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半信半裸の訪問者

「式見さん? もう行かないと講義に遅れましてよ」


 実験室の外から声がした。


 ホミカは手を止めたまま、しばらくその音を聞いていた。水滴がフラスコの縁を伝って落ちる。一定の間隔で、ガラスに触れて弾ける小さな音。


 それが一つ、二つと数えられなくなった頃、ようやく顔を上げる。


 窓の外はすでに明るい。鳩の声が、妙に間延びして聞こえる。


「はい、今行きます」


 返事をしてから、洗い終えたフラスコを乾燥棚に置いた。白衣を脱ぎ、袖口に残った水気を軽く払う。


 朝の実験室は、夜とは別の場所のようだった。

 光が、そこにあるものすべての輪郭を曖昧にする。ガラス器具は光を弾き、壁や床に細かな反射を散らしている。灯りがなくとも明るいが、どこか現実感が薄い。


 出入口の方へ視線をやる。引き戸のガラス窓の向こう、黒い影が揺れている。待っているのだろう。


 手鏡を取り出す。髪を整えるというより、触れて確かめる。癖はいつも通りだ。頬の痣も隠れない。そこに意味はない。


 最後に、白い手袋をはめる。指先を一本ずつ収めていく。


 外気に触れる前に、境界を一枚挟むように。


「おはよう、稲葉さん。待たせました」


 戸を開けると、稲葉透子がこちらを見上げた。


「あら、部屋を出るときにおはようと声をかけたつもりでしたけど?」


 含みのある笑みをこちらに返す。


「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」


「いえ、心配なさらずに」


 透子は肩をすくめてみせると、すぐに話題を変えた。


「今朝はどんな実験を先生に頼まれましたの?」


 二人は並んで歩き出す。


「征露丸の改良を少し」


 廊下は冷えている。外の空気がそのまま流れ込んでいるようだ。


「風味が強すぎて飲まれなかったらしいので」


「あの味は……確かに強烈ですわね」


 透子が小さく顔をしかめる。


「でも必要なら飲むでしょう?」


「飲んだと誤魔化して捨てられた例もあったみたいです」


 言いながら、昨夜の会話が一瞬だけ浮かぶ。


 ――触れるだけで済みます。


 言葉そのものより、その場の空気の方が記憶に残っている。


「砂糖を入れる案もあるのですが、それだと逆に不味くなるので」


 透子は何か言いかけて、やめた。


「まあ、時間がもう」


 視線の先、講堂の時計が目に入る。八時半に近い。


 二人の歩調が自然と速くなる。


 その途中で、違和感が差し込んだ。


 講堂の方からではない。逆方向から、男が歩いてくる。


 白いシャツ。薄茶のズボン。帽子はない。髪は短く刈られている。


 近づくにつれて、細部が見えてくる。


 袖はまくられている。腕の筋肉は過剰ではないが、均等に付いている。日に焼けている。


 靴は黒。埃がほとんど付いていない。新品か履き慣れていないか。


 歩幅は広い。一定。周囲を見る気配はない。


 目的地を知っている歩き方だ。


 すれ違う瞬間、男はわずかにこちらを見る。


 視線は短い。確認に近い。


「ちょっと式見さん。何してるんです、遅れましてよ」


 透子の声で、足が止まっていたことに気づく。


「先に行ってて、戸締まりを忘れました」


「あぁ、ちょっと!」


 振り返る。男はそのまま進んでいる。


 行き先は――研究棟。


 考えるより先に、体が動いた。

(先生はいない。アポもない。この時間、この場所に来る若い男などいるはずない)


