24.第二十四話
人は死ぬ時、走馬灯を見ると言う。だが、今の俺――佐藤健太の脳裏に浮かんでいるのは、過去の思い出などではない。
ただひたすらに、「帰りたい」という切実な願いと、目の前で繰り広げられている地獄絵図へのツッコミだけだった。
「ぐ、ぅぅぅ……! 吸え……吸うんだ、俺の肺……!」
新宿、スクランブル交差点。紫色の毒霧が充満する死の世界の中心で、俺は仁王立ちしていた。
背中には業務用の巨大掃除機。手にはノズル。俺は今、街を覆う呪いの霧を、自身の肉体をフィルターにして濾過するという、狂気の沙汰を実行させられていた。
喉が焼ける。肺が溶けるような激痛。『蠱毒』の怨念が、俺の精神を内側から食い荒らそうとしてくる。
『苦しい……』
『殺してやる……』
『恨めしや……』
無数の亡者たちの声が頭の中に響く。うるさい。黙れ。こっちは給料がかかってるんだ。お前らの恨み言に付き合ってる暇はない。
「浄化ァァァ!!」
俺は『清掃眼』を全開にし、体内に侵入してくる呪いをイメージの力で分解し続けた。漂白。殺菌。消臭。俺はただのフィルターだ。感情など捨てろ。ただひたすらに、空気を綺麗にする機械になれ。
掃除機の排気口から、無害化された白い蒸気が噴き出す。周囲の霧が少しずつ薄れていく。だが、キリがない。発生源である「壺」をどうにかしない限り、毒は無限に湧いてくる。
『――おもちゃ、生きてる?』
インカムから会長の声が聞こえた。事務所という安全圏で、高みの見物を決め込んでいる大魔王の声だ。
「し、死にそうです……! もう限界です……!」
『そう。じゃあ、死ぬまで吸い続けなさい』
冷酷な命令。
『貴方が死んだら、二階級特進で「名誉社員(ブロンズ像)」にしてあげるわ。社屋の前に飾って、毎日ハトのフンまみれにしてあげる』
「嫌です! 生き恥じゃないですか!」
『だったら働きなさい。……安心なさい、他の手駒も動かしているわ』
会長の声が、楽しげに弾んだ。
『そろそろ「メインイベント」の時間よ』
新宿大通り。毒ガスから逃げ惑う人々で、通りはパニック状態に陥っていた。車は乗り捨てられ、人々は互いを押しのけ、我先にと安全な場所を求めて走る。
だが、紫の霧は足が速い。背後から迫る死の影に、誰もが絶望したその時だった。
「市民諸君!! 慌てるな!!」
霧の向こうから、雷のような大声が響き渡った。野太く、力強く、そして暑苦しい声。
「救助が来たぞ! もう大丈夫だ!」
人々の顔に希望の光が差す。自衛隊か? 消防隊か? それともヒーローか? 彼らは霧の向こう、声の主の方を見た。
そして、見た。
紫の霧を切り裂いて現れたのは、黄金に輝く発光体だった。いや、発光体ではない。
全身にオイルを塗りたくり、街灯の光を乱反射させながら爆走してくる、身長二メートル近い巨人。身につけているのは、蛍光色のブーメランパンツ一丁のみ。
「私が来た! 私の大胸筋についてきたまえ!!」
神宮寺剛社長である。彼は走りながらポージング(サイドチェスト)を決め、満面の笑みで群衆に迫ってきた。
「ひ、ひぃぃぃぃ!?」
「変態だぁぁぁ!!」
「毒ガスの魔人だぁぁぁ!!」
希望は、一瞬で恐怖へと変わった。無理もない。致死性の毒ガスが蔓延する中、半裸でテカテカに光るマッチョが笑顔で追いかけてくるのだ。
これ以上のホラーがあるだろうか。
「殺される! 逃げろぉぉぉ!!」
「食われるぞ!!」
群衆の悲鳴が変わった。毒への恐怖ではない。
「生理的な嫌悪感」と「原初的な恐怖」が、彼らの生存本能を爆発させたのだ。
「む? なぜ逃げるのだ?」
社長は首を傾げた。
「そうか! それほど急いでいるのか! ならば私も走ろう! マッスル・エスコートだ!」
社長が加速した。時速四十キロを超える猛ダッシュ。地響きと共に、笑顔の巨人が背後から迫る。
「来るなぁぁぁ!!」
「お母さぁぁぁん!!」
人々は死に物狂いで走った。火事場の馬鹿力とはこのことか。老人も子供も、アスリート並みの脚力で駆け抜けていく。
