毒殺に必要な申請 潜入編
「おい待て!」
追い縋る教授を無視してホミカはずんずんと廊下を進んでいく。
ようやく追いついた教授は、ホミカの袖を無理やり引っ張って、すぐ脇の部屋へと押し込んだ。
鍵を掛ける。
「まさか殿方にお手洗に連れ込まれる日が来るとは思ってもみませんでしたよ」
「冗談言うとる場合か。無鉄砲もいいところだ」
「考えならありますよ。印鑑を調べるのです」
「場所も知らんのに?」
「これから分かります」
「どうやって?」
「書庫に行きます」
「そんなとこにあるわけないだろう」
思わず教授は声を荒らげる。
「しッ。誰か来ます」
男二人の声が近づいてくる。どうやらともに用を足しにきたようだ。
「まさかこんなことにかるなんてな」
「引き渡せるまで家には帰れないぞ」
「あぁ。晩飯どうするか」
「出前にするか」
「そういやさ、お前。燕の巣って食べたことあるか?」
「いや、高級食材らしいな」
「庁舎にもいくつかあるのは知ってるよな? あれ、食えるかな」
「無理だろ。あんなもの泥と藁のかたまりだ」
「だよなぁ。いやな、奥にある巣が今朝見たら赤くなってたのさ。赤い燕の巣は10円ぐらいで売れるって聞いたことがあって」
「だが、巣を勝手に撤去したらツバメも怒るだろ」
「それがな、鳥は朝からいなくなってるんだ」
「お前、暇人だな。というか、取り出す気満々だろ」
「所有を放棄したら誰のものだ」
「そりゃ庁舎に引っ付いているんだから内務省のものだろ」
「じゃあ、取ったら俺、横領?」
「馬鹿馬鹿しい」
男らの声と固い足音が遠ざかってゆく。
「一先ず、大丈夫そうですね」
「大丈夫なわけないだろ。心臓がバクバクだ」
「あら、異性に慣れていないこともないでしょうに」
「意味が違う」
「しかし、何か事件が既に起きているようだ。燕の話はどうでもいいが、大臣が倒れていたら手遅れだな」
「ふむ……」
ホミカは額に指を当てる。
「で、書庫に行けばどうなる? 印鑑は書物ではないし、書庫の場所も分からん」
「今日は随分と冴えないようですね」
「いや、中央省庁に忍び込んで冷静でいられるわけがない」
「書庫の場所はこの建物が建てられる前から決まってます。一階の北側です」
「大量の文書の保管は高層階では不可能。保存のために直射日光を避ける、か」
「そういうことです。そうと決まれば先に進みましょう。こんな場所に男女二人とか、不審者扱いされますよ」
「もう十分不審者なんだよな」
教授は肩を竦めて手洗いの扉を閉めた。
「で、書庫に辿り着いたわけだが、印鑑などあるはずないだろう。人目は少ないからゆっくり探すことはできるだろうが」
教授は分厚い簿冊に積もった埃を指で拭いながら言った。
「印鑑はないですが文書ならあります」
「だから意味が分からんというておるのだ」
「この建物の設計図書もまた文書だと思うのですよね」
ホミカは書架の資料を片っ端から取り出す。
「おぉ、なら大臣室の場所も分かるというわけか」
「あった。最上階の一番奥。ここの官僚たちは整理整頓きっちりしていて、探しやすかったです。あとでお礼を言っておいてください」
「それは絶対に言えないやつだ。だが、見つからずに辿り着くのは困難だぞ。ましてや既に事件が起きているらしい。我らをみすみす通すとは思えない」
「何のための勅諭ですか。それはチェーホフの銃ですよ。ここぞの場面で国家権力を平伏させてやってくださいよ。でないと先生が来た意味ないです」
「今日は嫌に饒舌だな。ウィスキーのボトルを空にしたときでもそこまでじゃなかったぞ」
「あの、もし……」
思いがけず背後からかけられた声に、二人は戦慄した。
「はい? 何でしょうか」
振り返ると女性が一人立っていた。ホミカと同じくらいの背丈。エプロンに三角巾、手袋をしている。掃除婦のようだ。声からして若いと思われるが、顔はマスクに覆われてよく分からない。
(気配を感じなかった)
「えっと、使用人さんかね。すまない、私は小山正義と言い、帝国大学の薬学教授である。道に迷ってしまって」
「大臣をお探しですか?」
「いや……その、はい。そうです」
「今日は大層機嫌が悪いようで、急ぎの案件でないなら日を改めた方がいいです」
「何か起こったのですか?」
「私には分かりません。ですが、私も掃除のことで酷い叱責をうけてしまいました」
「何か失敗したのですか」
「それが、皆目。いつものように室内の掃除をしただけですが、大臣も具体的に何がいかなかったのか教えてくれなかったのです。挙句にもう来なくて良いと言われてしまいました。そんなわけで、私はここで泣いておったのです」
(なら、なぜ話しかけてきた?)
