試験管越しの誤解
夜のキャンパスは、吹く風もなければ音がよく通る。
稲葉は外壁に身を張り付け、ランプの灯る教授室の様子を伺っていた。
本来なら立ち入りを許される場所ではない。だが、窓の向こうから漏れてくる声が、どうしても無視できなかった。
「……触りますか?」
ホミカの声だ。
「実験してみませんか?」
短い沈黙。
稲葉は息を潜めた。背中に、じわりと冷たいものが走る。
(実験……?)
ただの言葉ではない。
空気が違う。静かすぎる。張り詰めすぎている。
学問の議論ではない。
もっと現実的で、もっと危うい何かだ。
やがて教授の声が低く落ちた。
「いや、結構だ」
即答に近い拒絶。その響きに、かすかな警戒が混じっている気がした。
(何を断ったの?)
稲葉は眉をひそめる。
先ほどから耳に入っていた単語が頭の中で引っかかった。
――悪魔。
場違いなはずのその言葉と、今のやり取りがうまく噛み合わない。
だが、だからこそ妙に残る。
思い出すのは、以前から耳にしていた断片だ。
伊刀公爵とホミカの繋がり。
地方出身のはずなのに、癖のない標準語。
明らかに慣れている、実験道具の扱い。
そして今、夜ごとに行われている不可解な“実験”。
(何かある人だとは思っておりましたけど……)
一つ一つは些細な疑問も、重なると無視できない。
喉が乾く。
(まさか……)
まだ確信はない。だが、嫌な方向にばかり考えが寄っていく。
(政府絡みの……何か? 表に出せない研究……?)
そこまで考えた瞬間、背筋に一層の寒気が走った。
そして――
椅子の軋む音。
何かが崩れる気配。
「なるほど……そういうことーー」
教授の声。
直後、重い沈黙。
稲葉は反射的に息を止めた。
(……何が起こった?)
判断材料が足りない。このままでは何も分からない。
覗くべきではない。そう思うのに、視線は窓へと引き寄せられる。
わずかに背伸びをする。
慎重に、気配を殺しながら顔を覗かせた。
試験管越しでよく見えないが、先ほどまで話していた教授が、床に倒れている。
その傍らで、ホミカが静かに見下ろしていた。
息が詰まる。
(まずい)
胸の奥で何かがはっきりと形を持つ。
(これは……本当にダメだわ)
「誰かいるの?」
かすかな息遣いにも満たないほどの音。
だが、それにホミカは反応した。
ゆっくりとこちらへ向けられる顔。
その表情は――これまで見たことのない、鋭い形相だった。
稲葉は反射的に身を引く。
音を立てないよう、必死に足を運ぶ。
気づかれてはいけない。
(見られた……? いや、まだ……)
自分に言い聞かせるように、暗闇の中を逃げ出した。
今のは何だったのか。
寮へ向かう足を止めることもできず、思考だけが空回りする。
あれは研究なのか。
――違う。
情報の断片が勝手に繋がっていく。
教授は何かを知ってしまったのではないか。
だから消されたのではないか。
脳裏に、公爵にまつわる噂がよぎる。
護衛を一人もつけない理由。
必要ないほどの実力か、それとも――
(……裏で処理する人間がいる?)
