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舞踏会に香る毒 前編

舞踏会には、香りがある。


花の香り、酒の香り、そして——

混ざってはいけないものの香り。

「どうして私まで行かなければならぬのだ」


 馬車の中で、教授が不機嫌を隠しもせずにぼやいた。整えられたロマンスグレーの髪が、揺れる灯りに鈍く光る。


 ホミカは向かいに座ったまま、素知らぬ顔で返す。


「だって舞踏会に呼ばれても、私には御者も魔法使いもいませんから。不二川子爵いわく、私は灰かぶり(シンデレラ)ではなく猫かぶりだそうで。なら馬車ぐらい先生にお願いするしかありませんでしょう?」


「子爵に頼めばよかったじゃないか」


「婚約者のいる方の家の馬車から、縁もない娘が降りてきたら体裁が悪いでしょう?」


「むむ……それは……」


 言い返しかけて、先生は言葉を飲み込んだ。


「それに、エスコートも頼めそうにありませんし。でしたら、先生に保護者役を務めていただくのが一番穏当ではありませんこと?」


 今度こそ、先生は黙り込んだ。


 少し言い過ぎたか、とホミカは思う。だがそれ以上に、胸の内にあるのは別の感情だった。期待よりも、緊張。華やかな場に対する昂揚よりも、制御の効かない自分の体質への警戒。


