22.第二十二話
平和とは、戦争と戦争の間の「休憩時間」に過ぎない。誰が言った言葉かは忘れたが、今のクライシス・クリーンサービス事務所には、その言葉が痛いほど当てはまっていた。
「……暇ね」
革張りのソファの上で会長が呟いた。彼女は天井を仰ぎ見ながら、だらりと手足を投げ出している。行儀が悪いことこの上ないが、誰も注意できない。
なぜなら、今の彼女は「機嫌が良い」からだ。そして、この魔王において「機嫌が良い」状態とは、「機嫌が悪い」時よりも遥かにタチが悪いことを、俺たちは経験則として知っていた。
「あのー、会長?」
俺――佐藤健太は、モップ掛けの手を止めて声をかけた。
「暇ってことはないでしょう。昨日は練馬の廃病院を除霊しましたし、一昨日は元・局長たちが集めた『呪いの壺コレクション』を粉砕処理しましたし」
「そんなの仕事じゃないわ。ただの『作業』よ」
会長は気だるげに起き上がり、テーブルの上のクッキーを摘んだ。
「私が欲しいのは刺激なの。……あーあ、つまんない。せっかく政府を潰したのに、反応が薄すぎるわ」
彼女は不満そうに頬を膨らませた。先日、俺たちは内閣特務呪術管理局――通称「局」の本部を襲撃し、その悪事を暴いて再起不能に追い込んだ。
普通ならこれで「一件落着」だ。ラスボスを倒し、エンディングロールが流れる場面だ。だが、御堂アリスという物語に「完」の文字はない。
「向こうは今、てんてこ舞いだと思いますよ。局長を始め幹部は軒並み逮捕されるわ、組織は解体されるわで」
首になった連中は会長が設立した新会社で採用した。当初はこのビルに作るかと思われた会社だが、彼女の「鬱陶しい」という一言で遠い場所となった。
なお、会長が新会社を設立するという事で、設置先の地区は裏社会含めて色んな組織が震え上がった。ちなみにちゃんと給料は払われている。流石に局ほど高額ではないが。
「人ってどんな劣悪な環境でも『秩序』があれば順応するものよ。たとえどんな酷い扱いを受けても、ね」
「悪魔ですか貴女は」
俺は会長の台詞に思わず突っ込んだ。確かに新会社も酷い環境だがヒエラルキーがしっかりしているお陰か、妙な秩序があり安定していた。
遠い場所に追いやったら、もしかしたら全員で反抗するのではと思ったが、そんな気配は全然なかった。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
どうやら大魔王には俺の嫌味も通じないようだ。
「しかし……残党になったとはいえ弱すぎるの」
カプリ、とクッキーを噛み砕く音。
「もっとこう、死に物狂いで反撃してくるとか、刺客を送ってくるとか、そういうガッツはないのかしら。これじゃあ、いじめっ子が泣いちゃったみたいで、私が悪者みたいじゃない」
「悪者ですよ。というか大悪党なのを自覚してください」
俺のツッコミは無視された。彼女は立ち上がり、窓際に歩み寄る。そこからは、東京の街並みが一望できる。そしてその遥か彼方、霞が関の方角を見つめながら、彼女はニヤリと笑った。
「……ねえ。ちょっと『ご挨拶』しましょうか」
「ご挨拶?」
「ええ。向こうが寝ているなら、叩き起こしてあげないとね」
彼女は窓を開けた。新宿の高層ビルの風が吹き込んでくる。そして、彼女は足元に落ちていた「小石」を拾い上げた。以前、元エリートたちに拾わせたゴミの中に混じっていた、ただの砂利だ。
「えっ、まさか」
俺は嫌な予感がして後ずさる。会長は小石を親指と中指で弾く構え――デコピンの体勢を取った。狙いは、数キロ離れた元『局』の本部ビル。
「届くわけないでしょ……」
「届くわよ。私の『愛』があればね」
乾いた音がした。直後。ソニックブームが発生した。窓ガラスがビリビリと震え、俺は鼓膜が破れるかと思った。
指先から放たれた小石は、摩擦熱で赤熱し、流星のような尾を引いて空の彼方へ消えていった。
「……マッハ?」
俺は呆然と呟いた。いや、今の衝撃波はマッハ1や2じゃない。レールガンだ。
「よし、送信完了」
会長は満足げに手を払った。
「返信、来るといいわね」
俺は戦慄した。これは「挨拶」ではない。爆撃だ。
一方、その頃。東京、霞が関。
かつて「局」の本部として機能していたビルは、今や見る影もなかった。組織は解体されたが、残務処理や証拠隠滅(失敗したが)のために、まだ一部の職員が残っていた。
彼らは「暫定処理班」と呼ばれ、薄暗いオフィスで死んだような顔をして書類整理をしていた。
「……はぁ。いつになったら帰れるんだ」
若手職員の一人が、山積みの段ボールを前に嘆息する。上司たちは全員逮捕されるか、あるいは会長の「ゴミ拾い部隊」に吸収された。
