ひと匙の疑念(解決編)
「……は?」
稲葉は目を見開き、すぐさま言い返す。
「なぜ私がそんなことをしなくちゃいけないの!? 言い掛かりはよしてください!!」
だが告発者は引かない。
「しらばっくれても無駄よ。見たの。あなたが片桐さんの皿に、何かを入れるところをね」
ざわめきが広がる。
視線が、一斉に稲葉へと向けられた。
稲葉は唇を強く噛み、言葉を失う。
「稲葉さん。何を入れたのかしら?」
追及の声。
「……違う。私は、毒なんて……」
か細い声だった。
その様子を見ながら、ホミカは考える。
(状況だけなら、確かに怪しい)
だが、それだけだ。
「動機ならあるわ」
告発者が畳みかける。
「同室なのでしょう? 片桐さんと揉めていたのは皆知っているわ。だから排除しようとした――違って?」
勝ち誇った声。
空気が、決まりかける。
(……言うべきか、言わないべきか)
ホミカは目を瞑った。
結論に飛びつくには、決定的な材料が足りない。いったい何の毒を使ったというのか。
ホミカは、静かに知萌へ顔を向ける。
「ねえ、花菅さん」
「ん?」
「片桐さん、以前にもこんなふうに倒れたことは?」
知萌は少し考え込んだ。
「いや……寝込むことはあったけど、卒倒はなかったと思うわぁ」
(初めて、か)
ホミカの中で、一つ仮説が浮かぶ。
食材。体質。蕁麻疹。だが、断定はできない。
そのとき、知萌がふと思い出したように言った。
「あ、そういえばな。上京する前に、二回目のおたふく風邪にかかったって言うとったわ」
ホミカの思考が止まる。
(二回目?)
ありえない、とは言わない。だが――
何かが引っ掛かる。遅れるな……
額の痣が、わずかに疼く。
見落とせば、取り返しがつかない。
「……もしかして」
ホミカは顔を上げた。
「片桐さんの家、猫を飼っておりませんか?」
「え、なんで分かるん?」
知萌が目を丸くする。
「ようけ飼っとるで。今年生まれた仔と離れるのが寂しいって言うとったし」
――確信に変わる。
ホミカは無意識に額の痣を弄っていた。
ホミカは椅子を引いて立ち上がった。
周囲の視線が集まる。
「稲葉さんは無罪です」
静かな声だったが、場を切り裂くには十分だった。
ざわめきが止まる。
「……何を言っていますの?」
告発者が眉をひそめる。
「事実を述べています」
ホミカは一歩も動かない。
「毒など使われていません。症状が違います」
「じゃあ、あれは何なのよ!」
「片桐さんは、特定の食べ物に対して、体が過剰に反応する体質なのです」
一拍遅れて、空気がざわつく。
「体質……?」
「はい」
「そんな話――」
「ありますわ」
遮るように言い切る。
「まず一つ」
ホミカはテーブルを指した。
「その皿。片桐さんのものではありません」
視線が集まる。
「……どういう意味?」
「人参ばかり残っているでしょう。あれはこのカレーに使われている東洋種の人参です。西洋種に比べて香りが強い。苦手な方にはすぐ分かる」
学生の中には頷きを返すものがちらほら。
「ピーターラビットの件も、人参への反応と一致します」
「それが何だっていうのよ」
「稲葉さんは、それが食べられなかった」
沈黙。
稲葉の肩がわずかに震える。
「だから、隣の皿に移した。違いますか?」
「……っ」
「つまり、“何かを入れた”という目撃は正しい。ただし毒ではない」
場の空気が一段階落ちる。
「では、なぜ倒れたのか」
ホミカは間を置いた。
「花菅さん。関西のカレーは?」
「牛やな」
「こちらは?」
「……豚」
小さなざわめき。
「片桐さんは、豚肉を食べられない可能性があります」
「そんな理由で――」
「十分にあり得ます」
言い切る。
「体質的な反応は、ある日突然現れることがある。例えば――」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「動物に触れた後、特定の食べ物で発作を起こす例があるのです。特に肉類に例が多い」
知萌がはっとする。
「……猫」
