舞踏会に香る毒 後編
まず、正面。
予測どおり、突き。直線的で、速さも十分。だが――遅い、とホミカは判断した。半歩だけ軸をずらす。刃が頬先を掠めて空を切る。
踏み込む。
間合いの内側に入った時点で、相手の刀は半ば無力だ。振り下ろすにも、引くにも、一拍要る。その一拍を与えない。
指先で顎に触れる。
それだけで、男の膝が抜けた。
崩れ落ちる身体を視界の端で捨てる。次。
横から気配。振り向かない。代わりに、踏み込みの勢いをそのまま流して、肩越しに口に含むものを飛ばした。
短い、湿った音。
「がっ……」
触れていないはずの男が、喉を押さえて崩れた。
周囲がざわめく。理解が追いついていない。無理もない、とホミカは思う。見えている現象と、起きている結果が結びつかないのだから。
だが、だからこそやりやすい。もうこれは戦闘というより、手順の実行に近い。
「囲め! 近づけるな!」
号令は的確だが、遅い。すでに間合いは崩れている。包囲は形だけで、互いが邪魔をしている。
(これじゃ、上段か突きの二択しかない)
刃が動く。上から。
――単調。
身体を沈めてかわす。同時に一歩、内側へ。腕の内に潜り込むようにして、手首に触れる。
落ちる。
刀が石畳を打つ音が、やけに軽い。
次は左から突き。戦法を替えたのは評価できるが、距離が足りない。届かない刃は脅威ではない。むしろ――
近づいてきてくれる分だけ、助かる。
踏み込み、胸元に触れる。
呼吸が止まる音。男はそのまま崩れた。
二人、三人と倒れるにつれ、包囲はもはや機能していなかった。恐怖が判断を鈍らせ、連携を断つ。誰もが「次は自分か」と考え始め、逃げ出す者、へたり込む者。
――速く終わらせる。
長引けば、それだけ予期せぬ損害が増える。ここでの最適解は、短期決着だ。
最後の一人が、後ずさった。
静寂が戻る。先ほどまでの喧騒が嘘のように、夜気が冷たい。
ホミカは息を整えながら、ゆっくりと歩み寄った。
ドレスの裾が、倒れた男たちの間を擦り抜ける。
舞踏会の延長にいるとは、とても思えない光景だった。
それでも彼女は、いつもと変わらない調子で言う。
「お話のできる方はいらっしゃいませんこと?」
返るのは、掠れた声ひとつ。
「……化け物」
その言葉に、ホミカは鋭い視線を向けた。
否定はしない。ただ、興味もない。
最後の一人は向かってこなかった。
逃げるでもなく、斬りかかるでもなく、ただその場に座り込む。やがて観念したように、静かに正座した。
刀を取る手に、迷いはない。
――自害。
ホミカは足を止めた。止めることはできる。だが、ここで無理に踏み込めば、余計な騒ぎになる可能性もある。周囲の制圧は終わっている。優先すべきは危機の排除だ。
男は顔を上げた。
「冥土の土産に、名を伺ってもよろしいか」
声音は落ち着いている。先ほどまでの狼狽が嘘のようだ。
ホミカは一瞬だけ考え、答える。
「式見穂美香、と申しますわ」
わずかな間。
男の目が見開かれる。
「……西藤、ではないのか」
その反応を、ホミカは見逃さなかった。
名を確かめるような言い方。偶然ではない。こちらの出方を見ているのでもない。
ならば。
(目標変更)
生かして口を割らせねば。
一歩、距離を詰める。
「あなたこそ。誰の名を探していらっしゃるの?」
男の喉が、わずかに動いた。
「……西藤家は、一家全員が焼死して断絶したことになっている」
肯定でも否定でもない、事実の確認。
だがそれで十分だった。
ホミカの中で、いくつかの線が繋がる。
三年前の実家の焼失事件。放火だった。私は生き残った。しかし、焼死体の数が合わなかった。私の遺体が見つかったのだ。ここにいる私は何者か? 放火犯は誰だ? そして――目の前の男は、その「不確かな部分」を知っているかも知れない。
「あなたは誰に唆かされて会館を襲撃しようとしたの?」
この実行部隊では料理に毒を盛るという発想は出ないだろう。つまり、裏で手を引く悪者が、私のほしい情報を知っている。
ホミカはこちらの意図を悟られぬよう、会話を引き延ばす。だが、相手の覚悟が勝った。
「名は明かせぬ。だが、これだけは言っておく」
刀の切っ先を、自らの腹へ向ける。
「――采女」
その呼び名に、空気が凍った。
ほんの一瞬、ホミカの思考が止まる。
その隙を、男は逃さない。
刃が肉を裂く音が、やけに鮮明に響いた。ホミカを見上げる男の顔には、悲壮感などまるでなく、勝ち誇るかのように得意げな笑みが張り付いていて。
「ッ!!」
咄嗟に踏み込む。間に合わない。
男の身体が崩れ、血が石畳に広がる。
ホミカは膝をつきかけて、止まった。
分かっている。最早触れたところで手遅れだ。
「……なぜ、その名を」
返事はない。
男の目はすでに焦点を失い、呼吸も浅い。
やがて、それも止まった。
静寂。
残ったのは、冷えた夜気と、血の匂いだけだった。
