表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/32

薬包紙の中の嘘(後日譚)

 吾輩は薬学博士である。名前は小山正義(こやま せいぎ)

 本来ならば研究に没頭しているはずの身だが、現実はそう甘くはない。役所との書類、政界への働きかけ、学生の教育――いずれも手を抜けぬ務めである。帝国大学に加え帝国女子大学でも教鞭を執るようになり、時間の余裕はますます削られた。

 それもまた、自ら望んだ結果ではあるのだが。

「休みがほしいな……」

 誰もいない研究室で、思わず独り言が漏れる。

 石油ランプの灯は頼りなく、書類の文字がわずかに滲んだ。眼鏡を外し、目頭を押さえる。

 ――だが、止まるわけにはいかぬ。

 今日、新たに助手として任命した女学生のため、手引書を整えねばならない。

 この研究室には危険な試薬が多い。管理は急務でありながら、任せられる人材は長らく見つからなかった。

 人手不足は、もはや看過できぬ段階にある。

 その折に現れたのが――式見ホミカである。

 正直なところ、当初は期待していなかった。

 公爵の推薦状など、往々にして厄介事の種になる。しかもその文面には、妙な一文が添えられていた。

 ――「この娘には、触れてはならぬ」

 理由は記されていない。問い質す機会も、もはや失われた。

 推薦状を寄越した伊刀公爵は、その直後にこの世を去ったからである。

 結果として、それは遺訓めいたものになってしまった。

「……触れずに済むなら、それに越したことはないがな」

 あくびを噛み殺しながら独りごちる。

 深入りせずに済むのなら、それが最も穏当だ。

 にもかかわらず――

 あの娘は、想像以上だった。

 試験の途中で自ら身を引いた。能力を誇示するどころか、こちらの意図を読んで動いたのだ。

 あれは見せかけの聡明さではない。状況判断の速さと、抑制の効いた胆力がある。

「……面白い」

 思わず口元が緩む。

 事情は分からぬ。

 だが、分からぬままで構わぬこともある。

 使える人材であるならば、それで十分だ。

 ――少なくとも、今は。

 その時、不意に扉が開いた。

 ランタンの光とともに、見慣れた影が差し込む。

「あナタ、今晩ハここニいラしたのデースネ」

「アルニカか。珍しいな」

「明かりガ見えマシタので」

 差し出されたのはワインボトルだった。

 吾輩は軽く息をつき、それを受け取る。

「……ありがたく頂こう」

 グラスに注がれた液体が、柔らかく光を返す。

「何カ、良いコトありマシタカ?」

「楽しみな学生が現れてな」

「私、嫉妬しマースよ。式見サンのコトでスネ?」

 思わず咽せた。

「なぜ分かる」

「寮の事件、あノ人が解決しマシタ。観察、とテモ鋭いデース」

 静かに語られる顛末に、吾輩は小さく頷く。

 やはり、見込み違いではない。

「薬草園も任せてみるか」

 ふと口に出していた。

「研究室だけデなく?」

「ああ。人手が足りん。あれならば務まる」

 それは信頼というより、実務的な判断だった。

 だが同時に、わずかな期待も混じっている。

「私ノ仕事、楽チンニなリまスネ」

 グラスを傾けながら、それからくすりと笑った。

「ああ、苦労をかけたな」

 ランプの火が、かすかに揺れた。


 ――「この娘には、触れてはならぬ」

 公爵の文面が、ふと脳裏をよぎる。

 触れるな。

 詮索するな、という意味だろう。

 余計な事情に踏み込むな――そういうことだ。

「……分かっているさ」

 小さく呟き、吾輩は書類へと視線を戻した。

 しかし、このとき、吾輩はまだその言葉の意味を半分しか理解していなかった。

事件が始まるのはもう少し先になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