13.第十三話
東京、千代田区霞が関。日本の行政機関が集中するこの街には、一般の地図には記されていない場所が存在する。
分厚いコンクリートと多重の結界によって守られたその場所こそが、この国の「裏側」を統括する中枢――『内閣特務呪術管理局』、通称「局」の本部である。
その最深部にある大会議室。普段であれば、国の霊的国防に関する重大事項が話し合われる厳粛な場であるが、今の空気は「厳粛」という言葉からは程遠かった。
充満しているのは、腐敗した怒りと、隠しきれない焦燥、そして屈辱だ。
「……ふざけるなッ!!」
重厚なマホガニーのテーブルが、拳で叩きつけられて悲鳴を上げた。怒声を上げたのは、局の幹部の一人である初老の男だ。
彼は顔を真っ赤にして、テーブルの上に置かれた「一枚の紙」を指差している。
「なんだこれは! 我々をコケにするのもいい加減にしろ!」
「落ち着きたまえ、参事官。血圧が上がるぞ」
「落ち着いていられるか! 見ろ、このふざけた請求書を!」
その紙は、最高級の和紙で作られた請求書だった。達筆な筆文字で、こう記されている。
『慰謝料請求書』
『件名:先日提供されたデザート(研究所)の味が著しく悪かったため』
『請求額:金伍億円也』
『振込期限:本日中』
そして、差出人の欄には、優雅なサインでこう書かれていた。
『株式会社クライシス・クリーンサービス 代表取締役 御堂アリス』
「五億だぞ、五億! 研究所を一つ壊滅させ、貴重な実験データを灰にしておきながら、さらに金をよこせだと!? ヤクザでもこんな真似はせんぞ!」
「全くだ。テロリストに屈して金を払えば、国家の威信に関わる。断固拒否すべきだ!」
幹部たちが口々に罵倒する。彼らはエリートだ。表の世界では決して名前が出ることのない、しかし確実に国を動かしている特権階級。
そんな彼らが、たった一人の少女によって、赤子のように手玉に取られている。その事実が、彼らのプライドをズタズタに引き裂いていた。
「……静粛に」
騒然とする会議室に、低く、冷たい声が響いた。一瞬で静寂が訪れる。上座に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げたからだ。
白髪交じりのオールバックに、感情の読めない爬虫類のような目。この組織のトップ、局長である。
「局長……しかし、この要求はあまりに……」
「支払う」
局長は短く告げた。
「は?」
「総理大臣のご決断だ。本日中に、内閣官房報償費(機密費)から全額を振り込む」
「な、なんですと!?」
幹部たちが絶句する。総理直々の決裁。それは、もはや議論の余地がない絶対命令を意味する。
「な、なぜですか! 相手はただの民間業者……いや、反社会的勢力ですよ! 国家がテロリストに資金提供するなど!」
「理由なら、そこにあるだろう」
局長は、請求書の下に置かれていた、もう一つの資料を顎でしゃくった。それは、黒いUSBメモリだった。御堂アリスが、破壊した研究所の跡地に「わざと」残していったメッセージだ。
「中身は確認したか?」
「は、はい。ですが、あれは……」
「『政府主導による、孤児を用いた人体実験の記録』。そして『人造人間の製造データ』……これらが全て、高解像度の映像と、詳細な文書で保存されていた」
局長は淡々と言った。
「あの魔女は、研究所を物理的に破壊しただけではない。我々にとって最も痛い『急所』を抉り出し、それを人質に取ったのだ」
沈黙が流れる。誰もが言葉を失った。そう、彼らは知っていたのだ。自分たちが手を染めていた闇の深さを。
二十年前の大戦以降、霊的戦力が枯渇した日本政府は、禁忌に手を出した。
身寄りのない子供を拉致し、使い捨ての実験動物として扱った非人道的なプロジェクト。
それが明るみに出れば、内閣総辞職どころでは済まない。国際社会からの弾劾、そして歴史的な汚点として、日本という国そのものが傾くスキャンダルになる。
「奴は言ってきたよ。『払わないなら、このデータを全世界のメディアと、裏社会の全組織にばら撒く』とな」
「くっ……! 脅迫か!」
「そうだ。そして奴ならやる。御堂アリスに、愛国心や倫理観など存在しないからな」
局長は苦々しげに吐き捨てた。彼らは理解した。これは、ただの「カツアゲ」ではない。「お前たちの命運は私が握っている」という、絶対的な支配宣言なのだ。
「……分かりました。直ちに財務省へ連絡し、手配させます」
参事官が、悔しさに震えながら頭を下げた。屈辱だ。国家権力が、たった一人の少女に膝を屈する。だが、今の彼らに選択肢はなかった。
「……だが、勘違いするなよ」
局長の目が、怪しく光った。彼は懐から葉巻を取り出し、カッターで先端を切り落とす。
「我々は負けを認めたわけではない……これは『手付金』だ」
「手付金、ですか?」
