表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/21

ひと匙の疑念(解決編)

「……は?」


 稲葉は目を見開き、すぐさま言い返す。


「なぜ私がそんなことをしなくちゃいけないの!? 言い掛かりはよしてください!!」


 だが告発者は引かない。

「しらばっくれても無駄よ。見たの。あなたが片桐さんの皿に、何かを入れるところをね」


 ざわめきが広がる。


 視線が、一斉に稲葉へと向けられた。


 稲葉は唇を強く噛み、言葉を失う。


「稲葉さん。何を入れたのかしら?」

 追及の声。


「……違う。私は、毒なんて……」

 か細い声だった。


 その様子を見ながら、ホミカは考える。


(状況だけなら、確かに怪しい)


 だが、それだけだ。


「動機ならあるわ」

 告発者が畳みかける。


「同室なのでしょう? 片桐さんと揉めていたのは皆知っているわ。だから排除しようとした――違って?」

 勝ち誇った声。


 空気が、決まりかける。


(……言うべきか、言わないべきか)


 ホミカは目を瞑った。


 結論に飛びつくには、決定的な材料が足りない。いったい何の毒を使ったというのか。

 ホミカは、静かに知萌へ顔を向ける。


「ねえ、花菅さん」


「ん?」


「片桐さん、以前にもこんなふうに倒れたことは?」

 知萌は少し考え込んだ。


「いや……寝込むことはあったけど、卒倒はなかったと思うわぁ」


(初めて、か)


 ホミカの中で、一つ仮説が浮かぶ。


 食材。体質。蕁麻疹。だが、断定はできない。


 そのとき、知萌がふと思い出したように言った。

「あ、そういえばな。上京する前に、二回目のおたふく風邪にかかったって言うとったわ」


 ホミカの思考が止まる。


(二回目?)


