毒入りティーカップ事件 上:好みの問題
茶器には作法がある。
誰が注ぎ、
誰が先に口をつけるか。
そしてそれにどんな“意味”があるかまで。
翌日曜日。
校門前に赴いたホミカの目に、停まっている馬車が映った。以前にも同じ場所で見た馬車だ。伊吹の話は嘘ではなかったらしい。
「あら、式見さんもいらしたの?」
馬車の中には透子が先に座っていた。そういえば、彼女は婚約者がいると言っていた気がする。
「やっぱり、そういう関係だったのではありませんこと?」
含みのある笑みを向けられ、ホミカは肩をすくめた。
「前にも言いました。あの日が初対面です。特別な関係などありません」
「では、そういうことにしておきましょう。それにしても、そのドレス……素敵だわ」
透子は萌葱色のドレスに、流行りの廂髪。華やかだが、どこか作り物めいても見える。
「透子さんの方こそ、お似合いです。私は明るい色が似合いませんから」
「少々派手かと思ったのですが……」
透子は隣の男をちらりと見る。ホミカも視線を向けた。
不二川子爵。入学式に寮の入口ですれ違った男だ。西洋的な顔立ちに長身、整った体躯。公家というより武家の印象が強い。
「君には、その方が似合うよ」
さらりと口にする。透子が頬を緩める。
「まさか、この私が賭けに負けるとはな」
子爵は苦笑した。
「伊吹が女性とまともに会話できるとは思わなかった。今日までは虚勢だとばかり」
「失礼ですね。母や妹と話すくらいはできます」
伊吹はむっとした様子で言い返す。
子爵はこめかみを押さえ、小さく「粗相をしなければいいが」と漏らした。
「巻き込んでしまって申し訳ない。どうやって口説き落としたのかは知らぬが」
「ご心配なく。自分の意思で来ました。彼の割れた腹筋に惚れたわけでもありません」
ホミカが淡々と返すと、伊吹がぎょっとした顔で口をぱくつかせた。
(まさか本当に脱いだのか)と言っているような気がした。
「子爵様の異国のお話に興味があるだけです」
その言葉に、子爵は愉快そうに笑った。
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やがて馬車は屋敷へと到着する。
出迎えた石光男爵は、ひと目で神経質と分かる男だった。二十八にして白髪交じり、頬は痩け、眼だけが異様に大きい。
「お久しぶりです、閣下」
「やあ……体調は最悪だよ。最近は吐血までしてね。医者からは胃潰瘍だと診断されたよ」
乾いた笑い。子爵の表情が曇る。
「戦後処理が終わらなくてね。胃がもたんらしい」
客間へ通される。落ち着いた洋室だった。上質だが、装飾は控えめで整っている。
「どうぞ、お掛けください」
使用人が椅子を引く。
そのとき、伊吹が壁を指さした。大型肉食獣の毛皮が掛かっていた。
「あれ、猫ですか?」
「馬鹿を言うな。あんな大きな猫がいるか。虎だろう」
「縞がありませんわ。豹では?」と透子。
ホミカは毛皮に目をやる。斑紋の形、密度。
豹ではない。中心に黒点がある——
「ジャガーですよ」
男爵が答えた。
「妻が仕留めました。アルゼンチンでね。眉間を一矢で」
軽く弓を引く仕草。壁には毛皮のほかに短弓が架けられていた。
武家の娘だという説明に、透子が感嘆の声を漏らした。
そのとき使用人が耳打ちする。
「……妻は少し遅れるようです。先に始めても?」
異論はなかった。
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お茶が運ばれる。
ティースタンドにはスコーンとサンドイッチ。バターと甘い香りが広がる。英国式アフタヌーンティーらしい。
「どうぞ遠慮なく」
男爵の声に、伊吹がすぐ手を伸ばしかけた。
「待て」
子爵が腕を掴む。
「こういう場では、まず紅茶からだ」
「いえ、お気になさらず」
男爵は穏やかに笑うと、躊躇なくカップに砂糖を落とし、ミルクを加え——さらにレモンの輪切りを次々と沈めていく。
一枚、二枚、三枚。
やがて表面が埋まるほどになる。
ホミカは目を細めた。
あれではお茶ではなく、ほとんどレモン汁だ。
「それで、どんな賭けを?」
男爵に促され、子爵が経緯を語る。
話の合間、透子がくすくすと笑う。
「それは君の負けだな。虚仮の一念、岩をも通ずだ」
「苔の一年……?」
伊吹が首を傾げる。
(違う)
ホミカは小さく息をついた。
「苔でも一年念じれば意思疎通できるってこと?」
「通じません」
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話題は自然とホミカと透子へ移る。
「帝国女子大の学生と聞いたが」
「薬学を学んでおります」
「薬局でもやるのかね?」
「いいえ。薬剤師は薬を売るだけの職ではありません」
言葉を選びながら、簡潔に説明する。
市場に出る薬の監視、品質の担保、必要なら排除。
「言わば薬の警察です。クスリは逆さに読むとリスク。容易に毒にも転じます。毒を欲する者に毒を売ることが正しいことでしょうか? 英語で薬学の語源となっているPharmacyは元々、希臘語で毒という意味だったとも言います」
男爵は興味深そうに頷いた。
ホミカが海外の草本サンプルの提供を申し出ると男爵は素直に応じてくれた。
ふと、伊吹がサンドイッチを覗き込む。
「キュウリだ……」
どこ吹く風の伊吹はサンドイッチの中身を見ていた。
「英国ではサンドイッチの定番らしいな。向こうでは高級食材のようだ」
子爵が言う。
「キュウリが? 英国人の舌、どうかしてる」
「お前はキュウリが苦手だったな」
ホミカも一つ手に取り食べる。
苦味が強いが、常識の範囲だ。キュウリは食材としても使うが、元々は苦味を利用して催吐剤として利用する。
(薬草園でこっそり育てている苦くないキュウリを華族相手に売り捌けば、そこそこの研究資金になるのでは)
(でも、そんなことをすれば教授は怒るだろうな。二つの意味で)
それ以上は考えないことにした。
男爵が、ようやくカップを口元へ運ぶ。
一口。
その直後だった。
わずかに、手が止まる。
「……?」
子爵が眉をひそめる。
男爵の指先が震えた。
カップが受け皿に触れ、かすかな音を立てる。
次の瞬間、顔色が急速に失われていった。
「閣下?」
呼びかけにも反応がない。
視線が定まらず、呼吸が浅く速くなる。
喉がひくりと引きつり、肩が跳ねた。
カップが落ちる。
割れる音。
男爵は胸元を掴み、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
「——!」
子爵が駆け寄る。
床の上で、男爵の身体が小刻みに痙攣する。
足は空を踏み、指は強くこわばっている。
口元に泡が滲む。呼吸は乱れ、途切れ途切れだ。
ホミカも立ち上がる。
「誰か医者を呼べ!」
使用人が駆け出す。
「吐かせろ!」
指示が飛ぶが、間に合わない。
痙攣が一度、大きく跳ね——
そのまま、力が抜けた。
静止。
子爵が手首に触れる。
「……脈がない」
誰も言葉を発しなかった。
「毒か?」
低く、押し殺した声。
「これは事件だ。誰も動くな——警察を呼べ」
張り詰めた空気の中、その言葉だけがはっきりと響いた。