皮肉にも、その避難速度は過去最速を記録していた。
「あはははは! 最高! いい画だわ!」
事務所のモニターでその様子を見ていた会長は、お腹を抱えて爆笑していた。
「まるでパニック映画ね! 『新宿の霧』と『半裸の巨人』、どっちが怖いかアンケート取りたいくらいよ!」
「……悪趣味ですね」
隣で紅茶を淹れていた氷室澪が、呆れたように呟く。
「でも、効果的です。社長の周囲には『陽の気(暑苦しさ)』が充満していますから、近づくだけで周囲の悪霊が消滅しています。結果的に、市民は守られています」
「結果オーライってやつね。……さて、次はペットの番よ」
会長は別のモニターに視線を移した。そこには、汚染の中心地――霧が最も濃い路地裏へ突入していく、鬼の影が映っていた。
「ケッ、くせぇなオイ!」
桃は、毒霧の中を平然と歩いていた。彼女は鬼だ。人間よりも遥かに頑強な肉体と、呪いへの耐性を持っている。多少肌がピリピリする程度で、行動に支障はない。
「どけ雑魚ども!」
彼女が金棒を一閃させる。霧の中から襲いかかってきた悪霊たちが、まとめて粉砕され、霧散する。
「どこだ、発生源の壺は! さっさと見つけて叩き割らねぇと、新人が死んじまうだろ!」
彼女の犬耳がピクリと動いた。霊的な反応を探知する。濃い。路地の奥、ゴミ捨て場の陰から、どす黒い瘴気が噴き出している。
局にあったものがなんでこんな所に、と思ったが幸い桃は難しく考える事はしない。難しい事を考えても答えが出ないからだ。
「……あったぜ」
桃はニヤリと笑い、瓦礫を蹴り飛ばした。そこにあったのは、禍々しいオーラを放つ黒い壺。
『蠱毒の壺』だ。蓋が開け放たれ、中からは無限に毒ガスが湧き出している。
「見つけたぞ、諸悪の根源!」
桃は金棒を振り上げた。叩き割る。それで終わりだ。そう思った瞬間、インカムから御堂の声が響いた。
『ストップ。……壊しちゃダメよ、ペット』
「あ? なんでだよ! これ割らなきゃ止まんねぇだろ!」
『もったいないじゃない。せっかくの「頂き物」よ?』
会長の声は、楽しそうに弾んでいた。
『礼儀として、ちゃんとお返ししなきゃね。……「返品」よ』
「返品?」
『そう。持ち主のところに返してきなさい。……物理的に』
桃は一瞬キョトンとし、すぐに悪魔的な笑みを浮かべた。
「……なるほどな。そいつはいい考えだ」
桃は金棒を背中に収め、素手で壺を掴んだ。壺に触れた掌が焼ける音がする。強力な呪いだ。だが、桃は眉一つ動かさない。
「へっ、ぬるいな。地獄の釜の方がよっぽど熱いぜ」
彼女は壺を「漬物石」のような感覚で、軽々と持ち上げた。そして、路地裏から大通りへと飛び出す。
「おい、局の連中! 忘れ物だぞ!」
桃は壺を振りかぶった。ターゲットは霞が関。距離にして数キロ。普通の人間なら届くはずもない距離だ。だが、彼女は鬼だ。
「受け取り拒否は認めねぇ!!」
アスファルトが砕けるほどの踏み込みと共に、桃の剛腕が唸りを上げた。放たれた壺は、放物線など描かなかった。
地対地ミサイルのような一直線の弾道で、音速を超えて空を切り裂き、霞が関の方角へとカッ飛んでいった。
空気が悲鳴を上げる。紫の尾を引きながら、壺は夜空の彼方へ消えた。
「……配達完了。ハンコはいらねぇよ」
桃はパンパンと手を払い、満足げに鼻を鳴らした。
一方、その頃。霞が関、旧・内閣特務呪術管理局本部。地下で局長たちが自滅した後も、地上階の「暫定処理班」の職員たちは、状況も分からぬまま仕事をしていた。
「な、なんだあの煙は!?」
「新宿方面でバイオハザード発生!? 原因は!?」
「分かりません! 地下との連絡も取れません!」
オフィスは混乱に包まれていた。窓の外、新宿の上空が紫色に染まっているのが見える。その時。レーダー監視員が悲鳴を上げた。
「未確認飛行物体、接近! こっちに来ます!」
「なんだと!? ミサイルか!?」
