六十七話 黒猫の大脱走
神殿から少し離れている場所にあるその牢は、地下数階にも及ぶ広い空間に数多くの檻がある。神都で法を犯した者が入れられるその場所は、不潔ではないが清潔とも言えない。
そんな場所に数日前から黒猫は囚われている。
チッ、ニャンで俺がこんなところに。
質素だが普通の大きさのベッドがあるにも関わらず、黒猫はそのベッドの端っこで丸くなり檻の先を光る瞳で見つめている。その黒猫は獣人であり、本来は人族の社会で生きていなし、生きることを望まない。しかしこの黒猫はソフィアの剣を盗み、そのせいで数日前から神都の牢に入れられている。
しかし、どうしたものかニャア…………この牢、居心地は悪くニャいが……出てくる食いもんが……。
黒猫は薄暗くて狭めのその牢を、逆にそれが良いと気に入ってはいるけれど、最重要事項である食事の問題に悩んでいた。今まで裕福とは言えず寧ろ貧乏な生活を送ってきた黒猫にとって、剣を盗んだ日にソフィアという銀髪の女性から貰えた魚はとても美味しくて、今はそれが忘れられないでいる。けれどあれから魚を一度も貰えてないことに憤っている。
魚、食いたいニャ………。
「ブルルル……俺は何を言ってるだ。そんニャッ、じゃなくて………そんな事より剣のことだ」
黒猫は素早く頭を振ると、思わず言ってしまいそうになった癖を言い直した。そして自分が盗んだ剣のことを考え、次に自分を買った奴らのことを考えた。
奴ら、ちゃんとアレを取ったかニャア…………。
黒猫は今まで色々な者たちに買われてきたが、あれ程野蛮で清潔感のない連中は初めてだった。同族に売られた黒猫の需要は計り知れない。要人の暗殺や重要情報の奪取といい、ちっぽけな金銭では到底手の届かない程価値がある。それなのに黒猫を買った盗賊どもはその大金を用意する事ができたのだ。
黒猫は一つ大きな欠伸をすると、眠たそうに目を擦った。
「ふああ………取り敢えず」
取り敢えず、ニャ…………俺はここから脱出しニャければならないニャ。
黒猫はそっと目を閉じると、顔を自分の腕の中に埋めて眠りについた。明日の朝早くこの牢から脱獄する為に、英気を養う為に。
「相変わらずここは暗いなあ………ま、そこが良いだけど」
ここから脱出する為に先ずはこの牢の扉を開け、次に誰にもバレニャいようにここから脱出する………まさか人間どもも朝にいニャくニャるとは思わニャいだろう………。
早朝、オルティアが光輝いているにも関わらず、地下牢にはその明かりは届かない。けれど黒猫は自分が起きた時間は朝と決めつけ、脱獄に移そうとしていた。獣人は闇に潜むのが得意な生き物だが、黒猫は先日捕まったときの事を考えうらをかくことにした。
さあてと…………。
黒猫はニンマリと頬を上げると、地べたにつくほどの背伸びをした。
そして真っ黒な中にピンクの肉球がある可愛らしい手を見ると、突然キラリと光る爪を出してその状態を確認した。
今日も俺の爪は良い感じニャア………毎日研いでるだけのことはある。
獣人の恐れられていることの一つに武器を常備しているというのがある。小刀などの忍ばせるようなものではなく、それは全ての獣人が生まれながらに持つ爪だ。とても鋭利で、人間の肉なんか軽く切り刻める。
「ニャア………」
黒猫は扉の錠前に人差し指の爪を差し込むと、コソコソと誰にも見つからないように慎重に指を動かした。
するとガチャリという音を立てた扉がゆっくりと後ろへ開いた。
まずは成功だニャア………あとは。
黒猫は開いた扉から音も立てずに出ると、灯りが付いていない暗闇に自分の黒い毛を溶け込ませて出口へ向かった。
黒猫の動きは素早く、静かで、仮に来ると分かっていて耳を澄ませていても気が付かないほどだ。闇の中に必ず入り、近くに誰かの気配を察知しようものなら素早く身を隠してやり過ごす。
そしてあっという間に監獄の出口までやってきた。ここまで危機的状況は一つもなく、黒猫もそれを誇りに思った。
さて次は…………見張りが二人、か…………どう切り抜けよう……そうだ!
