猫は猫でも
「おお、待ちかねたぞ」
ホミカが子爵の屋敷に到着した際、本人が直々に出迎えた。
「不二川様、そんな態度ですと」
ホミカは隣にいる稲葉を見る。稲葉は複雑そうな表情を浮かべていた。
子爵は咳払いを一つ。
「ことは急を要するのだ。透子さん、すまない」
「私のことはお気になさらずに。何か大事なのでしょう? 手紙には猫と書いてありましたけど」
「読んでくれたなら話は早い。実は……猫も男爵の遺品なのだ」
「何か訳ありなのですか?」
「あぁ、見てもらった方が早い」
ホミカと稲葉は中庭へと促される。
案内する使用人が掃除をしてるわけでもないのにマスクをしていた時点で気付けば良かった。
「うッ……」
思わず鼻を摘むような刺激が鼻腔を襲った。痛いぐらいだ。獣臭いというよりは汲み取りトイレに人間のものではないのを放り込んで発酵させたような臭いだ。
どうやら檻の中に臭いの元がいるらしい。
(イタチか?)
にしては体が一回り大きい。体型も少しずんぐりで、痩せたタヌキだと言われれば、納得できる。知る限り近い動物はハクビシンか。それは、突然の訪問者に驚いたようで、身を低くしてシャーと威嚇をしていた。
「不二川様、これは一体何ですの?」
稲葉が口元を覆って訊く。
「ジャコウネコというらしい。石光男爵が亡くなったあと、世話をする者いなくてな。ご覧の有様だ」
顎で指す子爵の先には汚れた檻があった。
「どうして麝香と名のつくのですか?」
「私にも分からない。男爵の使用人から名前を聞いたからな」
(この臭いが麝香だとは信じがたい。だってう○こだもの)
「男爵はこのネコの糞を湯で解いたコーヒーの飲むのが好きだったようだが」
意味深な笑みを浮かべて子爵は言う。
「えー、それは狂人のやることですわ」
「どうやら普通のコーヒーと違って芳醇な香りを放つらしい。この臭いを嗅いだら正気の沙汰だとは思えないが」
(試す価値があるか)
ホミカは一歩、二歩と檻へと近づいていく。
(ジャコウジカの香嚢は下腹部にある。これがイタチやイヌの仲間なら嚢は肛門の近くにあるはずだ)
「ちょっと何をしていますの? 危ないですわ」
ホミカは檻の前にしゃがみ込む。縁にこびりついた汚物を摘み上げてーーそれを鼻に近づけた。
「!!」
思わず目を逸らす稲葉。
(なるほど、こういう臭いか)
酩酊を催すような臭いで最早感覚は麻痺していた。
ホミカは臆することなく檻の鍵をあけた。
動物は警戒して身を低くしたが、こちらへ飛びかかる気配はない。
「おい、何をする気かね」
稲葉は見覚えがあった。いつぞやの夜、研究を盗み見たときのホミカの目。あのときと同じだ。
「少しだけ、確認させていただきます」
ジャコウネコは警戒したままだったが、意外にも抵抗はしなかった。ネコの下腹部を弄るホミカを見て、目を細める子爵と稲葉。
尻尾の付け根。
いや違う。
肛門の両脇。
あった。
ホミカはすぐそま試験管とピンセットを取り出して、それを器用にネコのお尻に突き立てた。
透子と子爵は絶句。
試験管の中に茶色い粘液を拾うとホミカは満足げにネコを解放した。ネコは不思議と先ほどより落ち着いており、ゴロゴロと機嫌の良さそうに喉を鳴らしていた。
「これで香水作りに一歩近づきました」
泥まみれで上機嫌のホミカは試験管を突き出すが、周囲の者は身じろぐばかりだった。
「不二川様。私、この子を引き取ります。気に入りましたわ」
「そ、そうか。そうしてもらえると大変ありがたい……」
「なら、香雪邸の傍に小屋を立てねばなりませんね。早速準備しましょう。こんな貴重なサンプルが手に入るはんてまさに僥倖」
恍惚の表情を浮かべるホミカに誰も何も言うことはできなかった。
子爵の手配により、瞬く間に小屋が出来上がった。
「まさか君が霊猫香にまで手を出すとはな」
仲間内でのささやかな落成式にて、教授は満更でもなさそうに言った。