「いえ、熱源反応はありません! ですが……凄まじい呪力を帯びています! この反応は……特級呪物!?」
「迎撃しろ! 結界を張れ!」
無駄だった。すでに「局」の強力な術者たちは、先日の「大掃除」で全員いなくなっている。残された無能な職員たちに、音速で飛来する「鬼の投擲」を防ぐ術などあるはずもなかった。
「く、来るぞぉぉぉ!!」
轟音が近づく。そして。ビルの壁面に、新たな大穴が開いた。以前、会長が石で開けた穴のすぐ隣を貫通し、飛来物は正確無比に「局長室」へと飛び込んだ。
局長室のデスクに着弾。その衝撃で、壺が粉々に砕け散った。
中から凝縮されていた毒ガスと怨念が、爆発的に拡散する。狭い室内で圧縮されていた分、その威力は凄まじかった。
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
「な、なんだこれは!? 壺!?」
「なぜ戻ってくるぅぅぅ!!」
職員たちが悲鳴を上げる。紫の霧が一瞬でフロア全体に充満する。逃げ場はない。自分たちが放った呪いが、ブーメランのように戻ってきて、自分たちの喉元を食い破ったのだ。
「じ、自業自得でぇぇぇす!!」
誰かの断末魔が響き、局の本部は沈黙した。かつて日本の裏側を支配した組織は、今度こそ、物理的にも霊的にも完全に壊滅したのだった。
新宿、交差点。俺は、膝から崩れ落ちた。
「……おわっ……た……」
掃除機のスイッチを切る。発生源である壺がなくなり、俺が死ぬ気で(というか一度三途の川が見えた)吸引し続けたおかげで、周囲の空気は澄み渡っていた。
紫の霧は消え、青空が見える。
「……生きてる。俺、生きてる……」
涙がこぼれた。体中が痛い。肺が燃えるようだ。だが、心地よい風が頬を撫でる。
「よくやったぞ、佐藤君!」
ドスドスと足音が近づいてくる。社長だ。彼は無数の市民を引き連れて(追いかけ回して)、戻ってきた。
「全員避難させきったぞ! 感謝の悲鳴が心地よかった!」
「それ恐怖の悲鳴ですよ……」
「だが、誰も怪我をしていない! 私の筋肉が守り抜いたのだ!」
確かに、社長が走り回ったエリアの悪霊は、彼の放つ暑苦しいオーラで浄化されていた。結果として、死傷者は最小限に抑えられたようだ。精神的トラウマを負った人は多数いるだろうが。
「へっ、肩慣らしにもなんねぇな」
桃も戻ってきた。彼女の手は少し赤く腫れていたが、それ以外は無傷だ。
「おい新人、生きてるか?」
「ギリギリな……」
「ま、よくやったんじゃねぇの。あのクソアマも、少しは満足しただろ」
俺たちはビルを見上げた。事務所の窓から、会長がこちらを見下ろしているのが見えた。彼女はワイングラスを掲げ、優雅に微笑んでいた。
「……ん、いい映画だったわ」
事務所にて、御堂はモニターを見ながら満足げに頷いた。
「特に『半裸男から逃げる群衆』のシーンはアカデミー賞モノね。あんなに必死な人間の顔、そうそう見られないわ」
「後で『新宿の妖怪・テカテカ筋肉男』として都市伝説になりそうですね」
氷室先輩が淡々と言う。
「それに、局の方も綺麗に片付いたようです。……自爆テロのつもりが、自分たちの巣を焼いただけに終わりましたね」
「自業自得よ。私に喧嘩を売るなら、もっとマシな方法を考えるべきだったわね」
会長は残ったジュースを飲み干した。
「さて。相手も壊滅したし、そろそろ手打ちにしてあげましょうか」
「手打ち、ですか?」
「ええ。これ以上いじめても、何も出ないもの」
彼女は悪魔の笑みを浮かべた。
「でも、タダで許すわけにはいかないわよね。……たっぷりと、『授業料』を請求しに行きましょうか」
こうして、新宿パンデミック事件は幕を閉じた。
街は平和を取り戻し、人々は何事もなかったかのように日常に戻っていく。
が、俺たちの戦いはまだ終わらない。次なる戦場は――「交渉のテーブル」だ。
俺は掃除機の重さに呻きながら、思った。
ボーナス。絶対に、ボーナスをもらう。でなければ、俺の肺が報われない。