「ああ。あの魔女を、地獄の底へ叩き落とすためのな」
局長は葉巻に火を点け、紫煙を吐き出した。その煙の向こうで、彼の顔が凶悪に歪む。
「このままでは終わらせん……例の計画を前倒しにする」
「例の計画……まさか!」
幹部の一人が息を呑む。
「『箱』を使うおつもりですか!?」
その単語が出た瞬間、室内の空気が凍りついた。『箱』。それは、この局において長年タブーとされてきた、禁断のアーティファクトの符丁だ。
「あれは危険すぎます! 制御不能な特級呪物ですよ! もし暴走すれば、東京が……いや、関東一円が壊滅します!」
「構わん」
局長は即答した。
「御堂アリスという『癌』を放置すれば、いずれこの国は内側から食い荒らされる。毒をもって毒を制す……そのためなら、多少の犠牲(東京の一部)など安いものだ」
狂気。かつての大戦でまともな人間が死に絶え、「ゴミとクソの掃き溜め」となった現在の局を象徴するような、独善的な論理。
だが、追い詰められた彼らにとって、それは縋るべき唯一の希望だった。
「交渉は済んでいる」
局長はモニターのリモコンを操作した。画面に映し出されたのは、太平洋を航行する巨大な艦隊の映像。星条旗を掲げた空母打撃群だ。
「アメリカ海軍第七艦隊。彼らが極秘裏に輸送している『貨物』こそが、我々の切り札だ」
「アメリカが……『箱』の返還に応じたのですか?」
「ああ。奴らも持て余していたのさ。戦後、GHQが日本から持ち去ったはいいが、あまりに危険すぎて本国にも持ち込めず、海の上をたらい回しにしていた厄介物だ」
局長はニヤリと笑った。
「来週、横須賀に入港する……それを受け取り次第、作戦を開始する」
「作戦名は?」
「『魔女狩り』だ……御堂アリスをあの『箱』に封印し、永遠の闇に葬り去る」
会議室に、どよめきと、そして暗い熱気が満ちていく。それは正義の執行などではない。自分たちの保身と、歪んだ復讐心を満たすための、狂った儀式の始まりだった。
同時刻。東京都新宿区、株式会社クライシス・クリーンサービス事務所。静まり返ったオフィスに、麺をすする音が響いていた。
「んめぇ……やっぱりシーフード味が最強だな……」
俺――佐藤健太は、デスクでカップラーメンを啜っていた。時刻は午後二時。遅めの昼食である。
窓からは穏やかな陽光が差し込み、埃がキラキラと舞っている。平和だ。先日の「研究所壊滅」という地獄巡りが嘘のような、穏やかな日常。
「平和だなぁ……」
俺は汁まで飲み干し、ふぅ、と息をついた。だが、その平和は「俺の財布の中身(砂漠状態)」とは反比例している。
先日の危険手当は出たものの、借金の返済に吸い取られ、手元に残ったのはカップ麺代くらいのものだ。
「……なぁ、新人」
背後から、不機嫌そうな声がかかった。振り返ると、ソファの上で胡座をかいた桃が、ゲームのコントローラーを握りしめていた。
大型テレビの画面では、格闘ゲームのキャラクターたちが激しいバトルを繰り広げている。
「なんだよ桃。お前もカップ麺食うか?」
「いらねぇよ……それより、見てみろよコレ」
桃が顎で画面を指す。そこには、桃が操作するキャラクター(パワー系の鬼)と、対戦相手のキャラクター(小柄な魔法少女)が映っていた。
体力ゲージは、桃が残り一割。相手は満タン。一方的な虐殺だ。
「クソッ! なんでだよ! 今のガードしただろ!」
「甘いわね。そこは中段攻撃よ」
桃の対面に座っているのは、この会社の支配者、御堂アリス会長だ。彼女は深紅のドレス姿のまま、優雅にコントローラーを操作している。
画面など見ていない。紅茶を飲みながら、片手で適当にボタンを押しているだけのように見える。なのに、画面の中の魔法少女は、神がかった動きで桃の攻撃を全て捌き、的確なコンボを叩き込んでいた。
「読みが浅いのよ、ペット。貴女の思考なんて、手に取るように分かるわ」
「うがぁぁぁ! ハメ技だ! 汚ねぇぞ!」
「ハメじゃないわ。セットプレイよ。対策しなかった貴女が悪いの」
フィニッシュ。画面にデカデカと『K.O.』の文字が表示される。桃が「くそぉぉぉ!」と叫んでソファに突っ伏した。
「……平和ですね、会長」
俺は空のカップをゴミ箱に投げ捨てながら言った。
「政府と戦争して、研究所を一つ消し飛ばした数日後に、格ゲーで遊んでるなんて。肝が据わってるというか、なんというか」
「あら、私はいつだって平和主義者よ?」
会長は悪びれる様子もなく、コントローラーを置いた。
「向こうが勝手に喧嘩を売ってきて、勝手に自滅しただけ。私は被害者よ」
「どの口が言いますか……で、どうなんですか? 政府の方の動きは」
俺は少し声を潜めて聞いた。あんな派手なことをして、タダで済むはずがない。報復があるのではないかと、俺は内心ビクビクしていたのだ。
「ああ、それなら解決したわ」
