ひと匙の疑念(事件編)
明治大正期を舞台にした連作ミステリ風物語です。結婚したいのに結婚できない令嬢、ホミカが婚姻や相続にまつわる奇妙な事件へ挑みます。
明治四十三年四月。
帝国女子大学の門をくぐった瞬間、ホミカはわずかに深呼吸をした。そこに「始まり」があるかは分からない。ただ、何かが変わる場所であることだけは確かだった。
花曇りの空の下、桜はすでに盛りを過ぎかけている。それでも並木道は淡い色に満ちていた。袴姿の娘たちが行き交い、下駄の乾いた音と革靴の重い響きが交差している。荷物を抱えたその姿は、いずれも同じ一日を越えてここへ来た者のものだった。
ホミカもまた、その流れの中にいた。
(なるべく人と触れ合わないようにしないとーーでないと厄介だ)
新調したブーツはまだ足に馴染まない。踏み出すたび、わずかな硬さが返ってくる。
背後で馬の嘶きが響いた。道を譲ると、馬車が静かに横を抜けていく。車体に刻まれた家紋が一瞬だけ視界に残る。どうやら華族のものらしい。
視線が交わることはなかく、馬車はそのまま遠ざかる。
やがて、地図に従って足を速めると、煉瓦造りの建物が現れた。硬質な佇まいの前に、木の門柱。そこに『景薫寮』と掲げられている。
ここがホミカの新しい住まいになる。
軒先では先ほどの馬が水を飲んでいた。
「では、私はこれにて――」
礼服姿の男が、深く頭を下げる。その所作には無駄がない。年は二十代半ばほどか。背は高く、端正な顔立ちをしていた。
男が去ると、その場には小柄な娘と、割烹着姿の女が残った。
「あラ、あなたハ?」
訛りのある声だった。ホミカは足を止める。
金髪、碧眼。西欧人だった。
「式見ホミカです。本日よりお世話になります」
ホミカの言葉はやや硬い。
「ワタシ、リョーボのアルニカでス。ヨロシク」
妙な抑揚の日本語に、空気がわずかに緩む。
「こちら、稲葉透子サン。ルームメイトでス」
示された先に、小柄な娘がいた。目が大きく、輪郭はまだ幼さを残している。小動物のような見た目だが衣服は華やかで、家柄の良さを隠してはいない。
「ルームメイトって、アレと同室ってことですか?」
稲葉の声が鋭く落ちた。
ホミカは一瞬だけ視線を向け、それ以上は反応しない。
「失礼デスヨ」
「ですが……」
稲葉は露骨に唇を歪め、やがてホミカへ視線を投げる。
「いいですこと。荷物に触ったら承知しませんから。わたくし、稲葉紡績の娘ですの。不二川子爵家の篤胤様とは婚約しております。その辺の行き遅れとは違いますから」
言い切ると、踵を返した。馬車へ戻る背中は、躊躇がない。
言葉は、途中で切られたままだった。
「まアまア」
アルニカが小さく息をつく。
「ルームメイト、アト一人イマス。後デ紹介シマス。……式見サン、講堂へ、そろそろデス」
柱時計へ目をやると、確かに時間は迫っていた。
「では、行ってまいります」
一礼し、歩き出そうとする。
「あのぅ、一つイイデスカ?」
呼び止められる。
「行き遅れっテ、ドういう意味デスカ?」
ホミカはわずかに間を置いた。
「……遅刻、のことではないでしょうか」
曖昧に流すと、アルニカは納得したように頷く。
「ソうデスカ。勉強ニなリまシタ」
外へ出ると、桜が風に散っていた。
行き遅れ。
その言葉だけが、胸に残る。
帝国女子大学。
そこにいることの意味は知っていた。嫁ぎ先がない娘の行き場。女子に高等教育を受けさせるよりも良い嫁ぎ先を見つけてやるのが世間の常識なのだから。
花びらが肩をかすめたが、払うことはしなかった。
講堂の方から、喧騒がかすかに流れて来る。
入学式は恙なく終わった。
周囲の新入生から、断片的な声が漏れる。
「さっきの稲葉さん、やっぱり――」
「不二川家と婚約って本当なのかしら」
ホミカはそれを聞き流して寮へと戻る。途中、稲葉があの甲高い声で何か喚いているのも無視して。
「もし、あなたも景薫寮生?」
「そうですよ」
呼び止められてホミカは振り返る。
同年代の女学生らしく髪を結い上げているが、稲葉のような棘はない。どこか柔らかい印象の娘だった。ただ近い、圧を感じる。思わず半歩下がる。
「あ、距離感まだ掴めてへんのや、すまへん。気をつけんとな。うち、花菅知萌です。よろしゅう」
関西訛りだ。
「式見ホミカです」
「式見さんって、あの狂犬……じゃなかった、稲葉さんの同室なんやろ? ご愁傷様やね。私、あの人ちょっと苦手やわ。さっきもよう分からん理由で噛みつかれてしもて」
「私も驚きましたわ。同室というだけで、あれほどの剣幕になるとは思いませんでしたの。何か機嫌でも悪かったのかしらと」
「あぁ、それなぁ」
知萌は、少し声を落とした。
「ピーターラビットって知ってる?」
「ええ」
英国の絵本作家による兎の話だ。子ども向けではあるが、教養として読まれることも多い。
「稲葉さん、黙ってたら小さくて可愛いやろ? それを片桐さんがな……片桐はうちと同郷の子なんやけど、“ピーターラビットみたい”って言うたのがあかんかったみたいなんよ」
「……それは」
確かに、見えなくはない。
知萌は肩をすくめた。
「ごめんなぁ、急に話しかけて。その片桐も同じ寮やねんけど、どっか行ってしもてな」
「構いませんわ。むしろ、知り合いがいないので助かりました」
