媒質に沈む秘め事 後編
そんなとき、玄関をやかましく叩く音がした。
「む、何だ」
来客が使用人と話をしている。急ぎの用事があるようだ。ドタバタと足音が近づくと、部屋の入口には見知った顔が現れた。確か、鷲見家の使用人にいた者で、栗田という名前で呼ばれていた。
「何事かね」
「教授閣下、大変なことになりました」
息を切らせて栗田が言う。
「お嬢様が意識不明です。自室で倒れているのを他の者が見つけました」
「何だって!?」
その声にいち早く反応したのは新郎だった。
「鷲見屋敷へ急ごう」
「どうぞ」
通された鷲見家の玄関は、昨日と同じはずなのに、全く別の空間に入ったような空気が漂っていた。
靴を脱ぐ間もなく、新郎は家令に促されるようにして奥へと消えていく。背中が見えなくなるまで、誰も声をかけなかった。
代わりに、残された家令が低い声で言う。
「お嬢様が……睡眠薬を過剰に服用されたようでして。医者の見立てでは命に別条はないとのことですが、今はお休みになられております」
透子が息を呑む。
「過剰摂取……それは、自殺ですか?」
「部屋は内側から閉め切られておりましたので……おそらくは」
短く答える声に、感情はあまり乗っていない。
「遺書は?」
「それと分かるものは……ただ、机に白紙が一枚、文鎮の下に置かれておりまして。書きかけだったのかもしれませんが、筆や硯は片付けられておりました」
「書きかけなら、そのままにしておくはずですわね」
透子が首を傾げる。
「花嫁の部屋を見せていただけますか」
私が言うと、家令は一瞬だけ迷う素振りを見せた。
「……御前様の許可があれば」
⸻
許可は、ほどなく下りた。
案内された部屋は、整いすぎていた。
乱れた気配がない。争った形跡も、急いた様子もない。ただ、生活の気配だけが静かに残っている。
机の上に、白い半紙が一枚。
それだけが、妙に浮いて見えた。
何も書かれていない。
――少なくとも、見た限りでは。
私はしばらくそれを見て、視線を外した。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
まだ言葉にはならない違和感だった。
⸻
「これは――呪いではありませんか?」
沈黙を破ったのは透子だった。
「ユニコーンの、です」
「呪い……でございますか?」
使用人の栗田が戸惑う。
「ユニコーンは純潔を好む存在ですわ。今回の婚礼に嫉妬して、破談に追い込もうとしているのです」
「では……結納返しが消えたのも?」
「もちろんですとも。鷹蔵家のユニコーンと、こちらの……ええと、対になる存在が、恋仲だったのです」
「ヴィーナスの花籠?」
「ええ。ヴィーナスの花籠と駆け落ちしたのですわ。愛の逃避行です」
言い切る透子に、誰もすぐには反応しなかった。
流石にそれはない。
そう思う一方で、
――姿を眩ます。
その言葉だけが、妙に耳に残る。だが、犯人の意思は確認できた。
⸻
「式見クン」
先生の声が、静かに割り込んだ。
「何か分かっている顔だな」
「……まだ」
即答は避ける。
「言い淀んでいると事態は悪くなる。君はあの場で何かに気づいていたはずだ」
視線が、逃げ場を塞ぐ。
「こういう状況だ。遠慮はいらん」
「先生こそ、何か?」
「あるわけないだろう」
あっさりと否定する。
「吾輩にも面子がある。破談など望んでおらん」
一拍置いて、
「だが、君が“分かっているのに言わない”のは分かる」
やはり見抜かれている。
この人は、妙なところで勘が鋭い。
「科学的事実は、ときに人の期待を裏切るものだ」
先生は淡々と続けた。
「それがどれほど都合の悪いものであろうとな」
逃げ道はない。
私は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
懐から紙片を取り出し、必要なものを書き付けて差し出す。
「これを用意してください」
⸻
しばらくして、再び離れに集められた。
例の部屋。
角が消えた場所。
畳の匂いと、わずかな湿り気。昨日と変わらないはずなのに、どこか違って見える。
「ユニコーンの角の在り処が分かったそうですな」
鷹蔵家当主が問う。
「助手の式見クンから説明させる」
先生はあっさりとこちらに振った。
頼もしいような、無責任なような言い方だ。
「……では」
視線が集まる。
落ち着いているようで、どこか張り詰めた空気。
「角の前に、もう一つの消失からお話ししてもよろしいでしょうか」
誰も反対しない。
沈黙が、そのまま許可になる。
「カイロウドウケツについてです」
