後会長が自ら回収しに行き、片手で修復・再封印して持ち帰ってきたのだ。
曰く、「インテリアに丁度いいわね」とのこと。大魔王のセンスは理解不能だ。
「……あ、あの……」
「いいわよ」
会長があっさりと答えた。
「え?」
「手打ち、認めてあげる」
男が顔を上げる。信じられない、という表情だ。もっと罵倒され、法外な要求をされ、指の一本や二本詰めさせられると覚悟していたのだろう。
「面白かったもの」
会長はニッコリと笑った。
「パニック映画みたいで、スリル満点だったわ。特に、自分の放った毒ガスで自滅するラストシーンなんて、皮肉が効いてて最高だった」
「あ、ありがとうございます……?」
「だから、許してあげる。……『今回は』ね」
男の体から力が抜けた。助かった。生きて帰れる。安堵で涙が溢れ出しそうになるのを、彼は必死に堪えた。
「ありがとうございます! 寛大なご処置に感謝いたします! では、私はこれで……!」
男が立ち上がり、逃げるように出口へ向かおうとする。だが。
「待ちなさい」
冷ややかな声が、彼の足を縫い止めた。
「タダで帰れると思った?」
「えっ……」
「映画を見たら、料金を払うのが常識でしょう?」
会長は氷室先輩に合図を送った。氷室先輩は無言で頷き、一枚の書類を男に手渡した。それは、請求書だった。
「今回の騒動に関する、諸経費と慰謝料の請求書よ。……期限は明日まで。一括でね」
男が恐る恐る書類に目を通す。次の瞬間、彼の目が限界まで見開かれた。
「きゅ、キュウ……!?」
声にならない悲鳴。俺も気になって、横から書類を覗き込んだ。そこには、とんでもない数字が並んでいた。
『請求額:金900,000,000円也』
九億円。宝くじの一等前後賞を合わせても足りない金額だ。
「な、なんですかこの額は! いくらなんでも……!」
「内訳を見てみなさい。適正価格よ」
会長は涼しい顔で言う。内訳欄には、こう書かれていた。
1.器物破損代(お気に入りのコップ):1億円
2.深夜残業・休日出勤手当(社員一同):2億円
3.避難誘導費(実働部隊):5000万円
4.演技指導・演出監督費(御堂アリス):5億5000万円
「はぁ!?」
俺は思わず叫んでしまった。ツッコミどころが多すぎる。
「コップ一個が一億!? どんな国宝ですか!」
「私の愛用品よ。プライスレスな価値があるの」
「避難誘導費五千万って……あのパンツ一丁で走り回ってた社長に!?」
「彼の筋肉は高いわよ?」
そして何より。
「演出監督費ってなんですか! 一番高いじゃないですか!」
「当然でしょ」
会長は胸を張った。
「良い映画には、良い監督が必要不可欠よ。私が的確な指示を出して、シナリオをコントロールしたからこそ、新宿は壊滅せずに済んだのよ? むしろ安いくらいだわ」
嘘だ。この大魔王、安全圏でワイン(に見えるジュース)を飲んで笑ってただけだ。
一番体を張った俺(フィルター役)や、現場で戦った桃や社長よりも、自分(監督)の取り分が圧倒的に多い。
これが資本主義の闇か。いや、大魔王の搾取構造か。
「……払えない、とは言わせないわよ?」
会長の声が、一段低くなった。
「資本主義社会ではね、誠意なんて言葉は何の役にも立たないの。……お金でしか解決できないことがある。分かるわよね?」
それは、「払わなければ、分かってるな?」という脅迫だった。九億。局の裏金や、政治家の隠し資産をかき集めれば、払えない額ではない。男は青ざめた顔で、ガクガクと頷いた。
「わ、分かりました……! 直ちに、上に報告し、用意させます……!」
「よろしい」
会長は満足げに頷いた。男はフラフラと出口へ向かう。魂が抜けたような足取りだ。だが、会長の追撃はこれで終わりではなかった。
むしろここからが真骨頂だった。この大魔王が世界一性格が悪いと言われる所以を俺は思い知る。
「ああ、そうそう。それから」
会長が、ソファの脇から「何か」を取り出した。そして、男に向かって放り投げた。
「持って行きなさい」
男が慌てて受け止める。それは、可愛らしいピンク色の箱に入った「ラトル」だった。赤ちゃんが振ってガラガラと音と鳴らして遊ぶ、あのおもちゃだ。
「……え?」
「第一子、おめでとう。可愛い女の子なんですって?」
男の時間が、止まった。彼の顔から、血の気が完全に失われた。恐怖。九億円の請求書を見た時とは比べ物にならない、本能的な恐怖が彼の全身を支配した。
「な、ぜ……」
彼は家族の話など一言もしていない。娘が生まれたのは昨日だ。まだ役所に届出も出していないはずだ。