「うちは大阪やねん。式見さんはどこなん?」
一瞬、間が生じる。
「……山口です」
それは事実だった。ここへ来る直前までいた場所でもある。
「全然訛らへんから、東京の人かと思ったわ」
「東京なら、わざわざ寮に入る必要もありませんでしょう」
「それもそうやな」
軽い笑いが交わされる。
寮の玄関へ戻ると、香辛料の匂いがすでに漂っていた。
歓迎会のカレーらしい。湯気が廊下にまで伸びている。
式見はそのまま食堂へは向かわず、いったん階段を上がった。アルニカから聞かされていた自室の確認を済ませるためである。
扉を開けると、木の匂いがした。
新しい建物特有の、まだ乾ききらない香り。
部屋には二段ベッドが二つ、机が三つ。窓際の隅にはホミカの旅行鞄が置かれ、反対の角には、やけに上等な鞄がいくつも積まれていた。
(触るな、と言われましても……)
そう思いかけたところで、下から声がした。
呼ばれているらしい。
階下へ戻ると、食堂にはすでに新入生が揃っていた。
長机の上には皿が並び、割烹着姿の先輩たちが忙しくカレーをよそっている。
懐かしい味だった。
「って、式見さん食べるの早ッ!」
隣に座った知萌が、空になった皿を見て声を上げた。
「そうかしら」
「いやいや、さっき沢山盛ったとこやん」
「量が少なかったのかもしれませんわ」
「まさかの食いしん坊かいな」
肉と人参は柔らかく、玉ねぎ、じゃが芋は煮崩れている。構内の菜園で採れた野菜だという。どこか土の気配が残る味だった。
(悪くない)
「式見さん、なんで帝女に来たん? やっぱ花嫁修業?」
「ええ、そのようなものですわ」
帝国女子大学――略して帝女。
女子に高等教育は不要とされる風潮の中で設けられた学校である。表向きは家政学を学ぶ場だが、その内容は広い。家計、栄養、化学、看護に至るまで、家庭に関わる学問を一通り扱う。女子教育を正当化するための“方便”とも言える。
「うちはな、料理店をやりたいねん」
知萌は唐突に言った。
「なら住み込みの方が――」
「それやとあかんねん。女やと、結局は嫁入り扱いになるからな」
彼女は笑った。
「せやから、うちが大将や。大学で栄養学も学んだ凄腕美人料理人、って肩書きつけるんよ」
「……なるほど」
美人はさておきが、勢いは伝わる。
「ここ、突っ込むとこやで」
しばらくして、先輩たちが舞踊の余興を始めた。
場の空気が少し緩み、視線が自然とそちらへ向く。
時折、人と肩が触れそうになり、ほんの僅かに身体を引く。
——それは癖ではなく、判断だった。
そのときだった。
「……片桐さん?」
誰かが小さく声を上げた。談笑する席の中で、ひとつの席のまわりだけが不自然に静かになっている。
視線がそちらへ向く。
片桐と呼ばれてた娘が、椅子に座ったまま動かなくなっていた。背を丸め、胸元に手を当てている。
「どうしたんや……?」
知萌の声が低くなる。
次の瞬間、片桐の肩が小さく跳ねた。
喉を掻きむしろうと手で押さえている。
「っ……」
声にならない音が漏れた。
ざわめきが広がるより先に、式見はその変化に気づいていた。首元から耳の後ろに急激に発疹が現れていた。
(……蕁麻疹?)
「医務室を!」
誰かが叫ぶ。
一拍遅れて、周囲が一斉にざわつき始める。
片桐はその場から崩れるように前へ倒れかけ、隣の席の者に支えられた。
「水、誰か!」
「守衛を呼んで!」
声が重なり、空気が散っていく。
やがて教員らしき者が駆け込み、片桐は抱えられるようにして外へ運ばれていった。
(私は動かない。動けない)
テーブルには、まだ片付け終えていないカレーの皿が一つ残っている。
知萌が小さく息を吐いた。
「心配やな、ちょっと様子みてくる」
ただ、食堂の空気だけが、先ほどとは違う重さを帯び始めていた。
何か奇妙なことが起こっている。だけど、それが何かは掴めていなかった。
余興は終わったはずなのに、誰一人として腰を上げようとしない。代わりに交わされているのは、先ほど倒れた片桐についての憶測ばかりだった。
「式の緊張が解けたんじゃありませんの?」
「カレーが合わなかったとか……」
「まさか変なもの入ってませんわよね?」
好き勝手な言葉が飛び交う。
ホミカはそれを、少し離れた席から眺めていた。
事実よりも、語りやすい噂が先に広がっていく。珍しいことではない。
そこへ、知萌が戻ってきた。
「どうでしたか?」
ホミカが声をかけると、知萌は小さく息をついた。
「とりあえず安静にしとけば大丈夫やろ、って」
その口調はいつも通り穏やかだったが、どこか歯切れが悪い。
「もともと体の弱い子ではあったんやけどなぁ……」
視線が少し伏せられる。
「うちがついとるから大丈夫や、ってご両親に言うたのに……顔向けでけへんわ」
その言葉に、ホミカは一瞬返答に迷った。
軽々しく慰めるべきではない。けれど、何も言わないのも違う。
――そう考えた、そのときだった。
ドン、と鈍い音が響いた。
振り向くと、一人の少女がテーブルを叩いて立ち上がっている。
「稲葉さん、あなたが片桐さんに毒を盛ったのよ!」
食堂の空気が、一瞬で凍りついた。
基本1話3000〜5000字で投稿します。1万〜4万字程度で1つの小話がひとまず完結する構成にしています。