残されたのは、逃げ遅れた下っ端と不運な中堅だけだ。
「愚痴るな。手を動かせ。……また『石』が飛んでくるぞ」
「ヒッ!」
先輩職員の言葉に、若手が机の下に潜り込む。彼らは全員、室内だというのに工事用のヘルメットを被っていた。異様な光景だ。だが、これには切実な理由があった。
遠くから、ジェット機が接近するような音が聞こえてくる。職員たちの顔色が土気色に変わる。
「く、来るぞ! 総員、対ショック姿勢!」
「窓から離れろ!」
全員が床に伏せる。その直後。轟音と共に、オフィスの一部が吹き飛んだ。コンクリートの壁が粉砕され、爆風が書類を巻き上げる。舞い上がる粉塵。悲鳴。
「……着弾確認! 被害状況は!?」
「北側の壁に直撃! 直径五十センチの貫通孔を確認!」
「負傷者は!?」
「奇跡的にゼロです! たまたまトイレに行っていた席でした!」
煙が晴れると、オフィスの壁には綺麗な「穴」が開いていた。その穴の先には、東京の青空が見えている。そして、床には赤熱して溶けかかった「小石」が転がっていた。
「……またか」
暫定局長(くじ引きで選ばれた貧乏くじ)の男が、瓦礫の中から這い出して呻いた。
彼は天井を見上げた。このビルは、すでに穴だらけだった。壁にも、天井にも、床にも。まるでとある猫と鼠のアニメに出てくるチーズのように、至る所が円形にくり抜かれている。
風通しが良いどころの話ではない。雨が降れば室内は水浸し、風が吹けば書類が舞い散る。
「これが……あいつのやり方か」
暫定局長は、恐怖と怒りで拳を震わせた。御堂アリス。彼女は、彼らを殺しはしない。
だが、こうして不定期に、何の前触れもなく「石」を投げてくる。新宿の方角から、正確無比なスナイピングで。
「いつまで続くんだ……。こんな『ロシアンルーレット』みたいな職場、頭がおかしくなる!」
職員の一人が叫び出し、泣き崩れた。無理もない。いつ、自分の頭蓋骨が小石で粉砕されるか分からないのだ。仕事など手につくはずがない。
これは拷問だ。「生かさず殺さず、じわじわと精神を摩耗させる」という、悪魔の所業。
「……許さん」
暫定局長が、血走った目で呟いた。彼は元々、穏健派の事務官だった。事なかれ主義で、定年まで波風立てずに過ごすことだけを考えていた男だ。
だが、極限のストレスと恐怖は、羊を狼に変える――いや、狂犬に変える。
「許さんぞ、御堂アリス……! 我々をここまでコケにして、タダで済むと思うなよ!」
彼は懐から鍵を取り出した。それは、このビルの地下最深部、通称「霊安室」へと続く扉の鍵だ。
そこには、かつての局長たちが封印し、見て見ぬ振りをしてきた「負の遺産」が眠っている。
「局長! 何をする気ですか!?」
「反撃だ。……もう我慢ならん」
彼の目には、理性的な光は残っていなかった。あるのは、自暴自棄に近い暗い情熱だけ。
「毒をもって毒を制す。……あの魔女を殺せるなら、東京の一つや二つ、道連れになっても構わん!」
窮鼠、猫を噛む。ただし、そのネズミが持っていたのは、猫だけでなく家ごと吹き飛ばす爆弾だった。
何故そのような劇物を会長は放置したか、それは『こういう事』が起きると『面白いから』だ。
何処までいっても彼らは会長の手のひらで踊るピエロだった。
翌日。クライシス・クリーンサービス事務所。
「今日の天気は『石』時々『殺意』でしょう」
桃が窓の外を見ながら、天気予報のように言った。彼女の手には双眼鏡が握られている。
「見ろよ新人。あっちのビル、また穴が増えてるぜ」
「見たくないよ……」
俺はデスクで頭を抱えていた。会長による「投石イベント」は、日課になりつつあった。
朝起きて一杯のコーヒーを飲むように、彼女は窓を開けて石を投げる。空気を切り裂く音を聞くたびに、俺の寿命が縮んでいく気がする。
「よく警察が来ないな」
「来ねぇよ。被害届が出せるわけねぇだろ。『新宿から石が飛んできてビルに穴が開きました』なんて言ってみろ。精神鑑定行きだ」
桃はケラケラと笑う。彼女もまた、この異常な状況を楽しんでいる節がある。鬼の感性はどうなっているんだ。
「でも、そろそろマズいと思いますよ?」
氷室先輩が、紅茶を淹れながら静かに言った。
「向こうも限界でしょう。……人間、追い詰められすぎると、論理的な判断ができなくなります」
「自爆テロでもしてくるってことですか?」
「あるいは、もっとタチの悪い何かを」
その時だった。事務所の電話が鳴った。このタイミングでの電話。ロクな予感がしない。
「はい、クライシス・クリーンサービスです」
氷室先輩が受話器を取る。数秒後、彼女の表情がスッと凍りついた。
「……そうですか。分かりました。……ええ、会長にお伝えします」
