接触禁忌
「先生はどこまでご存知なのでしょうか」
香雪邸の執務室。引き継ぎを終えたところで、ホミカは静かに切り出した。
教授は飲み始めたワイングラスを机に戻し、顔を上げる。
「何のことかね?」
「私の入学にあたってです。便宜が図られたのではないかと」
間を置き、視線を逸らさずに続ける。
「公爵様は、どこまでお話しになりましたか」
教授はわずかに息をついた。
「特別な事情があることは察している。だが素性についてはほとんど聞かされていない。入学させろ――それだけだ」
机上の手紙を指で叩く。
「不本意ではあったがね。学問は実力で選ばれるべきだ」
ホミカは小さく頷いた。
――やはり、何も知らされていない。
それでいい。
知られていない方が都合がいい。
「入学は認めたが、実力が伴わなければ退学させるつもりでいた」
「手厳しいですね」
「当然だ」
小山の視線が鋭くなる。
「君の実力は認める。だが動機が分からん。何をしたい?」
ホミカはわずかに息を吸った。
「決着をつけたいのです」
「決着?」
「ええ。私の因縁に」
小山は眉をひそめる。
「額の痣のことか。――やめなさい。無駄だ」
即断だった。
ホミカの表情は変わらない。
「無駄、ですか」
「私欲だ。学問をそのために使うべきではない。身の上については公爵の手紙に書いてあった」
ホミカは一瞬体を強張らせ、教授に肉食獣のような鋭い視線を向けた。
「君の父親、きょうだいは屋敷諸共原因不明の火災で亡くなった。それが原因で没落した。放火の可能性もあると聞く。君は誰が犯人かを知って、復讐を図るつもりだろう」
ホミカは小さく息を吐いた。
「先生」
わずかに笑みを浮かべる。
「そんな面倒なことはしません」
一歩、机に近づく。
ランプの光が揺れ、影がわずかに伸びた。
「私なら――触れるだけで済みます」
小山の視線が、今度ははっきりとホミカの手に向けられた。
「……どういう意味だ」
教授は顔を顰めて訊き返した。
「こんなインドの昔話をご存知ですか。毒を少しずつ与えられて育った娘が、やがて毒そのものになる――そういう話です」
「御伽話だな」
「ええ。普通はそうでしょう」
あっさりと肯定する。
だが、そこで言葉を切らない。
「ですが、稀に――そういう異常が観測されることがあるのですよ」
小山の眉がわずかに動く。
「非科学的だ。有毒人間など存在しえない」
ホミカは静かに反論した。
「けれど、否定もまた難しい」
小山は鼻を鳴らす。
「悪魔の証明だ。実証主義に反する」
「それはどうでしょう? 試しに触りますか?」
ホミカはそれ以上言い募らなかった。
ただ、距離を詰めすぎない位置で立ち止まる。
触れられる距離には、入らない。
「研究者として実験したくないですか」
「いや、その必要ない……ともあれーー」
小山が話を打ち切るように言った。
「助手に任命したのは、筋を通すためだ」
小山は書類に目を落としたまま続けた。
「結果がどうあれ合格させるつもりではあった。だが、それでは周囲が納得せん。ゆえに試験という形を取った」
静かな声だった。
だが、その中に揺るがぬ意志がある。
「公爵の依頼は“入学”ではない。“研究させろ”だ」
ホミカの呼吸が、わずかに止まる。
「助手であれば、研究室の出入りは自由になる」
教授はホミカを見た。
「それで足りるだろう」
しばし、言葉が出なかった。
理解が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
(ああ、そうか。なるほど)
(公爵様は私のことをここまで考えてくださったのか)
(これでようやく――研究できる。この因縁と決別するための)
許された。
自分のために。
ホミカの視界がわずかに滲む。
「……ありがとうございます」
声がかすれる。
「公爵の遺訓にも困ったものだな」
照れ隠しに顔を背ける教授。
涙が出ていることに、本人はすぐには気づかなかった。
一滴が、頬を伝い――
それを手で拭う。が、涙は手を伝い、教授の手の甲に落ちた。
その瞬間だった。
教授の呼吸が一拍だけ乱れ、指先が小刻み震え始める。
「……?」
椅子が軋む音を立てた。
次の瞬間、その表情が変わる。
「……なる……ほ……ど……」
低く、納得したように呟く。
「そういうーー」
力が抜ける。
椅子が軋み、身体が傾ぐ。
「部屋の……戸締りを……」
書類が床に散った。
ホミカは目を見開いた。
「先生――?」




