薬包紙の中の嘘
「今日は待ちに待った化学の授業ですわ」
朝の光がまだ柔らかく廊下に差し込むころ、透子は晴れやかな声でそう言った。
ホミカはその声を横で受け止め、わずかに視線を向ける。
「透子さん、化学にご興味が?」
「そのために進学したと言っても過言ではなくってよ」
意外だった。
この学び舎に集う多くの娘たちにとって、それは飾りの教養に過ぎない。だが透子の声音には、軽さがない。
「実家の紡績のこと、以前お話ししましたでしょう。けれど近頃は思わしくありませんの。でしたら、生糸に手を加えればよろしい――染めるのですわ、自分の手で」
言葉に伴って、指先が小さく握られる。
熱は隠しきれていなかった。
「ご立派ですこと。ですが、ご結婚なさった後は――」
「不二川様が継ぎますの」
間を置かぬ返答だった。
「稲葉の名が残らぬことに、未練がないわけではありませんけれど」
さらりと言い切る声音の裏にあるものまでは、読み取れない。
ホミカはそれ以上、踏み込まなかった。
やがて話題は自然と自分へと返ってくる。
「式見さんは、どうして帝女へ?」
わずかな間を置いて、ホミカは口を開いた。
「縁談が、思わしくなくて」
透子の目がきらりと光る。
「……それは、表向きの理由でしょう?」
半ば鋭い。
視線を受け流しながら、ホミカは内心で小さく息をついた。
「両親は他界しております。火事で」
短く、それだけを告げる。
透子は息を呑み、次の言葉を探しかけて――やめた。
視線が、額の痣へと向かう。
「……失礼いたしましたわ」
「お気になさらず」
しかし、会話はそこで終わらなかった。
「それだと、生活とか学費とかどうなさいますの? あなたのために何か私に手伝わせてくださいな」
(これ以上穿鑿を受けるのマズいな)
透子としては善意のつもりだろうからタチが悪いとホミカは思った。たとえ信頼できる人間だからといってここで全てを語るわけにはいかない。
「心配には及びませんわ。多少の後ろ盾はありますもの」
「後ろ盾って……どちらの?」
「伊刀公爵家、とだけ。……遠縁ですけど」
透子は予想外の大物に一瞬顔が引き攣った。婚約先らしい子爵家よりもはるかに格上、この国の帝に次ぐ権力者である。誤解されたとして、それで安全を買えるのであれば安い買い物だ。
講義室にはまだ教授の姿はなかった。
透子は風呂敷包みを膝の上で抱えたまま落ち着かない様子だった。布越しにも分かるほど、細長い瓶の輪郭が浮かんでいる。
やがて現れた教授は、遅れを詫びるでもなく教壇に立ち、淡々と教科書を開いた。
抑揚のない声が室内を満たしていく。
理解を促す語りではない。ただ文字列をなぞるだけの音。
その単調さに、次第に空気は沈んでいった。
やがて教授は不意に本を閉じた。
「今日はここまで」
安堵の気配が広がる。
だが、それを裂くように声が落ちた。
「式見ホミカ君」
一瞬、呼吸が止まる。
ホミカは視線だけを上げた。
なぜ、名を知っているのか。
その理由に思い当たるものはない。
「残りたまえ」
ざわめきが起こる。
人がはけたのち、ホミカは静かに立ち上がった。
「先生、私です」
「そうか。話は聞いている」
――何の話だ。
その問いは飲み込む。
そのとき、透子が前へ出た。
「わ、私は!」
声はやや上ずっていた。
「稲葉透子と申します。稲葉紡績の者で、先生にはぜひ一度ご挨拶をと……」
教授は一瞬だけ眉を動かし、次いで視線を透子の抱える包みに落とした。
その瞬間、わずかに表情が緩む。
ホミカはそこで理解する。
――そういう類か。
「有望株がいるとは聞いていたが……」
透子の頬が赤く染まる。
教授は包みを受け取ると視線をホミカへ戻した。
「さて」
低い声だ。
「吾輩が君を呼び止めた理由は分かるかね」
ホミカは即答を避けた。
沈黙。
教授は小さく息を吐いた。
「助手が欲しいのでね」
唐突だった。
「試験を行う。通れば助手にする」
ホミカはわずかに眉を寄せる。依頼した覚えはない。
「やります!」
透子が割り込んだ。
勢いのまま前に出る。
教授は目を瞬かせた。
「君ではないが」
「いったいどういうことですの?」
きっと透子がホミカを睨んだ。
(そんなこと言われても)
教授は肩をすくめる。
「構わん。優秀な方を採る」
教授の勢いは、止まる気配がなかった。
試験の中止を申し出る余地は、最初から用意されていないらしい。
ホミカはその流れに身を置くほかなかった。
課題は実技だった。
指示書に従って薬剤を調合し、分包するという単純なものだ。
天秤の操作、器具の扱い、薬包紙への封入。
手順はすべて指示書に記されている。