息が浅くなる。
(式見さんは……)
言葉にした瞬間、それが妙に現実味を帯びた。
公爵専属の、処理役。
寮に飛び込み、扉を閉める。
ようやく止まった足とは裏腹に、震えは収まらない。
布団を頭から被り、稲葉は小さく体を丸めた。
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教授が倒れたあと。
ホミカは、ほんの一瞬だけ動きを止めていた。
気配があった。
視線を向けられた、そんな感覚。
(見られた)
確信ではない。
だが、外れる類の勘でもない。
問題は――誰にどこまで見られたか。
「……」
ホミカは軽々と教授を持ち上げ、椅子に座らせる。
その荷物を扱うかのような所作は軽く人間離れしていた。
そのまま、視線を感じた辺りを観察する。
土に残るブーツの跡。
爪先は鮮明で、踵は浅い。
背伸びをしなければ室内を覗けない背の高さ。
(……ああ)
「稲葉さん、ですか」
呟きは独り言のように静かだった。
都合がいいのか、悪いのか。
判断はつかない。
「……先生」
それが誰に向けられた言葉なのか、自分でも曖昧なまま。
わずかに目を細める。
「少し、手間が増えましたね」
ホミカは足跡を辿り、静かに歩き出した。
部屋の扉が静かに開いた。
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稲葉は反射的に目を閉じ、布団の中で呼吸を浅く整える。
戻ってきた。
足音は軽い。迷いもない。
まっすぐこちらに向かってくる。
(寝てる、寝てる、寝てる……)
自分に言い聞かせる。
だが、近づいてくる気配に、どうしても身体が強張る。
足音が止まった。
すぐ傍だ。
沈黙。
「……起きていますよね」
静かな声だった。
断定でもなく、探るでもない。
ただ、事実を置くような言い方。
稲葉の喉がわずかに動く。
(バレてる)
観念して、ゆっくりと目を開けた。
「……何のこと?」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
ホミカは否定も肯定もしない。
ただ、こちらを見下ろしている。
逃げ場がない。
稲葉は視線を逸らしたまま、口を開いた。
「さっきの……あれ、何?」
一瞬の間。
「どれのことですか?」
返答は、あくまで平坦だった。
「研究棟でのこと。見たの」
言ってしまった、と遅れて思う。
だが、もう引けない。
「触るって……教授に何を触らせようとしたの?」
沈黙。
空気が、わずかに張り詰めた。
ホミカはすぐには答えない。
その間が、妙に長く感じられる。
(やっぱり……)
稲葉の中で、先ほどの光景が再生される。
倒れた教授。見下ろす影。
「……気に障りますか?」
ようやく返ってきた言葉は、拍子抜けするほど静かだった。
「は?」
思わず顔を上げる。
ホミカはわずかに首を傾げた。
「教授の体調の話です。飲み過ぎは体に障るので、控えた方がいいと」
淡々としている。
説明というより、事実の確認に近い。
「触る、って……」
「言い方が悪かったでしょうか」
視線は変わらない。
だが、その奥に何かを探る気配がある。なぜかは分からないが、彼女を信じてはならないような気がした。
(……それだけ?)
稲葉の中で、組み上がっていたものが揺らぐ。
そのとき――
扉が勢いよく開いた。
「マーダー起きてマーしたカ!」
寮母の声が部屋に響く。
二人同時に振り向いた。
「消灯時間終ワリデース。まったく……今夜ハ最悪デス」
苛立ちを隠そうともしない声音。
「私の夫、研究棟デ飲ミ過ギマシタ。アソコハ、ベッドじゃナーイ」
その一言で、空気が変わった。
「……え?」
稲葉は間の抜けた声を漏らす。
「重イカラ運ベなイ、毛布巻イテあげマス」
寮母はぶつぶつ言いながら、部屋を見回す。
「兎ニ角、モウ寝なサーイ」
言うだけ言って、扉を閉めた。
静寂が戻る。
「……」
「……」
稲葉の思考が、ゆっくりと繋がる。
(飲んで……寝てた?)
倒れていたのは、そのせい。
さっきの音も、ただ崩れただけ。
(じゃあ……)
ホミカの言葉が頭の中で繋がる。
――体に障る。
(そういう意味の“触る”……?)
一気に力が抜けた。
「……なに、それ」
思わず笑いそうになるのを堪える。
「紛らわしいんだけど」
緊張がほどける。
肩の力が抜けるのが自分でも分かる。
「普通に注意してただけじゃん……」
小さく息を吐く。
「びっくりした……」
布団に潜り直しながら、ぼそりと呟く。
「……教授の面子、守ってあげてるんだ」
納得したように、ひとり頷いた。
「そういうことなら、最初からそう言えばいいのに」
ホミカは何も答えない。
ただ、わずかに目を細めた。
(単純……)
呆れとも、感心ともつかない感情がよぎる。
問い詰めるだけ詰めておいて、この結論。
理解が早い分、疑るのは苦手なのかも。
(扱いやすい、とは言えない)
むしろ逆だ。
思い込みで動く人間は、ときに思いがけない行動に出る。今のもそうだ。
視線を布団に向ける。
稲葉は既に規則的な寝息を立てていた。
「……」
ほんの一瞬だけ、間を置く。
(どこまで見たのか)
結論は出ていない。
だが――
「……厄介ね」
小さく呟く。
ホミカは自分のベッドへ向かった。
部屋は静かになる。
だがその静けさは、先ほどまでとは少しだけ質が違っていた。