一瞬、ざわめきが走る。
「……あれも、なくなっているのですか?」
小さな声。
驚きは、今になって広がる。
ホミカは頷いた。
「共通点があります。どちらも“骨”であること」
「骨が消えるなんてことは考えにくい」
「ええ。普通はありえません」
言葉を選びながら続ける。
「誰も入れない空間で、物が消える。それが今回の不可解な点です」
「待て」
新郎が割って入る。
「妻が倒れた件はどう説明する」
「関係がないとは言いません。ただ――」
一度区切る。
「今は優先順位が低いと考えます。望むなら後から検証できますので」
「低いだと!?」
声が荒れる。
先生がすぐに抑えた。
「落ち着きたまえ。順序の問題だ」
「……」
「話を聞け。それが早道だ」
渋々といった様子で新郎が黙る。
⸻
「では」
ホミカは用意されたものに手を伸ばした。
ガラスのグラス。
ビー玉。
そして、透明な液体の入った甕。
「ここにあるガラスは、何色に見えますか」
「色などない」
「はい。透明です」
グラスにビー玉を入れる。
「見えますね」
「当然だ」
「では――」
液体を注ぐ。
とくとくと満ちていく音。
その途中で、
「……あれ?」
誰かが声を漏らした。
ビー玉の輪郭が、ふっと曖昧になる。
満ち切ったときには、
「消えた……?」
完全に見えなくなっていた。
⸻
「なくなったわけではありません」
私は静かに言う。
グラスを傾け、液体を戻す。
すると、
「……戻った」
ビー玉が、再び姿を現す。
⸻
「光の屈折の問題です」
場の空気が、少しだけ理屈に引き寄せられる。
「ガラスと空気では、光の進み方が違う。だから境界が見える」
グラスを指で軽く叩く。
「ですが、同程度に光を屈折させる液体で満たせば、その境界は認識できなくなる」
「つまり……」
「見えなくなる」
⸻
先生が頷く。
「カイロウドウケツはガラス質だったな」
「はい」
ホミカは続ける。
「ならば同じことが起こり得ます。適した液体で満たせば」
「……姿を消す」
透子が呟く。
「そうです」
一拍置いて、
「カイロウドウケツは持ち出されていません。部屋の中にあります」
「どこに」
「油の入ったガラス容器の中です」
⸻
静まり返る室内。
誰もすぐには言葉を返さない。
“消えた”という前提が、崩れ始めている。
⸻
「……なるほどな」
ようやく誰かが言った。
「では、誰がそんなことを?」
「その前に」
ホミカは言葉を挟む。
「もう一つの消失についてお話しします」
視線が再び集まる。
「イッカク角の在り処です」
「角は――池の中にあります」
言った瞬間、空気が揺れた。
「莫迦な」
即座に否定が飛ぶ。
「散々探した。影も形もなかったぞ。まさかこれも、見えなくなっただけとは言うまいな?」
「見えていない、言いようによってはそうかもしらませんが、角は粉々になったのでしょう」
「粉々に? なら破片はどこに?」
私は中庭の方へ視線を向けた。
障子越しの光が、どこか鈍く感じられる。
「池の様子、昨日と違いませんか」
「……濁っている、か」
教授が低く呟く。
「確かにそれなら室内から消えた理由として十分だが、誰も角を砕く音を聞いていない」
「道具は使っていません」
「ではどうやって」
「水が、溶かしたのです」
⸻
「ありえん」
即答だった。
「骨は簡単には溶けない。まして池の水でなど」
「条件次第です」
私は言葉を切らずに続ける。
「角の主成分はリン酸カルシウム。強い酸と反応します」
「……酸だと?」
「はい」
一歩、畳の中央へ出る。
「角は硫酸と反応して、過リン酸石灰に変化しました。形を保てなくなる」
「硫酸を池に流せば魚が死ぬ! 今だって泳いでいるではないか」
「普通は、そうです」
⸻
少しだけ間を置く。
全員の視線が揃ったのを確認してから言う。
「池にいた魚は、何でしたか」
「……ウグイだが」
「ありふれた魚でしたわね」
透子が補足する。
「どこにでもいる」
「ええ」
私は頷く。
「“どこにでも”いるのです」
わずかに言葉を強める。
「強い酸性の水の中でも」
⸻
理解が追いつかない沈黙。
それを崩すように、私は懐から試験紙を取り出した。
「確かめてみましょう」
「それは?」
「リトマス紙です。水が酸性かどうか判別できます」
透子に渡す。
「まずは外の鯉の池で試していただけますか」
「ええ」
透子はすぐに動いた。
数分後、戻ってくる。
「変化はありませんわ」
「中性ですね」
ホミカは頷き、
「では中庭で」
⸻
再び、同じ手順。
今度は戻ってきた透子の表情が違っていた。