ホミカはゆっくりと立ち上がる。
胸の奥に、わずかなざらつきが残る。
――西藤采女。
それは、確かに自分の名だ。もう捨てたはずの。
なぜ、あの男がそれを知っていたのか。
考えは浮かぶ。どれも決め手に欠ける。
確かなのは一つだけ。
あの火事のことも、私の復讐も、まだ終わっていない。そう結論づけて、ホミカは視線を外した。
背後に、かすかな気配。
振り返ると、扉の陰に使用人の女がいた。
――見ていたのね。
ホミカは一拍だけ間を置き、いつもの声音に戻る。
「……あなた、逃げなくていいの?」
先ほどまでの出来事が、まるでなかったかのように。
扉の陰にいた女は、逃げなかった。
怯えてはいる。だが、足は動かない。視線も逸らさない。
ホミカはその様子を一瞥し、危険がないことだけを確認する。
――少なくとも、今この場で害意はない。
それで十分だった。
「あなたは怖くないのですか」
女が、かすれた声で言う。
「一人で、あれだけの人数に」
問いの形をしているが、実際には確認だ。目の前の出来事を、どう理解すればいいのか分からない、ということだろう。
ホミカは少しだけ首を傾げた。
「怖いかどうかは、あまり関係ありませんわ」
事実だけを返す。
「放置すれば被害が出る。あなたの大切な人もそう思ったのではないかしら」
簡潔に言い切ってから、わずかに間を置く。
言葉を足すかどうか、一瞬だけ考える。
「……それに」
ほんの僅かに視線を逸らす。
「穏便に済ませるには、この方法が一番でした」
囲んで制圧するより、騒ぎも広がらない。余計な死人も出ない。
結果だけ見れば、それが最適解だった。
女は何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、ぽつりと漏らす。
「……婚約者は、前の戦で亡くなりました」
ホミカの目が、わずかに細くなる。
やはり、と思う。
あの匂いは香水ではない。白檀――線香の残り香。直前に手向けてきたものだ。
髪に残るほどなら、かなり近くで、長く。
「そう」
短く応じる。
それ以上の感情は乗せない。
「……それで、こんなことを?」
責める調子ではない。ただの確認。
女は俯いた。
「何かをしなければ、と思って……でも、結局」
言葉が続かない。
ホミカは遮らない。
代わりに、静かに言う。
「未遂で済みましたわ」
女が顔を上げる。
「死者も出ていない。取り返しのつかない段階ではありません」
それは慰めではない。事実だ。
「ここで引き返せば、それで終わりにできます」
終わりに“できる”。
そう言い切る。
女の喉が、小さく鳴った。
しばらくして、力が抜けたように頷く。
「……はい」
それでいい、とホミカは判断する。
それ以上踏み込む必要はない。
背後から足音が近づいてきた。
複数。統率の取れた動き。
「大丈夫か!」
不二川子爵の声だった。
振り返ると、数人の男を伴っている。状況を見て、足が止まった。
倒れ伏した男たち。血。立っているのはホミカ一人。
理解に、数秒を要する。
「……これは、君が一人で?」
「ええ」
ホミカはあっさりと頷いた。
「皆さん、少し油断なさっていましたわ」
事実だけを述べる。
誇張もしないし、卑下もしない。
子爵は言葉を失い、それから苦く息を吐いた。
「首謀者は?」
「自決しました」
視線で示す。
子爵は顔をしかめたが、追及はしなかった。
今はそれどころではない、と判断したのだろう。
「……助かった。被害は最小限で済んだようだ」
「そうであれば、何よりですわ」
ホミカは軽く会釈する。
役目は終わった。
「私、少し疲れましたので。これで失礼しても?」
「構わない。後のことはこちらで処理する」
子爵は即答した。
「当局への説明も、こちらで整える。君に不利益は出さない」
「お心遣い、感謝いたします」
形式的なやり取りを済ませる。
その間に、ホミカの意識は少しずつ内側へ沈んでいく。
――采女。
あの呼び名が、まだ残っている。
振り払うように、思考を切る。
今は考えるべきではない。
「では、ごめん遊ばせ」
背を向ける。
歩き出したところで、隣に気配が並んだ。
先生だ。
「……無茶をする」
呆れたような声。
「最小限ですわ」
即答する。
「放置するよりは」
先生は何も言い返さなかった。
それで十分だった。
外に出ると、夜気がひやりと頬を打つ。
馬車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
視界がわずかに揺れる。
――使いすぎた。
分かってはいたが、抑えきれなかった。
座席に身を預け、目を閉じる。
浮かぶのは、炎。
火の中に立つ私の姿。
焼け落ちる屋敷と、途切れた記憶。
そして――呼ばれた名。
(……火をつけたのは、もしかしたら私だったのか?)