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 裏手に回り込む。足音を抑えながら。


 香雪邸(こうせつてい)の勝手口は、正面よりも建付けが甘い。押せば音が鳴る。力をかけずに開ける必要がある。


 内部は静かだった。


 人の気配はない。


 正面の方から、戸を叩く音が聞こえる。


「誰かおられますか」


 声ははっきりしている。迷いはない。


 ホミカは執務室へ向かう。引き戸の前で一瞬だけ止まり、手をかける。


 中はいつも通りだった。積み上げられた紙束、放置された標本、埃。


 そのまま、閂をかける。


 金属がかみ合う、乾いた音。


「おられますか」


 再び声。今度は少し近い。


 戸に手が触れる音。引く気配。押す気配。


 開かない。


 短い沈黙。


 その間、ホミカは室内を見ていた。

 視線は動くが、特定のものに留まらない。


 埃の層。紙の端の反り。乾ききった植物の色。


 そのとき、喉の奥にざらついた感覚が走る。


 息を吸った瞬間、わずかな粉塵が気道に入る。


 抑えきれない。


 くしゃみが出た。


 思ったより大きな音になった。


 外の気配が変わる。


「誰かいるのか?」


 声の調子が変わる。


「だ、誰もいませんょ」


 口が勝手に動いた。


 言ってから、言葉の形が少しおかしいことに気づく。


「そうか……ってわけないだろッ!!」


 直後、戸が激しく揺れた。


 力任せだ。構造を理解していない。


「今すぐ開けろ!」


 戸を押さえる。木の軋む音が伝わる。


 力は強いが、方向が単純だ。


 支えれば持つ――


 そう思った瞬間、感触が変わった。


「違う、これは――」


 外れる。


 戸が内側へ倒れる。


 視界の端でそれを捉え、腕で払う。重みは受け流せたが、同時に別の重さが覆いかぶさってきた。


 男の体。


 息が一瞬詰まる。


 石鹸の匂いが近い。


 布越しの圧。皮膚には触れていない。


 そのことだけを、まず確認する。


「し、失礼しました」


 男の声が上から落ちてくる。


 体勢が動かない。


「……どいてください」


 短く言う。


 そのとき、


「式見さーん、いますの?」


 透子の声が重なった。


 少しだけ間があって、戸が開く。



 一瞬だけ視線が止まり、

 何かを見定めするように細められる。


 そして結論。


「ごめん遊ばせ。余計なお世話だったようです」


 声は穏やかだったが、言葉には呆れと少しの怒気をはらんでいた。


「先生には体調不良と伝えておきますわ」


 そのまま去る。


 足音が遠ざかる。


 ホミカは天井を見たまま、数秒動かなかった。


「違う、違うのよ、透子。ほら、早くそこをどきなさい、不審者」


 弁明は届かなかった。透子は何かを納得したような顔のまま、そそくさと立ち去っていく。


 戸が閉まる。


 その音がやけに大きく響いた。


 ホミカはしばらく動けなかった。


 視界の端に、まだ男の肩がある。近い。近すぎる。


「……どいて、ください」


 声が思ったより低く出た。


「あ、ああ、すまない」


 男が慌てて身を起こす。重みが離れる。


 その瞬間、肺に空気が戻ってきた。


 ホミカはそのまま横を向き、袖口で口元を押さえた。呼吸を整える。指先がわずかに震えている。


 触れてはいない。

 触れてはいないはずだ。


 だが、布越しの圧がまだ残っている気がした。


 ゆっくりと体を起こす。距離を取るように、一歩下がる。


 男の方は気まずそうに視線を泳がせていた。


「申し訳ない、余計な面倒をかけさせたみたいだ」


 引き戸を嵌め直しながら言う。


 ホミカは答えず、手袋の指先を押さえた。ずれていないか確かめる。


 問題ない。


 それでももう一度、指を軽く握り込む。


 声に敵意はなかった。

 むしろ、状況を理解しきれていない戸惑いが混じっている。ようやく顔を上げる。


「本当によ。これで退学にでもなったら責任とってもらいますわ」


 言いながら、さきほどの透子の反応を思い出す。あの表情。あの引き際。


 面倒だ。


「責任って――」


 男が妙なところに引っかかる。


 ホミカは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「変な意味ではありませんからね」


「そ、そうですよね」


 男は咳払いを一つして、

「本日のところは、お暇させていただきます。本当に失礼しました」と頭を下げる。


 そのまま帰らせるわけにはいかない。