「それはお気の毒に。しかし、こんなところにずっといては体に悪いです。さぁ、こちらへ」
教授が彼女の肩に手を伸ばそうとした途端ーー
「触らないで!!」
驚く教授。
「あ、すみません。私、先ほどの大臣の叱責があまりに、その、酷いものでしたから、年配男性に近付かれるのが怖くて」
「私ならいいですか?」
ホミカはすっと腕を伸ばした。掃除婦はじっとホミカを見つめる。
肩に触れる。一瞬彼女はびくついたが、どうやら落ち着いたらしかった。
(鏡を見ているような不思議な気分だ)
ホミカは彼女を見て思った。
「庁内が慌ただしいようですが、いつもこんな感じなのですか?」
「いえ、ここまでは。何があったのか本当に知らないのです。お役人さまに聞いても何も教えてくれませんので」
「いち早く大臣室に向かう必要がありそうですね。先生、勅諭の準備を」
「私が案内します。人が少ない道を知っておりますから」
掃除婦が先導する。
「何事だ」
唐突に開かれた扉に内務大臣は酷く狼狽した。
「まだ無事なようですね」
「閣下、大事な話がありまして参りました。大臣連続不審死について、次はあなたが狙われている可能性があるのです」
先生は帝の勅諭を広げる。掃除婦はそっと扉を閉めてホミカらの背後に立った。
「そんなことは知っとるわい。しかし別件の問題が発生して庁内は滅茶苦茶だ。見よ、印鑑と朱泥が盗まれたのだ」
大臣は木箱を開けて見せる。
「これでは押印したくてもできない。命が惜しいわけではないが、印鑑が押せない以上、私に仕事をせよというのは無茶な要求だ。あぁ、困った、困った」
口ぶりとは裏腹に、大臣の顔は涼しげであった。
「印鑑が盗まれたのですか? それはいつ?」
「登庁して朝一に箱を開けたらこの様だ」
深いため息を吐きながら、箱を指差す。シャツの袖口は朱色に滲んでいる。
「何者かが夜間に印鑑を盗んだようだ」
「何のために?」
「知らん。金になるものでもないし、文書の偽造をしたとて無駄。仕事をさせないための嫌がらせかタチの悪い悪戯だろう」
「悪戯にしては事態は大き過ぎます」
「そうだろう。帝にバレたら私は辞職するしかないだろうな」
大臣は窓の先を眺めて答えた。
「君はどう見るかね? これでは印鑑を確かめることができなくなったぞ」
「でも少なくとも危険はどこかにいってしまったと言えるのではないでしょうか?」
「犯人の目的はやはり毒を印鑑に仕込むために盗んだのか」
「逆に阻止するために印鑑をどこかに隠したのかも知れません」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない。動機なぞ考えても無駄です。ですがーー」
「私には印鑑の在処が分かりますよ」
「なんだと?」
「おい、君たちは一体なにをコソコソと話しているのかね。説明せよ」
ホミカは額を少し抑えた後に大臣に向かって言った。
「大臣閣下、実は私たち、印鑑に毒が塗られている可能性についてお話しようと思っていたのです」
「何だって? そんなはずは」
大臣は自身の両手のひらを見た。
「そういうことです。大臣も印鑑がどこにあるのかご存知なのでしょう?」
「さあ、どうだろうな?」
あくまでシラを切るつもりらしい。
「仮に儂が印鑑を隠したとしてもどこに隠せるというのだ。儂は今日、この部屋から一歩も出ていないし、部屋の中は部下にも隈なく探させた。隠し場所などありはせぬ」
「なるほど、なら説明を変えます。閣下。印鑑がなくても、このままだと閣下は殺されます。だって毒物は閣下の机の上にあるのですから」
忽ち立ち上がって後退る大臣。ホミカは一歩前に出る。
「答え合わせです」
「印鑑と朱泥は奥の燕の巣中にあります」
「待て、君は燕の巣の中など確かめていないだろ」
「この話の中で『奥』と言う言葉は二回使われています。一つはこの部屋、最上階の『奥』。そして『奥』の燕の巣。つまり奥とは、同じ場所のことを指し、この外壁一枚隔てられた外側と内側のことなのです」
「言っていることが分かっておるのか。そんなこじつけで納得するわけない」
「させます。閣下、その袖の朱は印鑑を隠蔽した際についたものですよね。閣下は朝一番に印鑑を朱泥に包んで窓の外の燕の巣にくっつけたのです。あなた、窓をあけて燕の巣があるかご覧になってくださいませ」
ホミカは掃除婦に指示する。
「あります、燕の巣が。しかも妙に赤い」
「朱泥を取り付けられたためです。燕の巣も朱泥も藁を混ぜて作るので質感が似ています。そこで閣下は目をつけた。代わりに燕は巣の作成を放棄した。なぜなら朱泥に使われる香油の匂いが嫌いだからです」
「分かった。儂が隠したことを認めよう。だから早く何が毒なのかを教えてくれ。儂は殺されたくない」
「いいでしょう。毒はその文書箱の中です。犯人は印鑑ではなく、文書そのものに毒を塗ったのです。この文書は亡くなった文部大臣、農商大臣の押印を経て内務省に届けられました。亡くなった二人に共通するのはその地方改革文書に触れたことです」
呆然とする大臣をよそにホミカは言葉を続ける。
「先生!」
「なんだね?」
「毒物の回収は私の方で行います。その方が適任ですから。なので、先生には大臣の避難と印鑑の回収をお願いします」
「あい分かった」
ホミカは二人の退出を見届けて扉を内鍵をする。
同時に掃除婦は窓を閉め、内鍵をした。
さてーー




