薬包紙の中の嘘(後日譚)
吾輩は薬学博士である。名前は小山正義。
本来ならば研究に没頭しているはずの身だが、現実はそう甘くはない。役所との書類、政界への働きかけ、学生の教育――いずれも手を抜けぬ務めである。帝国大学に加え帝国女子大学でも教鞭を執るようになり、時間の余裕はますます削られた。
それもまた、自ら望んだ結果ではあるのだが。
「休みがほしいな……」
誰もいない研究室で、思わず独り言が漏れる。
石油ランプの灯は頼りなく、書類の文字がわずかに滲んだ。眼鏡を外し、目頭を押さえる。
――だが、止まるわけにはいかぬ。
今日、新たに助手として任命した女学生のため、手引書を整えねばならない。
この研究室には危険な試薬が多い。管理は急務でありながら、任せられる人材は長らく見つからなかった。
人手不足は、もはや看過できぬ段階にある。
その折に現れたのが――式見ホミカである。
正直なところ、当初は期待していなかった。
公爵の推薦状など、往々にして厄介事の種になる。しかもその文面には、妙な一文が添えられていた。
――「この娘には、触れてはならぬ」
理由は記されていない。問い質す機会も、もはや失われた。
推薦状を寄越した伊刀公爵は、その直後にこの世を去ったからである。
結果として、それは遺訓めいたものになってしまった。
「……触れずに済むなら、それに越したことはないがな」
あくびを噛み殺しながら独りごちる。
深入りせずに済むのなら、それが最も穏当だ。
にもかかわらず――
あの娘は、想像以上だった。
試験の途中で自ら身を引いた。能力を誇示するどころか、こちらの意図を読んで動いたのだ。
あれは見せかけの聡明さではない。状況判断の速さと、抑制の効いた胆力がある。
「……面白い」
思わず口元が緩む。
事情は分からぬ。
だが、分からぬままで構わぬこともある。
使える人材であるならば、それで十分だ。
――少なくとも、今は。
その時、不意に扉が開いた。
ランタンの光とともに、見慣れた影が差し込む。
「あナタ、今晩ハここニいラしたのデースネ」
「アルニカか。珍しいな」
「明かりガ見えマシタので」
差し出されたのはワインボトルだった。
吾輩は軽く息をつき、それを受け取る。
「……ありがたく頂こう」
グラスに注がれた液体が、柔らかく光を返す。
「何カ、良いコトありマシタカ?」
「楽しみな学生が現れてな」
「私、嫉妬しマースよ。式見サンのコトでスネ?」
思わず咽せた。
「なぜ分かる」
「寮の事件、あノ人が解決しマシタ。観察、とテモ鋭いデース」
静かに語られる顛末に、吾輩は小さく頷く。
やはり、見込み違いではない。
「薬草園も任せてみるか」
ふと口に出していた。
「研究室だけデなく?」
「ああ。人手が足りん。あれならば務まる」
それは信頼というより、実務的な判断だった。
だが同時に、わずかな期待も混じっている。
「私ノ仕事、楽チンニなリまスネ」
グラスを傾けながら、それからくすりと笑った。
「ああ、苦労をかけたな」
ランプの火が、かすかに揺れた。
――「この娘には、触れてはならぬ」
公爵の文面が、ふと脳裏をよぎる。
触れるな。
詮索するな、という意味だろう。
余計な事情に踏み込むな――そういうことだ。
「……分かっているさ」
小さく呟き、吾輩は書類へと視線を戻した。
しかし、このとき、吾輩はまだその言葉の意味を半分しか理解していなかった。
事件が始まるのはもう少し先になります。