意識が沈む直前、そう思い至ったホミカは静かに目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
華やかな舞踏会の灯りとは対照的に、会館の庭園は沈んだ闇に包まれていた。
遠くからは管弦楽と笑い声が微かに届くが、ここには別の気配がある。
木立の陰に、二つの影。
一人は青年。もう一人は、ホミカによく似た少女。
ただし、その目だけが、場違いなほど冷えていた。
「へえ……やるやん、あの娘」
青年は軽く口笛を吹く。
「君と同じくらい強いんちゃう?」
少女は鼻で笑った。
「戯け。あんなものと並べるな」
視線の先――庭の奥で、ホミカが賊を制圧していく。
「でも見つけたやろ?」
「ああ」
短い肯定。だがそこに滲むのは苛立ちだった。
「任務を放棄して消えたかと思えば……まさか、あんなところにいるとはな」
「あんなところ、ねえ」
青年は肩を竦める。
「まだ十八の娘やで。ちょっと寄り道くらいするやろ」
「それなら俺にも当て嵌まる話だが?」
少女は、わずかに目を細めた。
ホミカが一人、また一人と倒していく。
その動きに、少女の視線はわずかに追随する。
「……惜しいな」
ぽつりと呟く。
「何がや?」
「あの力だ」
即答だった。
「使い方を誤っている。才能がないのか、指導者が無能なのか」
青年は少しだけ笑みを深める。
「せやけど、十分強いんちゃう?」
「だからどうした」
少女の声は揺るがない。
わずかな違和感。
それは怒りというより、理解できないものへの苛立ちだった。
青年は横目で少女を見る。
「気に入らんのやな」
「気に入る、気に入らないの話ではない」
間を置いて、言葉を継ぐ。
庭の向こうで、ついに最後の一人が崩れ落ちた。
「あ、終わったみたいや。作戦は大失敗やったけど、予想外にええもん見つけたな」
「こんなもの、最初から俺に任せれば失敗などするものか」
「せやけどな、皆に手柄を回すんも大事やで。組織っちゅうのは――」
「俺に仲間は要らない」
即座に遮る。
「足手纏いだ」
青年は苦笑する。
「相変わらずやなあ、クララちゃん」
「その名で呼ぶな」
空気が一瞬で冷えた。少女の手刀を青年はさらりと躱す。
「おお怖い。冗談やん。ほな……式見さん?」
「……好きに呼べ。それに警告したはずだ。俺に冗談は通じない。今度は立場の違いを分からせてやる」
「分からせてもろたら昇天してまうわ」
怯まず軽口を続ける男に、クララは舌打ちをする。
「どう見る、あの娘」
青年の問いに、わずかに考える間。
「引き込むべきだ」
短い答え。
「へえ。えらい高評価やな」
「希少だからだ。実力を認めたわけではない」
青年はその言葉の重さを測るように、しばし沈黙した。
「羨ましいんか?」
ほんの一瞬だけ、間が空いた。
だが次の言葉は迷いがなかった。
「そんなことはない。羨んだところで、俺の居場所ではないからな」
その声音には、諦めも悔恨もない。
ただの事実として切り捨てている。
「……そか」
青年はそれ以上は踏み込まない。
「いずれ分かる」
低く呟く。
「あいつも」
遠くを見る目でクララ。
「我らは、日の当たる場所には居られない」
それは呪いのようであり、確信でもあった。
「必ずこちら側に来しかなくなる」
青年は小さく笑った。
「来んかったら?」
クララはわずかに口元を歪める。
「その時は――」
言葉を切る。
そしてクララは野花の一輪を手折ってみせた。
夜の闇は、何も答えなかった。




