毒入りティーカップ事件 中:毒杯裁判
毒物過剰注意。でも後悔しません。
「これでこの屋敷の者は全員です」
家令の言葉とともに、応接間に使用人たちが並ばされる。
厨房の菓子職人・加島、茶を淹れた茶園、給仕係の膳所、そして家令。四人。
「奥方はどうした?」
不二川子爵が問うた直後、廊下から足音が響いた。
「まあ、あなた……!」
飛び込んできた男爵夫人が、亡骸に縋りつく。
遅れて医師が肩に手を置いた。
「お気を確かに。私が到着した時には、すでに……」
嗚咽が室内に満ちる。
そこへ警官が踏み込んだ。
「取り込み中で恐縮ですが——男爵は殺害された可能性があります。現場検証と聴取を行います。ご協力を」
「殺された……?」
夫人が顔を上げる。
「心当たりは? 恨みを買うようなことは」
「一つや二つではありませんわ。外交官ですもの。——軍部の要求を退け続けたことなど、恨みに数えませんこと? 不二川閣下」
「否定はしない」
短い応答。
「動機の絞り込みは難しい、か」
そのとき、伊吹が口を挟んだ。
「待てよ。毒殺って決めるなら、毒はどこだ? どうやって飲ませた?」
珍しく筋の通った指摘だった。
「早計ですな」
医師が顎を撫でる。
「男爵は重い胃潰瘍を患っていた。アスピリンも使っておったことだしな。死亡に至っても不思議ではない。甘味が引き金になった可能性も——」
ホミカは小さく首を振った。
(違う)
あの倒れ方が、頭から離れない。
「それは考えにくいです」
視線が集まる。
「胃潰瘍であれば、失血によるショックが先に出ます。ですが先ほどは——呼吸の乱れと痙攣が主でした。発症も急すぎます」
「君は?」
「薬学を学んでいます」
医師が眉をひそめるが、子爵が制した。
「続けろ」
「吐血もありませんでした。以前はあったと聞きますが、今回はない。死因が同じとは考えにくいです」
「処方のアスピリンは鎮痛には有効ですが、胃を痛める薬でもあります。病状の悪化は説明できますが——やはり今回の急変とは一致しません」
結論だけを置く。
(少なくとも、自然死ではない)
「では毒殺とすると——どこに入っていた?」
「お茶なら、我々も飲んだが」
「茶器に仕込んだ可能性は?」
議論が広がる。
「毒はヒ素です」
そんな中、声を上げたのは膳所だった。
「ヒ素だと?」
医師が反応する。
「入手も可能です。殺鼠剤として使います。食料庫に出入りする者——菓子職人が怪しいのではないでしょうか?」
視線が加島へ向く。
「待ってくれ、俺は——」
「私は見たのです。あなたと御前様の口論を」
膳所が畳みかける。
「賃金のことで言い争っていたでしょう?」
「……事実だが、殺してない! 菓子を作っただけだ。配膳のことは知らない!」
「皆さん、砂糖は使いましたか?」
膳所の問いに、誰もが首を振る。
「使ったのは御前様だけ。つまり砂糖にヒ素が混ぜられていたのです」
これに子爵が頷く。
「ヒ素は無味無臭。理屈は通る。銀食器の用意だ」
銀皿が使用人によって運ばれ、砂糖が載せられる。そこに、水滴が落とされる。
じわりと黒ずみが広がった。
「……確かに反応したな」
ホミカは黙って見ていた。
(検出としては間違っていない。でも——)
違和感は消えない。
「お待ちください」
透子が口を開く。
「仮にそうだとして、どうやって石光様の席だけに?」
「それは——」
「来客も砂糖を使う可能性があります。特定の誰かに毒を盛るのは不可能です」
沈黙。
ホミカは頷いたのちに補足した。
「ヒ素中毒なら、強い消化器症状が出ます。ですが今回は神経症状が先行していました。そこも一致しません」
膳所の顔が揺らぐ。
子爵が砂糖壺とカップを改めて調べさせる。
「……こちらは反応なし。となると、ヒ素の混入は厨房の砂糖だけか」
「偽装の可能性が出てきたな」
警官が低く言った。つまり、原因はヒ素ではなかったが、毒殺がほぼ確定したというわけである。そして、誰が、とは言わずとも鋭い視線が膳所に向けられる。
「わ、私ですか? 違います。第一、この屋敷に元々ヒ素があると言っていません。だって屋敷の殺鼠剤は何かの植物の球根を使いますよ?」
「左様です。屋敷では海葱を使っております。庭で栽培すれば費用もかかりません」と家令。
海葱は強心作用のある薬草だが、ジギタリスと同じく量を間違えば心臓が止まる。正直使いにくい。だが、殺鼠剤という変わった用途があるのだ。
「だが、ヒ素の購入履歴を薬局で調べれば犯人は分かったも同然だ」
警察は勝ち誇ったように言った。だが、今度は茶園が水を差す。
「調べたって分かりっこないですよ」
「……なんだと?」
「だって、ヒ素は奥方の化粧水の中ですもの」
警官の問いに、彼女は落ち着いた声で応じる。
「化粧水? では犯人は男爵夫人だというのか。間違っていたらただでは済まさんぞ」