「……色が、変わりました」
「どちらが」
「青が、赤に」
⸻
小さなどよめき。
「リトマス紙は、ある程度強い酸でないと反応しません」
ホミカは静かに言う。
「この水は、それを満たしている」
「……だが、なぜ魚が」
「完全には分かっていません」
正直に答える。
「ただ、実例はあります。他の生物が生育できないような強酸性の湖でもウグイは生息しているのです」
「そんな……」
「例外です」
短く言い切る。
「この池は、その例外なのです」
⸻
沈黙が落ちる。
先ほどまでの「ありえない」が、少しずつ崩れていく。
⸻
「では……」
当主が口を開いた。
「なぜ、それに気づいた」
責める調子ではない。
純粋な確認。
私は少しだけ視線を落とす。
「苔です」
「苔?」
「外の沓脱石は苔むしていました」
一拍置く。
「ですが中庭は、濡れているのに、どこも生えていない」
「……」
「手入れの問題とも考えられますが」
肩をすくめる。
「水の性質の方が説明として自然でした」
⸻
納得とも、諦めともつかない空気。
その中で透子が口を開く。
「つまり……角は溶けた、と」
「はい」
「勿体ないことですね」
小さく息を吐く。
その言葉に、誰も反応しない。
⸻
「では犯人は?」
すぐに次の問いが来る。
「分かっているのでしょう」
「……」
ホミカは一瞬だけ黙る。
視線が集まる。
逃げ道は、もうない。
「正確には、特定していません」
ざわめき。
「ただし」
続ける。
「確認は可能です」
⸻
使用人に目を向ける。
「足袋を、お借りできますか」
「足袋……でございますか?」
「ええ。洗濯前のものを」
⸻
ややあって、いくつかの足袋が集められる。
白布に、それぞれ異なる紋。
「持ち主は分かるのか」
「御印です」
「華族の習慣だな」
先生が補足する。
⸻
ホミカは頷き、試験紙を取り出した。
「池を通った者は、酸性の水に触れているはずです」
一つずつ、足袋に水を含ませ、紙を当てる。
変化はない。
もう一つ。
変わらない。
三つ目――
「……」
わずかに、色が滲む。
青が、赤へ。
⸻
室内の空気が止まる。
ホミカはそれを持ち上げた。
「これです」
見える位置へ。
梅の紋。
⸻
「まさか……」
誰かが息を呑む。
視線が、一斉に当主へ向かう。
⸻
「御前様が……?」
誰も、はっきりとは言い切らない。
だが、否定もない。
⸻
ホミカは静かに言った。
「計画と実行が同一とは限りませんが」
一呼吸置く。
「少なくとも、当主が池の秘密を知らないはずはなく、昨晩から今朝の間で池にいたことは明らかです」
⸻
誰も動かない。
沈黙だけが、ゆっくりと場を満たしていった。
「……理由を聞いてもよろしいでしょうか?」
ホミカの求めに、当主は静かに答えた。
「君は分かっているのだろう。君から話してくれ」
ホミカは一度だけ視線を逸らし、それから戻す。
「推測になりますが」
前置きを置く。
「この結納そのものを、成立させたくなかったのではないかと」
「……ほう」
「角は象徴です。西洋では純潔の証。婚姻の祝意」
言葉を選びながら続ける。
「それを消滅させることで、台無しにした」
「破談に持ち込むため、か」
先生が低く言う。
「可能性の一つです」
ホミカは肯いた。
⸻
「だが」
新郎が一歩前に出る。
「それなら、なぜこんな回りくどい真似をする。正面から断れば済む話だ」
その通りだ。
だからこそ、少しだけ言葉を濁す。
「ご存知だと思いますが……立場の問題かと」
「立場?」
「華族が一度婚約をした以上、撤回は難しい。ましてや公表されたものであったなら」
視線を当主へ向ける。
「しかし“事故”であれば話は別です。単に贈答品を紛失したのなら他方の家の落ち度となるところです」
「今回は双方が紛失した。しかも原因が特定できない。どちらの家の責ともせず、“不運”として処理できる」
理解が追いついた教授がホミカの説明を補足する。
「式見さん。どうして婚約を破棄する必要があったのですか?」
「身分差ですよ」
「身分はそこまで重要なのでしょうか?」
透子は平民でありなが子爵家に嫁ぐことが決まっている。他人事ではないのだろう。
「華族特権は平民に嫁いでしまえば喪失してしまう。このことを当主は気にしていた。このままでは娘は平民になってしまう。元よりこの縁談は、傾いていた家をたてなおすための政略結婚。財政が回復すれば必要ない」
「色鯉で一山当てたんですものね」
「はい」
ホミカは首肯した。
「でも、それだと新郎には何もメリットがありませんこと? どうして協力なんて」
