23.第二十三話
新宿、歌舞伎町。休日の午後。多くの人で賑わう大通りに、異変は唐突に訪れた。
「……なんか、臭くない?」
「うわ、何あの煙」
マンホールの隙間から。ビルの通気口から。地下鉄の入り口から。紫色の霧が、生き物のように這い出してきたのだ。
「ギャァァァッ!」
最初に異変に気づいたのは、カラスだった。霧の中を飛んでいたカラスが、突然翼を溶かされ、ボトボトと地面に落ちてきたのだ。
落ちた死骸は、瞬く間にドロドロのタール状になってアスファルトに染み込んでいく。
「な、なんだあれ!?」
「逃げろ! 毒ガスだ!」
パニックが発生した。人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。だが、霧の拡散は速い。逃げ遅れた者が霧に巻かれ、喉を掻きむしって倒れる。
皮膚がただれ、目が焼け、意識が混濁する。物理的な毒性だけではない。触れた者の「生気」を根こそぎ奪い取る、強力な呪い。
スクランブル交差点は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。信号機が赤に変わり、止まった車列の上を、紫の死神が優雅に通り過ぎていく。
株式会社クライシス・クリーンサービス、事務所。窓の外に広がる惨状を、会長はワイングラス片手に眺めていた。
「へぇ、綺麗じゃない」
彼女はうっとりとした表情で、紫に染まっていく街並みを見下ろした。
「毒の華ね。……あの無能どもにしては、なかなか派手な演出だわ」
「感心してる場合ですか! 人が死んでますよ!?」
俺――佐藤健太は、窓ガラスに張り付いて絶叫した。ここからでも見える。バタバタと人が倒れ、救急車のサイレンが鳴り響いているのが。バイオハザードだ。映画の中だけの出来事が、目の前で起きている。
「だから何?」
会長は冷めた目で俺を見た。
「使う事を決断したのは連中よ。それを私に言われても困るわ」
「あんたそれでも人間か!」
「だから責任は奴らに問いなさいよ。もう死んでいると思うけれど」
彼女は悪びれる様子もなく、ワイン(中身はクランベリージュース)を口に含んだ。だが、その直後。彼女の眉がピクリと動いた。
「……でも、不愉快ね」
「え?」
「臭いのよ。ここまで漂ってくるわ、あの貧乏くさい呪いの臭いが」
会長は不快そうに鼻を鳴らした。事務所には強力な結界が張られているため、毒ガス自体は入ってこない。だが、その「気配」だけで、彼女にとっては耐え難い悪臭らしい。
「連中などどうでも良いけど、私の庭を私以外が勝手に壊すのは癪に障るわね」
彼女はグラスをテーブルに置いた。カチャン、という硬質な音が響く。
「おもちゃ。掃除の時間よ」
「……はい?」
俺は耳を疑った。掃除? 今? この状況で?
「無理ですよ! あんな広範囲の毒ガス、どうやって掃除するんですか! 自衛隊とか呼ばないと!」
「自衛隊なんて待っていたら、新宿中の人間が溶けてなくなるわ。……それに、あれは呪いよ。物理的な防護服なんて意味がない」
「じゃあ、どうしろって言うんですか!」
「簡単よ」
会長は、俺の顔を指差した。
「吸えばいいじゃない」
「…………は?」
思考が停止した。吸う? 何を? 毒ガスを?
「会長、準備ができました」
タイミング良く、氷室先輩が給湯室から出てきた。彼女が押しているのは、業務用の巨大な掃除機だった。
背中に背負うタイプのもので、太いホースと、金属製のノズルがついている。見た目はゴーストバスターズのアレだ。
「この掃除機は、霊的物質を物理的に吸引できるよう改造してあります。出力はダイ〇ンの100倍です」
「おお、すごい! ……って、いやいや! 吸引しても、排気口から毒が出るだけでしょう!」
俺の指摘に、氷室先輩は真顔で頷いた。
「ご名答です。この掃除機には、霊的な毒素を濾過するフィルターがついていません」
「欠陥品じゃないですか!」
「ですので、新人君がフィルターになってください」
「……はい?」
俺の脳みそが、理解を拒否した。人間フィルター?
