26.第二十六話
戦争が終わった後、敗者に待っているのは「処刑」か「奴隷化」の二択だと言われる。だが、御堂アリスという魔王に喧嘩を売った者たちに与えられた運命は、そのどちらでもなかった。
あえて言うなら、「生き地獄」だろうか。
霞が関。かつて日本の裏社会を統括していた『内閣特務呪術管理局』の残党たちが集う仮設オフィス。そこは、お通夜よりも重苦しい、死のような静寂に包まれていた。
「……また一人、辞めたか」
暫定的なリーダーを務める男が、デスクの上に置かれた退職願を見つめて呟いた。これで何人目だ。あの「新宿パンデミック事件」以来、職員の三割が姿を消した。
彼らは転職したわけではない。廃人のように目を虚ろにし、震える手で辞表を書き、逃げるように去っていったのだ。
原因は、これだ。
男は、引き出しの奥にしまっていた「黒い封筒」を取り出した。あの日、御堂アリスとの手打ちが決まった翌日に、全職員の自宅ポストに届けられた「お土産」。
差出人は不明。だが、封筒には可愛らしいウサギのシールが貼られていた。
中身を見た瞬間、男は嘔吐した。そこに入っていたのは、彼の「人生」を終わらせるのに十分な爆弾だった。裏金作りの証拠。愛人との密会写真。そして、墓場まで持っていくはずだった恥ずかしい性癖の記録。
捏造ではない。全てが真実だ。いつ、どこで、どうやって調べたのか。想像するだけで背筋が凍る。
『プレゼントよ。大切にしてね』
同封されていたカードには、たった一行、そう書かれていた。それは無言の圧力だった。「生かすも殺すも私次第」「逆らえば、これを社会的にバラ撒くぞ」という、究極の首輪。
「……勝てない」
男は封筒を握りしめた。物理的な暴力で負け、財力で負け、そして最後に「尊厳」すらも人質に取られた。職員たちが次々と心を折られ、退職していくのも無理はない。
御堂アリス。あの女は、人間ではない。人の形をした、悪意のシステムそのものだ。
男は机に突っ伏し、咽び泣いた。窓の外、新宿の方角から、楽しげな笑い声が聞こえてくるような気がした。
一方、その頃。東京都新宿区、株式会社クライシス・クリーンサービス事務所。
脂の乗った肉が焼ける、暴力的なまでに食欲をそそる音が響き渡っていた。事務所の中央に置かれた長机には、三台のホットプレートが並べられ、フル稼働している。
そして、その横には「山」があった。比喩ではない。A5ランクの最高級黒毛和牛が、文字通り山のように積み上げられているのだ。
「食え食え! 今日は祭りだ!」
「ヒャッハー! 肉だ肉だ! 血が滴るレアで食うのが最高だぜ!」
「私の筋肉が歓喜の歌を歌っている! タンパク質よ来たれ!」
桃と社長が、飢えた野獣のような勢いで肉を焼いている。煙が充満し、換気扇が悲鳴を上げているが、誰も気にしない。
今日は、あの地獄のような抗争を生き延びた俺たちへの「慰労会」なのだから。
「……いただきます」
俺――佐藤健太は、焼き上がったカルビをタレにつけ、口に運んだ。噛んだ瞬間、肉汁が口の中に溢れ出す。
甘い。柔らかい。とろける。これが、一切れ数千円の肉の味か。
「んめぇ……! 生きててよかった……!」
涙が出そうになった。散々な目に遭ったが、この瞬間だけは全てが報われる気がした。
「あら、ペースが遅いんじゃない? もっと食べなさい」
革張りのソファ、通称「玉座」から声がかかった。会長はワイングラス(中身はブラッドオレンジジュース)を揺らしながら、俺たちの食事風景を眺めていた。
彼女自身は、一口も食べていない。ただ、ニヤニヤと、楽しそうに笑っているだけだ。
「……会長は食べないんですか?」
「私はいいわ。貴方たちが必死に脂肉を貪る姿を見ているだけで、お腹いっぱいになるもの」