「ええ。飼っていると言っていましたね?」
淡々とした声。
「二度目のおたふく風邪、という話もありましたが――別の症状だった可能性が高い」
おそらくは猫引っ掻き病。猫から外傷を受けたのちに扁桃腺(おたふく風邪の場合は耳下腺)が腫れる風邪症状がある。
完全な証明ではない。
だが、筋は通るはずだ。
「以上です」
静寂。
「これが現時点で最も整合する仮説です。反証があればどうぞ」
水を打ったように静かになった食堂。少し間をおいて、
「ですがーー」
告発者が声を上げる。
「仮にそうだとしても、彼女は不正を行った。ましてや、皆さん彼女に迷惑してる。いいじゃないですか、稲葉さんにお灸を据えたって」
稲葉の頬からぽたり、ぽたりと雫がテーブルに落ちる音がした。
(違う、そうじゃない)
「……その理屈ですと」
ホミカは、額の痣を隠すように前髪に触ると、感情の見えない声で言った。
「あなたは今後、体調を崩した者を見るたびに、都合のよい犯人を立てるおつもりですか」
一拍、間を置く。
「あるいは――ご家族が同じ症状を示した際にも、同じ判断を?」
視線だけが、静かに相手を捉えていた。
「……今の判断は、“正しい可能性”と“都合の良さ”、どちらを優先していますの?」
ホミカは相手をぎろりと睨みつけた。
「そ、そんなつもりは……」
「片桐さんのように」
わーっと泣き崩れる告発者。ホミカの放言は、花嫁修行をしている者にとっては、妻失格の宣告に近い。食堂の中は絶対零度のような心地だった。
(しまった、言いすぎた。)
ホミカは自身の頬が紅潮していくのを感じた。
「片桐、まだ死んでへんけどな」
外で、低く雷が鳴った。ホミカは窓の方を一瞥する。風はホミカの体をぬるっと撫でるように通り抜けた。
結局、片桐さんは気候が合わないということで、一週間のうちに自主退学した。ルームメイトが一人いなくなり、結果的には稲葉が当初に望むものとなった。
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片桐が退去する朝のこと――
廊下には、まだ掃除の音も立っていない。開け放たれた窓から湿り気を帯びた春の風が流れ込んでいた。部屋の隅には荷物が整然とまとめられている。
「片桐さん、ごめんなさい。私、あなたに非道い言葉を……」
「稲葉さん。水くさいですわ。私たち、短い間でしたけどルームメイトでしたのよ。そんなことはもう忘れましたわ」
「片桐さん――」
二人は、ほとんど同時に歩み寄った。触れた肩越しに、相手の体温がじわりと伝わってくる。稲葉の指先が、名残を惜しむようにわずかに力を込めた。
「私の分も勉学に励んでください」
「あなたに言われなくても分かっておりますわ」
「稲葉さんは最後までブレませんわね」
片桐は、どこか力の抜けたような笑みを浮かべた。その笑みは穏やかで、それでいて、ほんの少しだけ寂しさを含んでいるようにも見えた。
やがて、片桐は両親に付き添われて寮を後にした。ホミカと稲葉、知萌は、門の前に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送る。
車輪が砂利を踏む音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるころ、校庭の桜は既に花を落とし、枝の先にはやわらかな若葉が揺れていた。
本話の推理は、明治大正期に共有されていた科学知識を前提に構成しています。
当時はまだアレルギーの概念が整理されておらず、「牛乳を飲むと失神する体質の人がいる」といった症例報告が紹介される段階でした。作中の結論は、あくまで当時の知識で到達し得る仮説です。現代医学でも検査なしに確定診断はできません。
なお本話では、現代でいうポークキャット症候群や猫ひっかき病(バルトネラ感染症)などを参考にしています。
また作中の人参は東洋系品種を想定しています。現主流の西洋系品種より香りが強く、好き嫌いが分かれることで知られています。