監獄にいくつかある出入り口のうちの一つにいる見張りをどうにかする為、黒猫は思い付いたようにそこらを見回して小さな小石を見つけると静かな動作で手に取った。
そして見張りのいる場所の更に奥へ狙いを定めると、手に持った小石一つを投げた。
「ん? 何だ?」
すると見張りの男の一人は不思議そうに座っていた椅子を立つと、石が投げ込まれて鳴った音の方へテクテクと歩いて行った。
ぬふふふ………馬鹿ニャ人間。いや、人間が馬鹿ニャのか………ぬふふふ。
馬鹿な人間を見て内心爆笑する黒猫は、もう一人が音の鳴った方へ確かめに行ってる男を見ている隙に出口の扉まで近づいた。
そして気付かれないように扉を開けると、ソッと出てソッと閉めた。
「何かあったか?」
「いや何も」
「クックック」
扉の向こうで馬鹿な人間の会話を聞いて堪えきれなくなった笑いを静かに出した。
人間如きが俺を捕まえておこうニャんて思う事が間違いニャんだよ…………しかし、魚を貰えるか待っていたのに……これニャら早々に脱出しておけば良かったニャア………。
少し落ち込んでいる黒猫は久しぶりの外に出て周りを見ると、思っていた通りの朝だった。
そして少しだけ……いや大きく期待していた魚を貰えなかった黒猫は、残念そうに監獄を離れた。
建物の影から影へ次々と移動する黒猫は、周りが明るいのにも関わらず誰にも見つからない、誰にも見つけられなかった。
しかし、
「ウニャア!」
建物の屋根伝いにピョンピョンと飛び移っていた黒猫は、突然腹部に感じた痛みと、力強く掴まれる感覚に驚きの声を上げた。
い、一体ニャにが…………!? ハッ! この感覚は!
何処にも誰もいないのに、どこからともなく掴んでくる謎の手。触れるけれど振り解ける程弱くはないその手を、黒猫は前にも一度体験していた。
「また!」
最初に驚いていた黒猫は、これのせいで捕まったことを思い出して怒り気味にそう言った。
そしてなんとか振り解こうとするがやはり解けない。
「ウッ、ウッニャア」
「…………え、えっと…………そうだね、連れて行こう」
なんとか逃げようと暴れ回る黒猫は、近くで聞こえた女の声に気付いて周りを見回した。
しかし声の主は見当たらない。それが黒猫には不気味でならなかったが何より不気味だったのは、聞こえる声が一つであるにも関わらず、まるで誰かと話し合いをしているような口調で喋っていることだった。
「ウッ………ニャアアアア!」
そうして黒猫は謎の女にソフィアの元へ連れていかれ、それからまた同じ牢に入れられた。
そして翌日。捕らわれた黒猫はまだ日が出ていない早朝の牢の中で、
「よし、脱出しよう」
もう一度監獄から脱出しようとしていた。黒猫は昨日の失敗を懲りずに再度脱獄を試みる。しかし今度は自分が紛れやすい暗い中の脱獄だ。
昨日捕まった理由はきっと明るかったからニャ。明るかったから見つけやすかっただけニャ。その前は…………きっと偶然だと思う。
短絡的に考える黒猫は、今度は大丈夫だろうと牢の扉を当然のように開けて出た。
そして増えている見張りを見て少し苦戦するかと思った黒猫だったが、これだけの数がいる、と安心していた見張りの気持ちが問題か、はたまた黒猫自身の隠密能力がそもそも高いせいか、またもや簡単に脱獄できた。
「クックック……やはり人間は馬鹿だニャア」
黒猫は一度ならず二度までも自分を逃してしまった馬鹿で愚かで鈍い人間を内心大爆笑した。
しかし、
「ウニャア!」
黒猫はまたあの手に捕まってしまった。
またか! またニャのかァ!
舞い上がった気持ちが一瞬のうちにドン底へ落とされてしまった黒猫は、また近くで聞こえてきた女の声に大きな声を出して質問した。
「お前はニャんだ!」
「え、名前……? 名前はユウカだけど」
そのユウカと名乗る女は、そういうと昨日と同じようにソフィアの元へ黒猫を連れて行った。
そして黒猫はもう三度目の牢屋送りになった。
「ニャア! 貴様はどうして俺を捕まえられるニャ!」
「ああ、それは」
「待ってユウカ。それは秘密にしておいた方が良いわ」
檻の中から鉄の棒を両手で掴んでユウカにそう訪ねた黒猫だったが、霊体状態のソフィアにもう少しのところで邪魔されてしまった。
「ウゥゥ、何度捕まえたって無駄ニャ! 何度だって逃げ出して見せるニャ! シャァァ!」
「そうね、何度も逃げられるのは困るわね………あ、そうだ! ユウカ」
悩んでいたソフィアは、ふと何かを思い付いたのか誰もいない空間にヒソヒソと語りかけた。
「え? 私がやるんですか?」
「ええ」
「………良いですけど。まあ、私猫好きですし」
一体ニャんの話を………。
「えっと、猫さん。明日から私があなたの元に魚を届けに来ます。だからもう逃げ出すのはやめて下さい」
「ニャ、ニャにィ?」
黒猫は迷った。あの美味しい美味しい魚を明日から毎日食べられるという幸せと、なんとか逃げ出して野蛮な盗賊どもの元へ戻るかどうかを天秤にかけて。
しかし、
「しょ、しょうがないニャア、じゃなくて、なあ。魚と取引ニャ、じゃなくて、だ」
黒猫は欲望に負けてしまった。