言い方が引っかかる。「社員への還元よ」と彼女は言ったが、俺は知っている。この大魔王に、そんな慈悲深い心など存在しないことを。
(……これは、奢りじゃない。『餌やり』だ)
俺は直感した。彼女にとって、俺たちは社員ではない。珍しいペットか、あるいは家畜だ。
家畜が良い働きをしたから、ご褒美に良い餌を与えて、その食いつきを見て楽しんでいる。
完全に、動物園のふれあいコーナーを見る目だ。
「どうしたのおもちゃ。箸が止まっているわよ?」
会長が目を細めた。
「……いえ。美味しいので、味わって食べてます」
「ふーん。味わって、ねぇ」
彼女はつまらなそうに頬杖をついた。
「上品ぶっても似合わないわよ。……ねえ、命令していい?」
「嫌です」
即答したが、無駄だった。
「その皿の肉、手を使わずに食べなさい」
「は?」
「犬のように、皿に顔を突っ込んでガツガツと食らいつきなさい。……そっちの方が、貴方らしくて可愛いわよ?」
悪魔だ。この人、本当に悪魔だ。俺が必死に犬食いする姿を動画に撮って、「飢えた野良犬を保護しました」とかタイトルをつけてネットにアップする気だ。絶対にそうだ。
「やっぱそっちが目的かよ! 誰がやるか!」
「あら、社員への還元は本音よ? お腹いっぱい食べさせてあげたいという親心だわ」
「親心を持った人間は、息子に犬食いを強要しません!」
「ノリが悪いわね」
会長は舌打ちをした。だが、その表情はどこか楽しげだ。
「まあいいわ。……本音を言うとね」
彼女は視線を、部屋の隅――天井付近にある通気口へと向けた。
「貴方たちが馬鹿騒ぎをして、下品に笑って、幸せそうに肉を食う。……その音が、一番のスパイスになるのよ」
「スパイス?」
「ええ。それを聞いている『あいつら』が、悔しがって歯ぎしりする音が聞こえてきそうでしょ?」
俺は背筋が寒くなった。あいつら。それはつまり、この事務所を盗聴している連中のことだ。
「局」は壊滅したが、まだ残党や、他の組織が俺たちを監視している可能性は高い。
会長はそれを知った上で、あえて盗聴器を放置し、この「勝利の宴」の音を聞かせつけているのだ。
『お前たちが地獄の底で震えている間、私たちはこうして最高級の肉を食って笑っているぞ』と。
精神的な死体蹴り。物理的な攻撃よりもタチが悪い。
「……性格が悪すぎる」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
会長はクスクスと笑い、グラスを掲げた。
「さあ、もっと騒ぎなさい。もっと音を立てて食べなさい。……敗者たちへのレクイエムよ」
宴は続く。ホットプレートの上で、肉が焼ける音と、脂が弾ける音が絶え間なく響く。
「うおおお! 焼けた端から私の口へ! ダイレクト・イン!」
「早ぇよ筋肉ダルマ! 私のロースだぞそれ!」
「早い者勝ちだ! 弱肉強食、それが自然の摂理!」
社長と桃が、箸を武器にして肉の争奪戦を繰り広げている。氷室先輩は、少し離れた場所で黙々と野菜を焼いていた。
「……カオスだ」
俺はため息をついた。窓の外を見る。すっかり日が暮れた新宿の街。
ここだけ切り取れば、ただの賑やかな会社の飲み会に見えるかもしれない。
だが、実態は「魔窟」だ。
「なぁ、桃」
「あ? なんだよ。肉取んなよ」
「取らねぇよ。……最近さ、近所の目が痛いんだよな」
俺は小声で言った。
「この前、ビルの入り口で清掃員のおばちゃんに挨拶したら、『ヒィッ!』って悲鳴上げて逃げられたんだぞ」
「あー、あるある」
「あるあるじゃねぇよ! 郵便局の人も、荷物置いてダッシュで帰るし。……ここ、完全に『ヤバい事務所』として認定されてるよな」
無理もない。頻繁に爆発音がしたり、謎の悲鳴が聞こえたり、ブーメランパンツの男が出入りしたりしているのだ。