「これなら麝香の代替品にできそうですね」
「工業化には量が物足りないが、研究用には十分だろう」
「ネコの方も新築を気に入ってくれたようです。何度か洗ってあげると意外と臭いも気にならないようで」
「それは良かった。研究のためとはいえ、あの悪臭には耐えられそうになかったから初めはどうなるかと思ったぞ」
「そしてーー」
ホミカは懐から黄金色の小瓶を取り出した。
「こちらが現段階での最高作になります」
教授は受け取るとそれを鼻に近づける。金木犀の香りが丸くなり、甘さと妙な馴染み深さを感じる。脳裏に故郷の田畑が浮かぶようだ。
「バニリンを使ったな」
「はい。沢山作れるようになったので使わない手はありません」
「もう一つは……ベルガモットか?」
「いえ。流石に欧州から精油を調達するのは難しいです。アールグレイをかき集めても困難です。当てられますか?」
「はて? ここの研究室に柑橘の精油はないし、陳皮だと弱い。生の柑橘はこの季節はまず手に入らないから難しいな」
「式見サン、とてモ良イ香りデス。アドバイスの甲斐あリまシタ」
「一体何のアドバイスをしたのだ?」
「金木犀ハユニークでス。デモ、バニラもシベットも重イ。ダカら、柑橘ヲ入レテ、軽クしなサイと」
「むむむ。とても懐かしい感じがするのだが……あ、そう言えば、吾輩がこの日に出そうと思っていた酒が見当たらないんだがアルニカ知らないか? 地元で作った酢橘酒なのだが、すっかり忘れてて今思い出したのだ」
顔を見合わせるアルニカとホミカ。
「おい、お前らさてはーー」
「正解デス、マインマン」
「香りが記憶を呼び覚ますという仮説は正しいようです」
がっくしとへたり込む教授。それを他所に満足げなホミカ。
「式見さん。ネコの名前は決めておりますの?」
と透子が訊く。
「ネコですが?」
「だってこれから育てるのだから可愛い名前が必要でしょ?」
「ネコですよ?」
「だって、呼びにくくありませんか?」
「呼びにくいですか? 日本語の発音方法とアクセント、イントネーションから判断して呼びにくい名前ではないと思いますが」
「何の話をしていますの?」
「ネコですけど」
目を瞬かせるホミカ。
しばしの沈黙があり、状況を理解した稲葉が頭を抱える。
「あの、もしかしてネコの名前がネコなのですか?」
「なにか問題でも?」
「だって紛らわしいでしょう」
「そんなことはありません。この大学にネコはネコしかいません」
「じゃあ、もう一匹増えたらどうするのです?」
「2号?」
首を傾げるホミカ。
「ダメです。絶対に。何か別の名前を考えてあげてください。タマとかミケとかありますでしょう?」
「タマというほど丸くもないですし、三毛猫じゃないのにミケもどうかと思います」
「そういう問題ではありません!」
「そうですか。大変呼びやすい名前だと思ったのですが……わかりました」
ホミカは目を瞑って額に手を押し当てる。
「決めました。トーマスにします」
「どうしてトーマスなのです?」
稲葉は怪訝な顔でホミカに尋ねた。
「トーマス•スプラット。さっきまで読んでた本の作者です」
「誰!?」
「王立協会の――」
「聞いておりません!」
ややあって便箋に文をしたためるホミカ。封入するところを見計らって稲葉が話しかける。
「もう香水を使うのですか?」
「はい。手紙に染み込ませるのです。こうすれば、私と会ったときに、この手紙の人だと認識できるようになるはずです」
「式見さんもロマンティックなことをしますのね」
「条件付け反射です」
「はい?」
「手紙を受けとるたびに、私のことを思い出すように刷り込ませるのです。ロシアのパブロフという研究者が最近発表した論文で犬にーー」
「待って!! あなた、お見合い相手を調教するおつもり?」
「その方が楽じゃないですか?」
「あなたに説明するにはかなり時間を要しそうね」