なのに、この悪魔は知っている。家族構成も、住所も、生まれた病院も、全てを把握している。
「子育ては大変でしょうけど、頑張ってね。……パパがしっかりしないと、守れるものも守れないわよ?」
会長は聖母のように優しく、そして死神のように残酷に微笑んだ。
『裏切ったら、分かってるわよね?』
『お前の大切なものは、私の手の届く場所にあるのよ』
言葉にされないメッセージが、ガラガラの音と共に男の脳裏に響く。
これは祝福ではない。呪いだ。一生、会長の影に怯えて暮らせという、逃れられない鎖だ。
「あ……あ、あ……!!」
男は悲鳴のような声を漏らした。そして、脱兎のごとく駆け出した。「ありがとうございます!」と叫びながら、転がるように事務所を出て行く。
安堵と、絶望と、恐怖で涙目になりながら。ドアが閉まる音が、静寂を取り戻した事務所に響いた。
「……あははははは!!」
男が去った直後、会長はお腹を抱えて爆笑した。ソファの上で涙を流して笑う。
「見た!? あの顔! 必死すぎて傑作! あー面白い!」
「……会長、笑いすぎです」
氷室先輩が呆れたように言うが、会長の笑いは止まらない。
「だって、ガラガラ一つであんなに怯えるなんて! 九億より効いてたわよ!」
「そりゃあたりめぇだろ。一番怖い脅し方だわ」
桃がポテチを食べながら言う。彼女たちにとっては、日常の光景なのだろう。
だが、俺には笑えなかった。金も、プライドも、安心も、全てを奪い取られた男の末路。
あれは、明日の俺かもしれないのだ。
「……ねえ」
俺はポツリと漏らした。
「どっちが悪党なの?」
毒ガスを撒いたテロリスト、というか政府組織。それを止めたが、法外な金を巻き上げ、相手の人生を支配した救世主という名の大魔王。
正義とは何か。悪とは何か。
「愚問だな、佐藤君」
社長が、鏡の前でポージングを確認しながら答えた。
「強き者が勝つ。そして、筋肉のある者が強い。つまり、私が一番の正義だ!」
「論理が破綻してますよ」
「あたしはパンケーキが食えればどっちでもいいぜ」
桃が欠伸をする。氷室先輩は無言で紅茶を片付けている。誰も、俺の問いには答えない。
答えるまでもない事実だからだ。この世界に正義の味方なんていない。いるのは「強い悪党」と「弱い悪党」だけだ。
世間一般の考える正義感や倫理観など、ここでは何の役にも立たないものなのだと、俺は改めて思い知った。
「あー、スッキリした」
ひとしきり笑った会長が涙を拭って起き上がった。九億円と、完全勝利と、相手の魂を手に入れて、彼女はご満悦だ。
「さて、今日はいい気分だから……」
彼女は俺の方を見た。
「おもちゃ。貴方にも特別に『臨時ボーナス』をあげるわ」
「えっ!?」
俺は耳を疑った。ボーナス。その甘美な響き。
俺は今回、本当に頑張った。命を削って毒ガスを吸い、街を救ったのだ。
九億のうちの一割……いや、一パーセントでもくれれば、借金なんて一瞬で返せる!
「ほら、受け取りなさい」
会長が親指でピンと、何かを弾いた。空中で回転し、キラキラと輝く銀色の物体。俺は慌てて両手でキャッチした。
手の中にあるのは――。
「……え?」
五百円玉。一枚。
「…………」
時が止まった。俺は硬貨を裏返し、表返し、透かして見た。どこからどう見ても、ただの五百円玉だ。去年製造の。
「か、会長……? これは……?」
「臨時ボーナスよ。言ったじゃない」
会長は当然のように言った。
「感謝して使いなさい。コンビニの弁当くらいなら買えるでしょ?」
「ご、五百円……!?」
俺の声が裏返った。
「九億稼いで!? 俺の命の対価が!? ワンコイン!?」
「不満?」
「不満しかありませんよ! せめて、せめて諭吉(一万円)をください!」
「贅沢ねぇ。……じゃあ、来月の給料から天引きして、一万円貸してあげるわよ?」
「それ借金が増えてるだけだぁぁぁ!!」
俺はその場に泣き崩れた。五百円玉を握りしめ、床を叩く。これが格差社会。これがブラック企業。
命懸けの労働の対価は、ワンコインランチ代にも満たない。
「あははは! いいリアクション!」
会長は絶望する俺を見て、今日一番の笑顔を見せた。
「やっぱり、おもちゃはこうでなくちゃね」
彼女は楽しそうに笑い、俺たちの日常は続いていく。 理不尽で、残酷で、でも退屈だけはしない日々。
俺は涙を拭い、五百円玉をポケットにねじ込んだ。
まあいい。これで今夜は、カップ麺に煮玉子をトッピングできる。そう自分に言い聞かせて、俺は今日もまた、掃除道具を片付けるのだった。