 ありえない、とは言わない。だが――


 何かが引っ掛かる。遅れるな……


 額の痣が、わずかに疼く。


 見落とせば、取り返しがつかない。


「……もしかして」

 ホミカは顔を上げた。

「片桐さんの家、猫を飼っておりませんか?」


「え、なんで分かるん?」

 知萌が目を丸くする。


「ようけ飼っとるで。今年生まれた仔と離れるのが寂しいって言うとったし」


 ――確信に変わる。

 ホミカは無意識に額の痣を弄っていた。


 ホミカは椅子を引いて立ち上がった。


 周囲の視線が集まる。


「稲葉さんは無罪です」


 静かな声だったが、場を切り裂くには十分だった。


 ざわめきが止まる。


「……何を言っていますの?」

 告発者が眉をひそめる。


「事実を述べています」

 ホミカは一歩も動かない。


「毒など使われていません。症状が違います」


「じゃあ、あれは何なのよ!」

「片桐さんは、特定の食べ物に対して、体が過剰に反応する体質なのです」


 一拍遅れて、空気がざわつく。


「体質……?」


「はい」


「そんな話――」

「ありますわ」


 遮るように言い切る。


「まず一つ」

 ホミカはテーブルを指した。


「その皿。片桐さんのものではありません」


 視線が集まる。


「……どういう意味?」

「人参ばかり残っているでしょう。あれはこのカレーに使われている東洋種の人参です。西洋種に比べて香りが強い。苦手な方にはすぐ分かる」


 学生の中には頷きを返すものがちらほら。


「ピーターラビットの件も、人参への反応と一致します」


「それが何だっていうのよ」


「稲葉さんは、それが食べられなかった」


 沈黙。


 稲葉の肩がわずかに震える。


「だから、隣の皿に移した。違いますか?」


「……っ」


「つまり、“何かを入れた”という目撃は正しい。ただし毒ではない」


 場の空気が一段階落ちる。


「では、なぜ倒れたのか」

 ホミカは間を置いた。


「花菅さん。関西のカレーは?」

「牛やな」

「こちらは?」

「……豚」


 小さなざわめき。


「片桐さんは、豚肉を食べられない可能性があります」


「そんな理由で――」

「十分にあり得ます」


 言い切る。


「体質的な反応は、ある日突然現れることがある。例えば――」


 一瞬だけ言葉を選ぶ。


「動物に触れた後、特定の食べ物で発作を起こす例があるのです。特に肉類に例が多い」


 知萌がはっとする。


「……猫」

「ええ。飼っていると言っていましたね?」


 淡々とした声。


「二度目のおたふく風邪、という話もありましたが――別の症状だった可能性が高い」


 おそらくは猫引っ掻き病。猫から外傷を受けたのちに扁桃腺(おたふく風邪の場合は耳下腺)が腫れる風邪症状がある。


 完全な証明ではない。

 だが、筋は通るはずだ。


「以上です」


 静寂。

「これが現時点で最も整合する仮説です。反証があればどうぞ」


 水を打ったように静かになった食堂。少し間をおいて、

「ですがーー」

 告発者が声を上げる。

「仮にそうだとしても、彼女は不正を行った。ましてや、皆さん彼女に迷惑してる。いいじゃないですか、稲葉さんにお灸を据えたって」

 稲葉の頬からぽたり、ぽたりと雫がテーブルに落ちる音がした。


(違う、そうじゃない)


「……その理屈ですと」


 ホミカは、額の痣を隠すように前髪に触ると、感情の見えない声で言った。


「あなたは今後、体調を崩した者を見るたびに、都合のよい犯人を立てるおつもりですか」


 一拍、間を置く。


「あるいは――ご家族が同じ症状を示した際にも、同じ判断を?」


 視線だけが、静かに相手を捉えていた。


「……今の判断は、“正しい可能性”と“都合の良さ”、どちらを優先していますの?」


 ホミカは相手をぎろりと睨みつけた。

「そ、そんなつもりは……」

「片桐さんのように」


 わーっと泣き崩れる告発者。ホミカの放言は、花嫁修行をしている者にとっては、妻失格の宣告に近い。食堂の中は絶対零度のような心地だった。


(しまった、言いすぎた。)


 ホミカは自身の頬が紅潮していくのを感じた。


「片桐、まだ死んでへんけどな」


 外で、低く雷が鳴った。ホミカは窓の方を一瞥する。風はホミカの体をぬるっと撫でるように通り抜けた。


 結局、片桐さんは気候が合わないということで、一週間のうちに自主退学した。ルームメイトが一人いなくなり、結果的には稲葉が当初に望むものとなった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 片桐が退去する朝のこと――


 廊下には、まだ掃除の音も立っていない。開け放たれた窓から湿り気を帯びた春の風が流れ込んでいた。部屋の隅には荷物が整然とまとめられている。


「片桐さん、ごめんなさい。私、あなたに非道い言葉を……」


「稲葉さん。水くさいですわ。私たち、短い間でしたけどルームメイトでしたのよ。そんなことはもう忘れましたわ」


「片桐さん――」


 二人は、ほとんど同時に歩み寄った。触れた肩越しに、相手の体温がじわりと伝わってくる。稲葉の指先が、名残を惜しむようにわずかに力を込めた。


「私の分も勉学に励んでください」


「あなたに言われなくても分かっておりますわ」


「稲葉さんは最後までブレませんわね」


 片桐は、どこか力の抜けたような笑みを浮かべた。その笑みは穏やかで、それでいて、ほんの少しだけ寂しさを含んでいるようにも見えた。


 やがて、片桐は両親に付き添われて寮を後にした。ホミカと稲葉、知萌は、門の前に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送る。


 車輪が砂利を踏む音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるころ、校庭の桜は既に花を落とし、枝の先にはやわらかな若葉が揺れていた。

 本話の推理は、明治大正期に共有されていた科学知識を前提に構成しています。

当時はまだアレルギーの概念が整理されておらず、「牛乳を飲むと失神する体質の人がいる」といった症例報告が紹介される段階でした。作中の結論は、あくまで当時の知識で到達し得る仮説です。現代医学でも検査なしに確定診断はできません。

 なお本話では、現代でいうポークキャット症候群や猫ひっかき病(バルトネラ感染症)などを参考にしています。

 また作中の人参は東洋系品種を想定しています。現主流の西洋系品種より香りが強く、好き嫌いが分かれることで知られています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