 他人と触れ合う舞踏など論外だ。誘われても断るしかない。


「よいではありませんか。今晩はご馳走がいただけるのですから」


 軽く言ってみせると、


「息苦しい場所で味なんて分かるものか」


 素っ気ない返答が返る。


 会話はそこで途切れた。


 窓の外では、ガス灯がひとつ、またひとつと流れていく。淡い光が現れては消え、現れては消えるのを、ホミカはぼんやりと眺めていた。


 やがて馬車が止まる。


 扉が開かれた瞬間、光が溢れ込んだ。


 華族会館は眩いほどに照らされていた。周囲の闇との対比が強く、まるで別の世界の建物のように見える。これまで訪れたどの邸宅よりも、ひときわ華やかだった。


 階段を上るごとに、管弦楽の音が近づいてくる。


 胸の内で、何かがわずかに高鳴った。


 ——ただし、それは期待だけではない。


 中に入れば、思った通りだった。人は多いが、誰も彼もが互いに気を配り合い、逆に不用意に近づいてくる者はいない。


 顔の利きもないホミカと先生は、難なくテーブルに落ち着くことができた。


 どうせ踊るつもりはない。子爵が来なければ、積極的に誰かと話す理由もない。


 ——出逢いを求めていないわけではない。


 だが、自分から踏み込む気にもなれなかった。


 体質のこともある。無難に過ごし、無難に繋がりを作れればそれでいい。


 ホミカは視線を料理へと移した。


 銀器の上に並ぶのは、日常とはかけ離れた品々ばかりだ。松露を散らした肉料理、彩りの整ったテリーヌ、殻付きの牡蠣、脂の乗った肝、揚げ物の山、積み上げられたチーズ。


 硝子器には果物が盛られている。


 ——アイスクリームは、どこかしら。


 そう思って見回したところで、


「あら、式見さんではありませんか」


 声をかけられた。


 振り向くと、稲葉透子が立っていた。


「座っても?」


「どうぞ」


 透子は自然な仕草で席につく。


「先生もご一緒なのですね」


「付き添いを頼まれてな」


 先生は笑ってみせるが、目は笑っていない。


「式見さんは不二川様に招待されたと聞きましたけれど、本当ですの?」


 ホミカは頷いた。


「不二川様があなたの話ばかりされるものだから、私、気が気ではなくて」


「商談を持ちかけたのです。それならこちらで、と」


 二人きりは避けた、という含みは、わざわざ言う必要もない。


「まあ、そういうことでしたの」


 透子は少しだけ安堵したように息をついた。


「先生、ひとつお訊ねしてもよろしいかしら」


「何かね?」


「惚れ薬というものは、本当に存在するのでしょうか?」


 ホミカは首を傾げた。


 ——なぜ、その話題を。


 先生は困ったように唸る。


 透子の言葉は、軽い好奇心ではなかった。婚約という枠の中で、感情の確証を求めている。


 ホミカには、その構図は理解できた。


 納得は、しないが。


 先生が答えを探す間、ホミカは黙って聞いていた。


 やがて話は、酒や植物、効能の曖昧な“媚薬”へと広がっていく。


 学問的な説明になりかけたところで、ホミカは口を挟んだ。


「先生、稲葉さんが求めているのは、そういう話ではないのではありませんか」


 それ以上踏み込ませるべきではない、と判断したからだ。


 先生は咳払いをひとつして話を収める。


 代わりに、ホミカは料理を示した。


「ここには食べ物が色々とありますから、こちらの方が分かりやすいでしょう」


 視線の先には松露(トリュフ)


 透子が首を傾げる。


「牛肉……ですか?」


「その上のものですわ。松露。香り豊かなキノコです」


 ホミカは続ける。


 採取の方法、匂いの性質、人に与える印象。


「香りは記憶に触れますから」


 最後に、それだけ付け加える。


 透子は少し考えたあと、微笑んだ。


「では、試してみようかしら」


 席を立ち、料理の方へ向かう。


 その背を見送りながら、ホミカはわずかに息を吐いた。


 ——香りに頼るものは、結局、本人の中にあるものを呼び起こすだけだ。一般論を語ったに過ぎず、子爵に通用するかは別の話。


「やあ、こんばんは」


 声がかかった。


 振り向くと、不二川子爵と、その隣に見知らぬ男。


 ホミカは一瞬で観察する。


 年頃、所作、服装、立ち位置。


 ——ただの同伴者ではない。

 子爵は挨拶と所用の話を済ませると、男の紹介を始めた。


「こちらは伊刀公芳。公爵家の次男だ。ぜひ君と話したいと」


「私は公爵にはなれませんが」


 軽く訂正しつつ、男はホミカを見た。


「初めまして。ずっとお会いしたかった」


「私に?」


 意外ではあるが、理由に見当はつく。


 だが、次の言葉はその予想を越えていた。


「あなたは父が指名した、僕の婚約者でしょう?」


 一瞬、思考が止まる。


 言葉の意味は理解できる。


 だがそれは、現実として扱うにはまだ情報が不足していると判断された。


「……初耳です」


 ようやくそれだけ返す。


 伊刀は困ったように笑った。


「やはり。家でも解釈が割れていまして」


 ホミカは静かに聞く。


 遺言。解釈の揺れ。家中の混乱。


 ——合理的ではない。


 それが率直な感想だった。


 支援だけでも異例だ。それに婚約まで付随するなら、なおさら筋が通らない。


 伊刀の説明は続く。


 だがホミカの思考は別の方向に向いていた。


 ——なぜ、それを私に話す。


 当事者への誠実さか、それとも牽制か。


 いずれにせよ、利は見えない。


 公爵家。身分差。自分の体質。


 どれを取っても、容易に頷ける話ではなかった。


「……そういう事情でしたら、慎重になるのも当然でしょう」


 結論だけを返す。


 踏み込まない。


 踏み込めない。


 それだけの話だった。


「僕は正式にあなたに結婚を申し込みたいと願います」


 軽い調子で告げられた言葉に、場の空気がわずかに緩む。


 ホミカはすぐには答えなかった。驚きはあったが、ここで扱うべき話ではないと直感する。


「……大学を出るまでは、お待ちいただけますか」


 それだけを返す。


「もちろんです」


 公芳はあっさりと頷いた。話は宙に浮いたまま、区切りだけがつく。


 そのときだった。


「――式見君」


 小山が差し出した皿に、ホミカは目を落とした。


「食べてくれ」


 声音が違う。いつもの軽さがない。


 逆らわず、匙を取る。黄色い米を一口。


 咀嚼しながら、すぐに違和感が立ち上がる。


(香りが来ない)


