狂い咲く縁談 解決編
「式見さん、心なしか、カロテンの量にも変化があるように見えるのですが」
水煮によってイオノンが増えるのを確認した際に、稲葉は言った。
「微妙に…ですね」
カロテンは大量に含まれているので発色が強く、その微妙な量の差を見極めるのが難しい。希釈してから定量することも理論的には可能だが、手技の巧拙による影響の方が強いだろう。
(それよりは水煮することで何が変わるのか。なぜ先に溶媒抽出をすると回収されなくなるのか)
「先生、これは水煮によってイオノンが増えているということではありませんか?」
「酵素反応と言いたいのか?」
酵素とはタンパク質と考えられている化学反応を触媒するものだ。まだそれほど多くの例が知られておらず、化学的な特性も研究段階である。有機溶媒に晒されると壊れるために、現象を上手く説明できる。
「なら、温度が高すぎても反応が上手くいかない可能性があります。温度条件で生成量が変化するかを検証します」
熱湯を注ぐ場合、ぬるま湯で長時間煮出す場合、常温の水に漬ける場合。
「何だか美味しいお茶の淹れ方を調べるみたいですわね」
「あながち間違ってはおりませんわ」
反応液を有機溶媒にて抽出する。
「やっぱり至適温度があるようですわ。温度が高すぎても低すぎても香りが立たないみたい」
「ぬるま湯に長時間反応させるのが良いようです」
「これはすごい発見ではないかしら。水煮の操作は抽出ではなくて、香り成分を増加させるための操作ということですわね」
「はい。ですがーー」
まだ現象を正しく理解できていない。酵素反応らしいということは分かったが、イオノンが突然現れることはありえない。何かがイオノンに変化したとみるべきだろう。
(透子はカロテンが減ったというが)
カラムの橙色の筋を見る。違いはとても微妙だ。どうしてもカロテンの色が強すぎてしまう。銀木犀と比べてみれば、色と香りの関係はあるように見えるが。何か良い方法はーー
「ネスラー管を使うと良い」
教授の提案をもとにガラス管に抽出液を加えていく。色の濃さから濃度の違いを比べる方法である。
今回は反応の前後でカロテンの色の変化があるかを調べる。原液は濃すぎるので、10倍、20倍と希釈していく。
「先生、カロテンが減っています」
「つまり、カロテンが酵素によってイオノンに変化した可能性が高いということだな。素晴らしい結果だ。いくつか追試が必要になるな」
教授は、指示をいくつかメモに残す。
数日後。
ホミカは教授とアルニカの元に現れた。
「先生、追試終わりました。単離したカロテンからもイオノンの生成が認められました。それとーー」
ホミカは小さなガラス瓶を差し出した。黄金色の液体が、陽光を反射してキラキラと輝いている。
「こちらが、最高抽出品です」
教授とアルニカは、瓶の中身を嗅ぎ、満足そうに頷いた。
「よくやった。重要な香料が生体内でどのように生成されているのかを明らかにした研究はこれが初めてだ。これはすぐに論文にしよう」
喜色満面の教授とは裏腹に、ホミカの顔は暗い。
「嫌です」
「は? なぜだ? 学術的な価値があるんだぞ」
「だって、論文にしてしまったらレシピが公開されてしまうわけですよね。そんなことしたら、私だけの香りじゃなくなってしまうじゃないですか。それこそ埋没してしまいます。コンペは二位以下じゃダメなんです」
頭を抱える教授。一方でアルニカは諭すようにホミカに言った。
「式見サン、コれハ未完成デース。花ノ香リ忠実ニ再現シてマース。デモ、オ花ト結婚すル人ハいまセン」
「どういうことですか?」
「香水にハ、人間臭さ必要ナのデース」
今度はホミカが頭を抱え、事態が収拾するのにはしばらく時間がかかった。
「どうしてこの香水は不完全なのでしょう?」
ようやく落ち着きを取り戻したホミカがアルニカに尋ねた。
「コの香リ、とテモ良イ。デモ、人間ジャなイ」
ホミカには理解できない。良い匂いなら十分ではないか。
「アルニカが言いたいのは、動物系材料が必要ということだろう。吾輩も詳しくはないが、香りを保持させたりするのにも必要らしい」
「麝香のことですか?」
「生薬で言えばそうなる」
麝香とはジャコウジカという中国奥地に生息する鹿の香嚢から取れる貴重な生薬原料である。だが、この研究所にはーー
「そんな高価すぎるものはないがな」
当然と言えば当然だった。
「仮にあったとして、使わせるものではない」
「バニリンで稼いでも足りませんね」
「代替品を探してくるしかないな」
「面白くないです」
「龍涎香を探してはどうだ?」
「どうやって鯨を捕まえろと? コンペに間に合う保証がありません」
そんな折、ポストに手紙が入る音がした。透子が不思議と顔を赤らめながら、ホミカに差し出してきた。
(私宛て? 先生ではなく?)
差出人を見ると不二川篤胤とある。透子の婚約者か。開封して皆に見えるように開く。中身はどうやら以前亡くなった石光男爵のもつ舶来サンプルを引き渡せるようになったという知らせだった。しかも早く取りに来いという。
(やった!!これで研究が進む)
だが、子爵らしくない急いで来いというのだけが妙に引っかかった。
さらに、文末まで目を通すと『猫を預かってほしい』という不穏な言葉が記されていた。
(猫? 猫ぐらい使用人に見て貰えばいいのに。でも、猫の一匹ぐらい大したことないわ)
「早速取りに行きましょう」
ホミカは後に自身の判断の軽率さを恨むことになる。