「理由は分かりません。私に分かるのは何が起きたのかまでです」
「いつから……知っていたのか」
新郎が、ぽつりと言った。
誰に向けた言葉でもない。
「誰もこの縁談を望んでいないことを」
沈黙。
「……だから、協力した?」
ホミカは新郎に視線を向ける。
「家同士の話だ」
絞り出すような声だった。
「個人の意思よりも、優先されるものがあるのだ」
⸻
しばらくの沈黙。
やがて当主が、小さく息を吐いた。
「なるほどな」
それだけだった。
肯定とも否定とも取れない。
⸻
「では花嫁の件はどう説明する?」
新郎の声は、まだ張り詰めている。
「……あちらは別件です」
ホミカは即答した。
「少なくとも、この件とは直接関係しません」
「何を根拠に」
「白紙です」
短く言う。
「書きかけであれば、筆は出ているはずです」
「……」
「片付けられていたということは、“書こうとしてやめた”のではなく、“もう書き終えた”」
「それはどういうことでしょうか?」
「おそらくは、書かれていても“見えていない”」
⸻
透子が小さく息を呑む。
「……見えていない?」
「はい」
机の上の半紙を思い出す。
「熱や薬品で後から浮かび上がる類のものならば。例えば中庭の池の水で書いたら」
「……そんなことが」
「可能性は否定できません」
淡々と答える。
⸻
「……見えるようにできるのか」
当主が初めて問いかけた。
「気が進みませんが……方法ならあります」
「ここでやってくれ。見せてほしい」
「……」
ホミカは即答しない。
「本当に、よろしいのでしょうか?」
「構わない。鷲見家当主秀連が直々にお願い申し上げる。遺書ならば、それを解読しなければ、私の気持ちに踏ん切りがつかない」
「分かりました。ですが、読めるのは一瞬。今回限りになりますよ」
⸻
半紙が運ばれてくる。
火鉢の上にかざされる。
最初は、何も起きない。
だが、
じわり、と。
淡い褐色の線が浮かび上がる。
誰かが息を呑んだ。
文字になる。
震えるような筆致。浮かび上がったかと思えば煤となって崩れ、消え去る。
――申し訳ございません
――私の不徳により
――この縁談を
そこで、
当主が思わず一歩前に出た。
「もういい」
かすれた声だった。
だが、紙面の文字は火から遠ざけても徐々に浮かぶ。
――壊してしまいました
――お詫びに
――
紙はぼろぼろに崩れ去って、それ以上は読めなかった。
⸻
静寂。
誰も動かない。
「……どういうことだ」
新郎の声が震える。
ホミカは答える。
「おそらく、事情を知らなかったのでしょう」
「……何を」
「ご両家の意図を」
視線を落とす。
「自分のせいで縁談が壊れた、と考えた」
「そんなはずは……」
「でも、誰も本人に確認しなかった」
その一言だけが、静かに部屋に響いた。
⸻
誰も反論しない。
できなかった。
⸻
「……教授」
やがて当主が口を開いた。
「この件は、ここまでとしたい」
「……そうか」
「紛失の件もこちらで処理する」
「賢明だろう」
「ただし」
わずかに視線が動く。
「式見殿」
名を呼ばれる。
「礼を言っておく」
⸻
ホミカは何も答えない。
⸻
「帰るぞ」
先生が軽く言った。
張り詰めた空気が、ようやく緩む。
⸻
屋敷を出るころには、日はすっかり南中していた。
庭の池は太陽を反射し、魚が揺らす波紋に揺られていた。
濁りはあるのに、どこか透明で、
底が見えない。
⸻
「……式見さん」
透子が小さく言う。
「本当は全部分かっていたのでは?」
「……全部ではないわ」
ホミカは首を振る。
「分かるところだけ」
「でも……」
透子は言葉を探す。
「見えないものを、見ているみたいで」
⸻
ホミカは答えない。
ただ、あの半紙のことを思い出す。
見えなかった文字。
見せようとしなかった意思。
⸻
見えているのに、見えないもの。
見えないからこそ、そこにあると分かるもの。
⸻
今回の件は、もう終わった。
それでも、
何かだけが、沈殿したまま残っていた。
角の消失については、リン酸カルシウムが酸と反応することは作中でホミカが説明した通りです。ただし、硫酸単独では表面に硫酸カルシウム層を形成するため、反応は次第に鈍化します。本作では、クエン酸による脱灰作用や、水流・魚の遊泳による攪拌を考慮し、一晩で「原形を失う程度」まで崩壊したものとして描写しました。なお、完全に反応させるにはさらに大量の酸と時間を要します。
また、ホミカは語りませんでしたが、この時代にクエン酸を大量に用意することは容易ではなく、当主の企てには新郎側の協力が不可欠でした。