会長はスマホを取り出し、画面を俺に見せた。そこには、ネットバンキングの入金履歴が表示されていた。
『振込:内閣官房 金額:500,000,000円』
「……ご、五億!?」
俺は目玉が飛び出るかと思った。ゼロの数が多すぎて、一瞬理解できなかった。
「な、なんですかこれ! 宝くじ!?」
「慰謝料よ。あの研究所、空気が悪くて喉が痛くなったから、治療費を請求しておいたの」
「どんな治療したら五億かかるんですか!?」
「精神的苦痛への賠償も込みよ……ま、向こうもこれで手打ちにしたいんでしょ。安いもんじゃない、国家の威信を守る代金としては」
会長はつまらなそうにスマホを放り投げた。五億円。俺が一生かけても稼げない金額が、この少女にとっては「端金」らしい。
「入金確認しました」
奥のデスクでパソコンを叩いていた氷室先輩が、冷静な声で報告する。
「これで今月の運転資金と、社長のプロテイン代、および桃の補習代は確保できました」
「やったぜ! って、私の補習代ってなんだよ!」
「家庭教師を雇います。貴女の頭脳レベルに合わせて、小学生から教えられる人材を」
「バカにしてんのか!」
騒がしい。だが、この日常の風景の中に、決定的な違和感があった。五億円という大金が動いているのに、誰も驚いていない。国を脅迫しているのに、誰も怖がっていない。
「……なぁ、会長」
俺は、ふと疑問に思ったことを口にした。
「相手は国ですよ? 五億払って、それでおしまい、なんてことありますか? 普通、もっとこう……警察とか自衛隊とか動かして、報復してくるんじゃ……」
「そうね。普通ならそうするでしょうね」
会長は新しい紅茶を注ぎながら、退屈そうに言った。
「でも、今の『局』にそんな胆力はないわ。あそこは二十年前の大戦で、まともな人間がみんな死んでしまった『出がらし』の組織だもの」
「出がらし?」
「ええ。生き残ったのは、安全な場所で震えていた臆病者か、他人の手柄を横取りするハイエナだけ……だから腐ったのよ。人体実験なんていう下劣な真似に手を染めるくらいにね」
会長の瞳が、冷たく細められた。
「彼らは自分たちの保身しか考えていない。だから、弱みを握られれば簡単に金を払う。プライドよりも椅子が大事な連中よ」
「はぁ……じゃあ、しばらくは安全ってことですか?」
「さあね」
会長は意味深に微笑んだ。
「窮鼠猫を噛む、とも言うわ。追い詰めすぎたネズミが、狂って何をしでかすかまでは、保証できないけれど」
その言葉に、俺はゾクリとしたものを感じた。ネズミ。
日本の呪術行政を牛耳る組織をネズミ呼ばわりできるのは、この世で彼女くらいだろう。だが、ネズミだって本気になれば病原菌を撒き散らす。
「ま、何が来ても関係ないわ」
会長はコントローラーを再び手に取った。
「雑魚が何匹集まっても、魔王には勝てない……それがこの世界のルールよ。さあペット、再戦よ。次はハンデとして片手でやってあげる」
「ナメんじゃねぇ! 今度こそボコボコにしてやる!」
再び始まるゲーム音。俺はため息をついて、自分のデスクに戻った。
平和だ。確かに、この事務所の中だけは平和だ。だが、俺は知っている。
この少女が「退屈だ」と言って指を一本動かすだけで、国の運命が変わり、人が死に、億単位の金が動くことを。
俺たちは、爆弾の上でピクニックをしているようなものだ。その導火線に、今まさに火がつこうとしていることなど知らずに。
その頃。神奈川県、横須賀沖。太平洋上の公海を、巨大な影が進んでいた。
原子力空母を中核とする、アメリカ海軍第七艦隊。世界最強の武力を持つ彼らが、厳戒態勢で護送している「ある貨物」があった。
空母の格納庫の奥深く。厳重にロックされた特別保管室に、それは置かれていた。大きさは一メートル四方ほど。古びた桐の木でできた、和風の箱。
表面には無数のお札が貼られ、太い注連縄でがんじがらめに縛られている。
『THE BOX』。米軍のコードネームでそう呼ばれるその物体からは、計器が振り切れるほどの異常な霊的反応が検出されていた。
「……おい、聞いたか?」
見張りの兵士が、相棒に囁く。
「この箱、日本に返すんだってよ」
「マジかよ。こんなヤバいもん、よく今まで持ってたな」
「なんでも、日本の政府が『どうしても必要だ』って泣きついてきたらしいぜ。『魔女』を殺すためにな」
「魔女? おとぎ話かよ」
兵士は笑い飛ばそうとした。だが、その時。箱が、ガタリと揺れた気がした。
「……おい」
「気のせいだろ。波だよ、波」
二人は視線を逸らし、話題を変えた。見ないふりをするしかなかった。その箱が放つ、底知れぬ「闇」の気配から逃れるためには。
船は進む。災厄を乗せて、日本へ。御堂アリスという魔女と、そのおもちゃたちが待つ、東京へ向かって。
嵐は、すぐそこまで迫っていた。