 サフランの料理なら、口に入れる前から匂いが立つ。加熱すればなおさらだ。だが、これは違う。


 味は整っている。油も塩も魚介も破綻がない。にもかかわらず、香りだけが抜け落ちている。


「どうみるかね」


「サフランではありません」


 短く答える。


「そうだ」


 即答。確認のための問いだったらしい。


 ホミカは皿を見た。色だけは似せてある。


(着色だけで、別のものを入れている)


「ですが、それだけでは咎められません。鬱金やパプリカで色を付けることもあります」


「食用であればな」


 そこで線が繋がる。


 ホミカは口中の粒を意識して潰した。微かな苦味と、乾いた草のような刺激。記憶の中の薬効と照合する。


「……イヌサフラン(コルチカム)


 小山が頷く。


「だろうな」


 イヌサフラン。コルヒチンを含む有毒植物。少量では直ちに死に至らないが、嘔吐や下痢を引き起こす。量が増えれば致死。


 そして――サフランとは別種でありながら、花の外見が似ている。


(偽装としては雑だが、意図は明確)


 単なる代用品であれば、ウコンやパプリカで済む。だが、わざわざ毒草を選ぶ理由は一つしかない。


「主催に伝えて止める」


 小山が立ち上がりかける。


「お待ちください」


 ホミカは即座に制した。


「理由は」


「三つあります」


 間を置かず答える。


「第一に、量です。この皿一枚に混入された程度では、致死量に達しません。体調不良は出ますが、直ちに命に関わる規模ではない」


 小山の動きが止まる。


「第二に、配置です。これは立食の中で例外的に“大皿で取り分ける料理”です。自分から席に着く者しか手を出さない。無差別ではないはず」


 視線で会場を示す。多くは立ったまま食べている。


「第三に、料理の系統です。本日の献立は仏蘭西(フランス)料理で統一されています。このパエリアだけが西班牙(スペイン)料理で、調理の思想も違う。何者かが持ち込んだと考えるのが自然です」


 教授は黙って聞いている。


「以上から、これは“偶然混入”ではなく、“意図的に用意された一皿”です」


「……それで?」


「ここで止めれば、被害は抑えられますが、誰が何のために用意したのか分からなくなる」


 一拍置く。


「同じ手を、別の形で繰り返される可能性があります」


「君は、それで吾輩に見逃せと?」


「見逃しません」


 即答する。


「犯人を見つけます」


 ホミカは皿に視線を戻した。


「この皿に近づく者を別のところへ動かすか、引き付けて足止めして時間を稼ぎます」


「もし犯人が近くにいたら、企みがバレたと思われるかも知れないぞ」


 ホミカは小さく頷いた。


「時間はやらん。長くは持たせるな」


「承知しました」


 そのやり取りを、公芳が静かに聞いていた。


「穏やかではありませんね」


「ご協力いただけますか」


「何をすれば?」


「この皿に近づく方々を、それとなく見ていてください。パエリアを取ろうとしたら上手く他所へと誘導してぐたさい」


「分かりました」


 公芳は即座に頷いた。


 ホミカは改めて皿を見る。


 イヌサフランを選んだ理由は明白だ。


 致死ではない。量が不十分。


(狙いは“毒殺”ではないのか?)