近隣住民からすれば、オカルトカルト教団か、テロリストのアジトにしか見えないだろう。実際、やっていることはテロリストに近いのだが。
「だからここは『伏魔殿』とか呼ばれてんだよ」
「伏魔殿……」
「気にすんな。遠巻きにされてるくらいが丁度いいんだよ。変な勧誘も来ねぇしな」
桃は肉を三枚重ねて口に放り込んだ。豪快だ。彼女にとっては、他人の評価などどうでもいいのだろう。
「気にするな佐藤君!」
社長が割り込んできた。口の周りがタレでベトベトだ。
「社会的信用など、筋肉の厚みがあれば解決する!」
「しませんよ! むしろ厚みがあるほど不審がられますよ!」
「何を言うか! 筋肉は世界共通の言語だ! 笑顔と上腕二頭筋があれば、言葉などいらん!」
社長は立ち上がり、サイドチェストのポーズを取った。
「見ろ! この輝きを! 私の僧帽筋が唸っている! 『肉を食い切れ』と!」
「服を着ろ服を! 焼肉の匂いがつくぞ!」
「構わん! 私の肌は『スモーク』されることで、より芳醇な香りを纏うのだ!」
「燻製かよ!」
社長は再び肉の山に突撃した。タンパク質の過剰摂取気味だが、彼の胃袋はブラックホールか何かなのだろうか。
「取ったカロリーは使えばいい! 君の腹斜筋も輝きを求めているぞ、佐藤君!」
「知るか! 俺は普通の体型でいいんだよ!」
俺は叫びながら、社長が焼いた肉を横取りして食べた。悔しいけど美味い。
焼き加減が絶妙だ。筋肉へのこだわりが、肉焼きの技術にも応用されているらしい。
「……騒がしいわね」
その光景を見て会長が呟いた。不快そうではない。むしろ、満足げだ。
「メイド」
「はい、会長」
氷室先輩が、手際よく新しいワイン(に見えるブラッドオレンジジュース)を注ぐ。
「どう? 面白いでしょう、私の『おもちゃ箱』は」
「ええ。……退屈はしませんね」
氷室先輩も、口元を緩めた。彼女の視線の先には、肉を奪い合う桃と社長、そしてツッコミを入れる俺がいる。
かつては研究所で「個」を消され、ただの兵器として生きるはずだった彼女。今は、この騒がしい日常の一部になっている。
「九億稼いで、敵を壊滅させて、手元には愉快なおもちゃたち。……悪くないわ」
会長はグラスを傾けた。赤紫の液体を通して、歪んだ世界を見る。
「やっぱり、良いおもちゃね」
彼女はポツリと言った。それは誰に向けた言葉なのか。俺たち社員のことか。それとも、この世界そのもののことか。
「……会長。悪趣味ですよ」
俺は聞こえないように呟いた。彼女にとって、俺たちはどこまでいっても「所有物」であり、退屈凌ぎの道具なのだ。
愛情などない。あるのは所有欲と、サディズムだけ。
でも。それでも。
「……ごちそうさまです」
俺は肉を噛み締めながら、心の中で言った。この肉が美味いことだけは、真実だ。そして、俺が今、こうして生きて笑っていられるのも、彼女が俺を「拾った」からだ。
悪魔に魂を売った。その対価が、この焼肉と、スリリングすぎる日常。割に合うかどうかは分からないが、少なくとも退屈はしない。
「さあ、ラストオーダーよ。残したら罰金だからね」
「うおおお! 食うぞ桃君! フードファイターの精神を見せろ!」
「負けるかゴリラ! 私の胃袋は宇宙だ!」
煙が立ち込める事務所。怒号と笑い声が交錯するパンデモニウム。外の世界では、俺たちを恐れ、遠巻きにしているかもしれない。
だが、この扉の中だけは、確かに俺たちの「居場所」だった。
会長の瞳が、妖しく輝く。彼女は知っている。この平和が、次の嵐までの「休憩時間」に過ぎないことを。
そして、次に来る嵐が、今まで以上に大きく、刺激的なものであることを。
「……楽しみね」
彼女は最後の一滴を飲み干し、不敵に微笑んだ。悪魔すら魂を売る女。
彼女の遊戯は、まだ始まったばかりなのだ。