受話器を置いた先輩が、俺たちの方を向く。
「情報屋からです」
「なんだって?」
「局の残党が、地下シェルターの封印を解こうとしているそうです」
「封印?」
ソファでくつろいでいた会長が、ピクリと反応した。
「へぇ。何を隠し持っていたのかしら?」
「『蠱毒の壺』だそうです」
その単語が出た瞬間、部屋の空気が変わった。桃が顔をしかめ、社長が「むぅ」と唸る。
「こどく……って、あの虫を共食いさせるやつですか?」
俺が聞くと、会長が楽しそうに解説を始めた。
「そうよ。壺の中に百種類の毒虫を入れて、最後の一匹になるまで殺し合いをさせる呪術。……生き残った一匹には、死んだ九十九匹分の毒と怨念が凝縮される」
「えげつないですね」
「でも、局が持っているのは、そんな可愛いものじゃないわ」
会長は立ち上がり、スカートを翻した。
「あれは特級呪物。中に入っているのは虫じゃない。……かつて処刑された凶悪な呪術師たちの『魂』を共食いさせて作った、純粋な呪いの塊よ」
魂の、共食い。想像しただけで吐き気がする。
「佐久間の情報によれば、制御不能の代物だそうです。……蓋を開ければ最後、中身が溢れ出し、無差別に周囲の生物を呪い殺す呪毒汚染を引き起こすと」
「へぇ。やけっぱちね」
会長は窓の外、霞が関の方角を見つめた。
「自分たちも死ぬ気ね。……私を道連れにするために」
「ど、どうするんですか会長! 止めないと!」
俺は慌てた。そんなものが東京のど真ん中で解放されたら、大惨事だ。パンデミック映画の始まりだ。
「止める? なんで?」
会長はキョトンとした顔をした。
「え?」
「面白そうじゃない。……窮鼠が猫を噛むどころか、自分の巣に火をつけて特攻してくるなんて、最高にクレイジーだわ」
彼女の瞳が、妖しく輝く。恐怖ではない。歓喜だ。退屈な日常に飽き飽きしていた魔王が、ようやく手ごたえのある「遊び相手」を見つけた顔だ。
「放っておきなさい。……開けさせればいいわ」
「正気ですか!?」
「ええ。毒ガスだろうが呪いだろうが、私の庭(東京)で好き勝手できると思ったら大間違いよ」
彼女は、俺の方を振り向いた。その笑顔は、この世の何よりも美しく、そして恐ろしかった。
「おもちゃ、出番よ」
「……はい?」
「散らかったゴミは、掃除屋が片付けなきゃいけないでしょう? ……今回のは、ちょっとばかし『劇薬』だけど」
嫌な予感しかしない。劇薬? 片付け? まさか。
「まさか、俺に……」
「そうよ。貴方が『フィルター』になりなさい」
会長は、まるで明日の天気を語るように言った。
「人間空気清浄機。……期待しているわよ?」
目の前が真っ暗になった。フィルター。それはつまり、毒を吸って、濾過する役目。
死ぬ。普通に死ぬ。
「嫌だぁぁぁ!! 労基に行かせろぉぉぉ!!」
俺の絶叫は、社長のマッスルポーズ(応援)にかき消された。
霞が関、地下最深部。「霊安室」と呼ばれる厳重な封印区画。そこには、禍々しいオーラを放つ、巨大な黒い壺が置かれていた。
高さは二メートルほど。表面には無数のお札が貼られ、鎖でがんじがらめにされている。中からは、耳障りな羽音のような、あるいは呻き声のような音が漏れ聞こえてくる。
「……やるぞ」
暫定局長が、震える手で封印の札に手をかけた。彼の周りには、数人の側近たちがいる。全員が防護服を着ているが、そんなもので防げるレベルの呪いではないことは、彼ら自身が一番よく知っていた。
「局長……本当に、やるんですか?」
「やるしかないんだ! このまま座して死を待つより、一矢報いてやる!」
彼は狂ったように叫び、御札を剥がした。鎖が弾け飛ぶ。壺の蓋が、内側からの圧力でガタガタと揺れ始めた。
「出ろ! 出ろぉぉぉ! 憎き魔女を食い殺せ!」
局長が蓋を押し開けた。腐った卵と、焦げた肉を煮詰めたような、強烈な異臭が広がる。そして、壺の中から「それ」が溢れ出した。
紫色の霧。いや、霧ではない。よく見れば、それは無数の微細な「蟲」の集合体であり、同時に怨念が実体化したガスだった。
「う、うわぁぁぁ!!」
最初に霧に触れた側近が、悲鳴を上げて倒れた。防護服が溶け、皮膚がただれ、瞬く間にドロドロの肉塊へと変わっていく。物理的な毒性と、霊的な呪詛の複合汚染。
「は、ははは! 凄いぞ! これなら奴も……!」
局長は笑った。だが、次の瞬間、彼自身も紫の霧に飲み込まれた。断末魔の叫びも上げることなく、彼の意識は闇に消えた。
制御不能。解き放たれた『蠱毒』は、換気ダクトを通り、エレベーターシャフトを登り、地上へと向かう。偶然にも『蠱毒』が狙うは新宿。
会長のいる場所へ。本能的な殺意に導かれ、死の霧が東京の空へと拡散していった。