「いいえ、お巡りさん。化粧水の持ち主は奥様ですが、実行したのはそこの膳所ですよ」
「どういうことだ?」
「膳所は奥様が雇い入れたのですが、私は見てしまったのです。彼女が頻繁に奥様の寝所に這入っているのを」
「使用人なのだから、特段不思議には思わないが」
「それが深夜でもそう思いますか? 実は彼女と奥様は恋人同士なのです」
「まさか、いや、ありえない!」
「だがそうだとすれば動機ははっきりする。男爵が亡くなれば跡継ぎもいない。遺産は夫人が相続することになる。邪魔者が消えて一石二鳥ということか」
「はい。ヒ素は砂糖ではなく、予めティーカップに入れていたのです。配膳を担当した彼女ならそれが可能。奥様の化粧水の秘密を彼女が先に知っていたのか、奥様が指示したのかは分かりませんが」
かつて、ヨーロッパでトファナ水と呼ばれたヒ素入り化粧水があった。美肌効果を謳い文句にしていたがその実、既婚女性が、夫と離縁するために使われた。特に宗派がカトリックの場合、離婚はできないので合法的に別れるために使われたそうだ。
「そんな……私にできるはず――」
「お前が婦人と恋仲である話は事実か?」
膳所の弁明を制して、警官は訊く。
「はい。神に誓って、神はお認めにならないかも知れませんが、私達はお互いを愛し合っています。ですが、こんなことで人殺しなんて」
「だが、殺せば相当の遺産が転がり込んでくると言われたらどうなるか分からんぞ」
「なるほど、そう言うんなら、まず使われた毒物は何だ?」と警察官。
「俺には分かった」
声を上げたのは菓子職人だった。
「毒物はミルクの中だ」
「確かにここにいた人物でミルクを取ったのは男爵だけだ」と子爵。
「生乳は食中毒の原因になりえるが、そんなに直ぐに症状が出るか?」
それに医者が疑問を呈する。
「いや、これは実のところ牛乳じゃないのです」と菓子職人。
「どういうことだ?」
「御前様は牛乳でお腹を下す体質なのです。ですから普段牛乳を使いません」
なるほど、レモン男爵は牛乳不耐体質だったか。西洋人に比べて日本人には牛乳が体質的に飲めない者が多いと聞く。
「じゃあこのミルクの中身は?」
「アーモンドミルクだ――」
菓子職人は勝ち誇ったように言う。
「アーモンド粉末を水に混ぜたもので、本物の牛乳より腐敗しにくい利点がある。だが、気を付けなければならないのは、アーモンドには毒のあるヤツがあるんだ。誰かが有毒種のアーモンドミルクとすり替えた」
「苦仁種のことだな。西洋では菓子の香り付けに使われることもあるが、摂取量が多いと青酸中毒を引き起こす」
と医者が補足。
「苦仁種が入っていたのであれば、苦いですから味で気付くと思いますよ」
ホミカは反論する。
「いや、御前様はお茶にこれでもかというぐらいレモンを入れます。皆さんも見たでしょ? あれでは味なんてとても」
「なおさら不可能です。大量のレモンが入ることでお茶は酸性になります。すると苦仁種の毒が抜けてしまうのです。これでは実行は不可能。それに他の人がミルクを手に取れば、その人も犠牲になります」
「犯人は他の人間が巻き添えになっても構わない可能性だってあるじゃないか。そもそもお前はさっきから人の意見にいちゃもんばかり。そんな大層なことを言うなら、お前はどう考えるんだ?」
(それはこちらが説明する前に話を被せてくるから)
ホミカは拳をぐっと握って切り返す。
「なら、青酸が使われた可能性はないことを証明してみせましょう」
ホミカはミルクのピッチャーを掴み取ると、それをがばと飲み込んだ。脂肪の甘みと仄かな杏仁豆腐の匂い。苦味は全くない。
唖然とする一同。
「ほら、毒なんて入ってない」
簡単な話だ。男爵からは青酸ガス特有のアーモンド臭がしなかった。
「大丈夫ですの?」
心配そうな透子。
「いやはやとんだお転婆だ」
呆れ返る子爵。
「ちょっとよろしいですか?」
今度は家令が挙手。
「先程から身内ばかりが疑われるのは聞き捨てなりません。犯行の動機として挙がる候補も内輪揉めばかり。御前様が狙われた動機というのはもっと大きなものの可能性はありませんか?」
「外部犯の可能性を言いたいわけだ」
「左様です。それに、御前様の器にだけ毒を盛る方法を考えるのであれば、うちの使用人を疑う以前に、同じテーブルにいたあなた方のうちの誰かが御前様の器に毒を盛ったとは考えられませんか?」
家令は丁寧な物言いだったが、この言葉にはお前らのうちの誰かが犯人だと言わんばかりだ。いや、もしかしたら全員が共犯だと思っているのか。
「そんなこと言ったらあなただって――」
反応したのは意外なことに男爵婦人だ。
「あなただって、主人のことを快く思っていなかったではありませんこと? 帝室の藩屏たる男爵家が、最近は金策に熱心なばかりと、批判されてはおりませんでした?」
「奥方様、確かに言い争いをしたことはありますが、それは人間同士の付き合いですから全くないわけありません。どのような意図でそんなことをおっしやっているのか……」