「お待ちください」


 声をかけると、男は素直に足を止めた。


「何かご用でいらしたのではなくって?」


「いえ、もういいんです。大したことではありません。帰りますから」


 曖昧な返答。視線も落ち着かない。


「私を押し倒すほどのことが大したことないと?」


「あの、いいえ、そういうわけでは」


 慌てて否定するが、続きが出てこない。


 ホミカは軽く首を傾げた。


「見たところ、あなた、軍人さんなのでしょうけれど。任務で訪ねたわけではないでしょう?」


「どうして軍人だと?」


「背中に書いてありましてよ」


 男の手がぴたりと止まる。


 次の瞬間、ワイシャツのボタンに指をかけた。


 外す。


 一つ、二つ。


「ちょ、ちょっと。何をしていますの?」


 思わず声が上ずる。


「確かに、鍛えられた肉体を見れば分かることだったか」


 男はそのまま上裸になると、腕を曲げて見せる。


 ホミカは一歩引いた。


 距離を取る。


 視線は一瞬だけ筋肉の形をなぞり、そのまま外す。


(近い)


 さっきの感覚が、わずかに戻る。


 意識を切り替えるように、咳払いを一つ。


「実は、君に、一つ、頼みたいことが、あって、訪ねたのだ」


 言葉ごとに姿勢が変わる。妙な癖だ。


「私に? 先生ではなくて?」


 平静な声を作る。


 男の顔に見覚えはない。


「そうだ。どうか私と一緒に茶会に出てはもらえないだろうか?」


 一瞬、言葉が止まる。


 意味は分かる。だが、そこに至る過程が繋がらない。


 ホミカは男を見て、それから椅子を指した。


「まずは、そこにお掛けになられて落ち着かれるのがよろしいかと思います」


 男は素直に従い、丸椅子に座る。上裸のままで。


 椅子が軋む。


「では、あなたが――」


伊吹(いぶき)でいい」


「は?」


「俺のことは伊吹と呼んでくれ」


「分かりました。では伊吹。あなたが――」


「ちょっと待て。なぜ呼び捨てなんだ」


 すぐに訂正が入る。


 ホミカは瞬きを一つ。


「今、伊吹でいいと言ったのは伊吹ですが?」


「あーもういい。分かったから好きに呼べ」


「では、スキニー。あなたが――」


「最早日本人ですらない」


 即座に返ってくる。


 ホミカは小さく頷いた。


「スキニー。細かい男は女子に嫌われてよ。あら、『細い』という意味でしたね」


「俺ってそんなに細い!?」


 腕を触って確かめている。


 視線がそこに集中している。


 ホミカは一度だけ深く息を吐いた。


 さっきの違和感は、もう薄れている。


「少なくとも神経の方は太くないようね。えーっと、指宿(いぶすき)? 指宿が私にお茶会へ参加してほしいとはどういうことですの?」


「あぁ、そうだった」


 ようやく本題に戻る。


 男――伊吹は事情を語り始めた。


 上官の挑発。約束。女子を連れてくる必要。


 話は単純だった。


「なるほど。手っ取り早く相手を見つけるために来たと」


 ホミカは短くまとめる。


 場所も時間も噛み合っていない。


「待て。一つ解せないのは、服を脱ぐ必要があったのか?」


「なんか、お前、言葉遣い悪くないか?」


「指宿にはいいのよ。それに私のことは、お前ではなく、式見さんと呼びなさい」


「はい、分かったよ、式見さん。服を脱いだのは――」


 説明は簡単だった。


 上官の言葉を、そのまま実行しただけ。


 ホミカは軽くこめかみを押さえる。


「私がお茶会に参加する利点を提示しなさい。行くかどうかはそれを聞いてから」


 条件を置く。


 伊吹は黙る。


 しばらく考えてから、知っていることを順に並べ始めた。


 参加者。肩書。経歴。


「その男爵、元外交官というのなら外国にはよく行かれるのかしら?」


「そこまでは知りませんが、語学に堪能で、前の戦の開戦前にアルゼンチンから戦艦の購入交渉を成功させたとか」


 ホミカはわずかに視線を落とした。


 アルゼンチン。


 距離。流通。標本。


 いくつかの可能性が頭をよぎる。


 (貴重な標本や縁談の伝手がもらえるかもしれない)


「分かりました。なら一日だけお付き合い致しましょう」


 その言葉を聞いた伊吹は、一瞬だけ安心したように肩の力を抜いた。

 ようやく次から事件らしい物語になります。次の「毒入りティーカップ事件」は以前短編で投稿したものを書き直したものになります。

 事件パートは基本情報密度が高めな文体になっております。予め御了承ください。

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