「理屈はこうです」
氷室先輩が淡々と説明を始める。
「貴方の特異体質……『清掃眼』を持つ魂は、霊的な汚れを『視認』し、そして『干渉』することができます。……つまり、貴方が毒ガスを吸い込み、体内で呪いを中和・分解し、綺麗な空気として吐き出せばいいのです」
「死ぬわボケェェェェ!!」
俺は全力でツッコミを入れた。人体実験だ。これは、あの「局」がやっていたことと何が違うんだ。
「死にませんよ。たぶん」
「たぶんって言った!」
「安心しろ新人! 死んだら私が骨を拾ってやる!」
桃が俺の背中をバシバシと叩く。彼女はすでに、愛用の金棒を担いで臨戦態勢だ。
「私の肺活量も貸そうか! マッスル・ブレス!」
社長が、ブーメランパンツ一丁で深呼吸をしている。いや、あんたが吸ったら即死するだろ。
「拒否権はないわよ」
会長が冷ややかに告げる。
「このままだと……私の行きつけの店が全部潰れるわね」
「そんな理由で!?」
「貴方、自分の街が汚されて平気なの? 掃除屋のプライドはないの?」
痛いところを突かれた。プライドなんて立派なものはない。だが、この街には俺の馴染みのコンビニも、安売りのスーパーもある。
何より、罪のない人々が死んでいくのを、指をくわえて見ているのは……寝覚めが悪い。でも言いたい。あんたがいうなよ!って。
絶対にこのドS幼女は聞かないだろうが。
「……くそっ! やればいいんでしょ、やれば!」
俺はヤケクソで掃除機を背負った。ズシリと重い。これは、機械の重さじゃない。俺の命の重さだ。
「特別ボーナス出してくださいよ! あと労災も!」
「成功したら考えてあげるわ。……行ってらっしゃい、人間空気清浄機」
外の世界は、紫色の地獄だった。ビルの入り口を出た瞬間、肌がピリピリと痛む。空気中に漂う瘴気が、俺の生気を削り取ろうとしているのだ。
「うぇっぷ……。臭ぇ……」
吐き気がする。だが、俺には強力な助っ人たちがいる。
「露払いは任せな! 毒の発生源を見つけて叩き割る!」
桃が金棒を振り回し、風圧で霧を吹き飛ばしながら先行する。彼女の鬼の肉体は、呪いに対して高い耐性があるらしい。
「私は避難誘導を担当しよう! 市民諸君、私の大胸筋についてきたまえ!」
社長が光り輝く筋肉を見せつけながら走っていく。正直、毒ガスよりあの変態から逃げるために、市民の避難速度が上がっている気がする。
「さあ、佐藤君。メインステージはあの交差点です」
インカムから氷室先輩の声。俺は、新宿スクランブル交差点のど真ん中に立った。四方八方から、紫の霧が押し寄せてくる。逃げ遅れた人々が、道路に倒れて苦しんでいる。
「……やるしかねぇ」
俺は掃除機のノズルを構えた。ジャージ姿。防毒マスクなし。あるのは、覚悟と、借金返済への執念だけ。
「吸引、開始ィィィ!!」
スイッチ・オンと同時、業務用のモーターが唸りを上げる。凄まじい吸引力。周囲の霧が、渦を巻いてノズルへと吸い込まれていく。
そして、それはホースを通り、背中のタンクを経由して――俺の肺へと直結する(イメージ的な意味で)。
「ぐ、がぁぁぁぁぁ!!!」
激痛。喉が焼ける。肺が溶ける。体の中に、何万匹もの蟲が這いずり回っているような感覚。『蠱毒』の怨念が、俺の精神を侵食しようとしてくる。
『死ね』
『殺してやる』
『苦しい』
無数の呪詛の声が、脳内に直接響く。
「う、るせぇ……! 俺は……俺はまだ死ねないんだよ!」
俺は歯を食いしばった。『清掃眼』を全開にする。体内に入ってきた「汚れ」を見る。真っ黒なヘドロ。怨念の塊。
それを、イメージの中で分解する。漂白し、除菌し、濾過する。
俺は掃除屋だ。トイレの黄ばみも、幽霊の未練も、やることは同じだ。ただ、綺麗にするだけだ!
「オラァァァ! 浄化ァァァ!!」
俺の口から、そして掃除機の排気口から、真っ白な蒸気が噴き出した。毒素が抜け、浄化された綺麗な空気。それが風となって広がり、周囲の紫の霧を薄めていく。
「すげぇ……! 本当に吸ってるぞ!」
「見て! 霧が晴れていくわ!」
避難していた人々が、驚きの声を上げる。その中心で、俺は苦痛に顔を歪めながら、仁王立ちしていた。
「ぐ、ぅぅぅ……! 腹が……腹が痛ぇぇぇ!!」
限界だ。内臓が悲鳴を上げている。だが、止めるわけにはいかない。
俺が止まれば、この街は終わる。そして何より、会長に「使えないおもちゃ」だと判断されて捨てられる。
それだけは避けなければならない。
「もっとだ……! もっと寄越せぇぇ!!」
俺はノズルを振り回した。毒ガスよ、来い。全部俺が吸ってやる。俺の体は、高機能フィルターだ!
ビルの屋上から、その様子を見下ろす影があった。御堂アリス。彼女はワイングラスを揺らしながら、眼下のたうち回る俺を見て、楽しそうに微笑んだ。
「あはは。必死な顔。……やっぱり、あのおもちゃは最高ね」
彼女にとって、これは災害ではない。コメディ映画だ。そして俺は、その主役を張る道化師。
俺は薄れゆく意識の中で、魔女の高笑いを聞いた気がした。
ちくしょう。生きて帰ったら、絶対にボーナスを請求してやる。そう誓って、俺は再び毒の霧の中へと突っ込んでいった。