書かれた通りに動かせば、結果は必ず同じになる。
――少なくとも、そのはずだった。
(これで何を試験するつもりなのかしら)
ホミカは内心で小さく息を吐く。
あまりに整いすぎている。
操作そのものは容易い。意図が見えないことのほうが、むしろ不気味だった。
秤量を数度だけ行い、彼女は手を止めた。
そのまま隣の透子の手元へ視線を移す。
透子は真剣な顔で指示書とにらみ合いながら、丁寧に作業を進めていた。
眉間に皺を寄せながらも、動きは正確だった。
(真面目だなぁ)
そう思ったとき、透子が顔を上げる。
「できました」
明るい声だった。
迷いはない。
(早い)
それが率直な印象だった。
「式見クンは止まっているようだが、終わりかね?」
教授の声が飛ぶ。
ホミカは視線だけを向け、小さく頷いた。
その瞬間、透子が勝ち誇るように笑う。
「ホミカさん、残念ですわね。今回は私の勝ちのようですわ」
やや誇張された勝利宣言。
だがホミカは反応しない。
「さあ先生、結果を」
透子が促す。
教授はすぐには答えなかった。
代わりに、視線を二人へ順に走らせる。
「では問おう」
静かな声だった。
「稲葉クン。最も注意した点は何かね」
「天秤の正確さですわ。水平、校正、釣り合いの確認……誤差は結果に直結しますもの」
流れるような回答だった。
間違いではない。
教科書的には完璧だ。
教授は小さく頷く。
「なるほど」
だがそこで視線を逸らした。
「式見クン。なぜ君は最後までやらなかった?」
来ると思っていた問いだった。
ホミカは一拍置く。
そして、作業台の上の瓶へ視線を向けた。
「その試薬は、本当にサリチル酸ですか?」
一瞬、空気が止まる。
「な――」
透子が声を漏らす。
瓶には確かに「サリチル酸」と書かれている。
だがホミカは動じない。
「純度の保証がありません。定性確認のない物質を、そのままに従って扱うことはできません」
「それは流石に屁理屈ではなくって?」
透子の声はやや尖っていた。
だが教授は静かに割り込む。
「まさかそこまで偏屈とは思わなかったが、主張は正しい」
それだけだった。
ホミカはさらに瓶へ視線を落とす。
(純度)
(検定)
(対象不明)
思考が自然に繋がる。
ここで扱っているのは薬ではない。
もっと別なものだ。
形式だけなら処方箋……?
(なら、これは)
額の痣が少し痛む。
視線がゆっくりと上がり、教授へ向かう。
「式見クン」
教授の声が低くなる。
「君はなぜ、指示書に従わなかった?」
その問いは、確認ではなかった。
観察だった。
(従うことが目的ではない)
思考の輪郭が浮かび上がる。
この課題は、技術の試験ではない。
もっと別のものだ。
「薬を作れという課題ーーこれ、処方ですよね」
ホミカは言葉を選びながら続けた。
「ですが、処方の前提が抜けています」
「ほう」
教授の目が細くなる。
「これは、誰のための薬なのでしょうか?」
ホミカは淡々と続ける。
「対象が不明なままでは、量が適切か分かりません」
透子が口を開きかけるが、止まる。
「毒や薬があるのではなく、量が毒か薬かを決める。同じ処方でも、相手が違えば意味が変わる。処方とは従うためにあるのではなく、疑うためにある」
そこで一度だけ息を置く。
「つまり、この課題はーー」
視線を教授へ戻す。
「従うべきではないのです」
沈黙。
教授はしばらく動かなかった。
やがて、わずかに口元を歪める。
「よい」
短い言葉だった。
「稲葉クンの手技は決して悪くない。しかし、吾輩が求めていたのは腕ではない」
教授はゆっくりと言う。
「疑うことだ。与えられた形式を、そのまま信じないことだ」
ホミカはその言葉を聞きながら、静かに理解する。
先生の真意を。
「さてーーさっき言っただろうが、吾輩には助手が必要でね。この研究棟には常駐の管理者がいない。そして、女子校に男を置き続けるわけにもいかん。よって助手に管理を任せる」
淡々とした説明。
だが、その意図は明白だった。
「異論はないな」
教授はすでに決定事項として言った。
ホミカは一瞬黙る。
そして小さく答えた。
「……承知しました」
「よろしい」
教授は満足そうに頷き、そして背を向ける。
「ああ、それと」
扉の前で立ち止まる。
「さきほどの作業放棄の件だが」
教授は振り返ってホミカの作業台の下を指差す。
「次の機会に弁明するように」
扉が閉まる。
静寂。
ホミカは小さく息を吐いて、机の下に隠した化学便覧を恨めしげに眺めた。教授は知っていたのだ。ホミカが定性試験の方法を確認したうえで、できたはずの課題を放棄したことを。