「あら? 理解が悪いのね。夫が亡くなれば男爵家は断絶。あなたこそ何か企んでいるのでは?」
毒のすり替えだなんて、この家の中にいる人物全員が可能なのよと婦人は念押しする。
「ち、違う。私は断じて――」
「これは魔術だ、魔女の仕業だ。でなければ皆の目を盗んで、御前様にだけ毒を盛るのは不可能」
「いや、実は全員に毒を盛られていて、御前様以外は解毒剤を飲んだのではないか。つまり御前様が口にしなかったものが――」
「毒物は殺鼠剤の海葱では――」
またしても各々が好き勝手に話し始める。
「待ってくださいませ、皆様。あなた方の推理は全て見当違いな方向に進んでおられます。このままですと間違った答えが導き出されてしまいます」
ホミカは脱線を修正すべく言葉を声にする。
「まず前提を整理させてください。今回使われた毒は、ヒ素でも青酸でもありません。何度も言いますが、あの症状は、経口毒に典型的なものではない」
ざわめきが起きる。だがホミカは構わず続けた。
「ですから、“何を飲んだか”ではなく、“どう取り込まれたか”が問題になります」
「回りくどい。結論を言え」
「その前に、犯人を確定する方法を提示します」
ホミカは一拍置いた。
「――これから神明裁判です」
空気が止まる。
「正気か?」
子爵が眉をひそめる。
ホミカは静かに頷いた。
「ご存じでしょう。神明裁判――神の加護に委ねて、罪の有無を問う方法です。毒や火などを用い、無実であれば生還し、有罪であれば罰を受ける」
アフリカ西部ではフィゾスチグミンを含むカラバル豆、東部ならキョウチクトウの仲間のタンギンが用いられた。
透子が息を呑む。
「そんなもの……」
「ええ、非合理です。ですが、このようなことになってしまっては神に縋るしかありませんこと?」
警官が苛立ったように言う。
「で、何をさせるつもりだ」
「簡単です」
ホミカは男爵のティーカップを手に取り、新しいカップへと中身を分けた。
「これを、お二人に飲んでいただきます」
差し出されたのは、男爵婦人と膳所。
「ふざけないでください」
膳所が顔を強張らせる。
「毒が入っているかもしれないのですよ?」
「ええ」
ホミカはあっさりと頷いた。
「だからこそです。無実であれば、神様が守ってくれるでしょう」
場の空気が張り詰める。
透子が小さく首を振った。
「式見さん、それは……」
「先ほど、私たちも同じ茶を口にしました」
ホミカは遮るように言う。
「それでも、飲めない理由がありますか?」
問いは静かだったが、逃げ場はなかった。
数秒の沈黙。
やがて――
「……馬鹿馬鹿しい」
男爵婦人がカップを掴んだ。
「こんなもので罪が決まるものですか。飲めば気が済むのでしょう?」
そのまま、一気に飲み干す。
警官が「待て」と声を上げたときには、もう遅かった。
婦人はカップを置き、息を吐く。
「ほら、ご覧なさい。何ともないではありませんか」
勝ち誇った笑み。
「これで分かったでしょう? 私は無罪――」
言いかけて、言葉が止まる。
隣で、膳所がカップを持ったまま動かない。
「……どうしたの? 早く飲みなさい」
「……」
膳所の手が震えている。
「飲めば、分かるのでしょうか?」
絞り出すような声。
「ええ」
ホミカは頷いた。
「飲めば分かります」
沈黙が落ちる。
やがて膳所は、ゆっくりと首を横に振った。
「……私には、できません」
その一言で、空気が決まった。
「決まりだな」
医者が言う。
「飲めないのなら――」
「いいえ」
遮ったのはホミカだった。
全員の視線が集まる。
「何?」
警官が眉をひそめる。
ホミカは静かに言った。
「誰が、“飲んで無事なら無罪”と決めたのですか?」
場が凍りつく。
「私はただ、“飲んでもらう”と言っただけです」
「……なに?」
「この裁判で問われるのは、生死ではありません」
ホミカの視線が、まっすぐ婦人へ向く。
「――結果を、知っていたかどうかです」
婦人の表情がわずかに揺れた。
「そのお茶が安全だと“知っていた”から、あなたは迷わず飲めた」
次に、膳所を見る。
「一方で彼女は知らなかった。だから飲めなかった」
沈黙。
「つまり――」
ホミカは結論を置く。
「毒の性質を理解していた者。すなわち犯人は、あなただけです。男爵婦人」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
作中補足。アーモンドはバラ科の植物で、桃や梅とは近縁。青梅を食べてはいけないのはよく知るところで、実はアーモンドも野生種は有毒で、青梅と同じくアミグダリンを多く含む。なお、アミグダリン自体は無毒で果実・種子の酵素反応によってマンデロニトリルに変化。マンデロニトリルは胃酸など強い酸と反応して青酸ガスを発生させます。