 誰に、どの程度、食べさせるつもりだったのか。


 そして、それを“自然な体調不良”に見せかけるつもりだったのか。


 ホミカは思考の海にどっぷりと頭を沈めた。

「取込み中悪いのですが……」


 伊刀が遠慮がちに口を挟んだ。


「何か?」

「僕の推理を聞いていただいても?」


 ホミカは視線だけで続きを促す。


「まだ確証はありませんが、犯人の見当はついています。君は薬物から辿るのでしょうけど――要は犯人を特定できればいい」


 言い切る調子に、軽薄さよりも確信が混じっている。ホミカは否定せず、黙って聞いた。


「犯人は、あの使用人です」


 示された先では、若い女がグラスを配っている。動きにぎこちなさはない。むしろ手慣れている。


「なぜそう思うのです?」


「見覚えがあります。銀座の金獅子堂にいた娘です。でも最近クビになりました。複数人の男と恋仲だったのを咎められて」


 それだけでは弱い。ホミカはそう判断したが、伊刀はすぐに補った。


「問題はそこではありません。ここは臨時雇用ですが、誰でもいいわけじゃない。紹介元がはっきりした者しか使わないんです。西洋料理屋か、華族の家付きか――後ろ盾が保証になる」


 そこで一拍。


「彼女にはそれがない。なのに、ここにいる」


 ホミカは小さく頷いた。


「紛れ込んだ、ということですか」


「ええ。使用人たちは気にしないでしょうから容易いでしょう」


 筋は通っている。少なくとも“場に不純物が混じっている”ことの説明にはなっていた。


「だから先生の意見に賛成です。他にも何か混ぜられているかもしれない」


 ――視野が狭かった。


 ホミカは内心で舌打ちする。パエリアに意識を寄せすぎていた。他の料理への混入は当然あり得る。


「……確認します」


 すぐに手を上げる。


 疑惑の使用人が近づく。ほのかに白檀の匂いがした。


(変わった香水を使っているみたい)


 記憶の端がわずかに引っかかる。


「どうぞ」


 差し出されたグラスを受け取り、ホミカは迷わず口をつけた。


「未成年だぞ」

「毒見です」


 短いやり取りの後、同じく口に含む先生。


 一瞬の沈黙。


「……ヴァルビタール」


 ホミカが言い、

「私も同意見だ」

 先生が続けた。


(致死目的ではない)


 無差別に配る以上、即効性はむしろ邪魔になる。倒れた時点で露見するからだ。


(眠らせる……あるいは判断力を鈍らせる)


 ならば主目的は別にある。


「臨時雇用は、一人、二人の話ではありませんね」

「ええ。会の規模に応じて人手は増やしますから」


 伊刀の返答を聞き、ホミカの中で線が繋がる。


 人の出入りが多い。

 毒は致死量ではない。


 ――真の目的がある。


 ホミカは椅子を引いた。


「どうしましたか?」


「犯人は一人ではありません」


 静かに言い切る。


「この館には、複数の“紛れ込んだ者”がいる。おそらく十は下りません」


「そんな……」


「目的は特定の誰かを狙ったものではない。ここにいる全員」


 伊刀の顔色が変わる。


「子爵に知らせるべきでは」

「いいえ」


 ホミカは即座に否定した。


「動けば悟られます。相手も武装者の存在は織り込み済みでしょう」


 そして、ほんの僅かに口元を緩める。


「こちらから“外に出る”方が早い」


「ならご一緒します」


「いえ、それには及びません」


「なぜ?……まさか一人で?」


「その方が被害は少なく済みます」


 ためらいはなかった。

 教授もホミカに賛同する。

「君が行くよりも、彼女ひとりが行った方がいい」


「ですが……」

 言いたいことは分かる。女子ひとりに任せることではない。


「なに心配いらん。彼女は古武術の師範のようなものと思ってもらって良い。ここにいる誰よりも強い」


 伊刀の制止を聞かず、ホミカは先ほどの使用人を呼び止める。


「パエリアの件で、責任者にお話を」

「少々お待ちを」


 離れて相談する二人の使用人。視線が一瞬こちらに戻る。


(繋がっている)


「申し訳ありません、責任者は不在でして」


「そう。では帰ります。気分が優れないので、馬車を」


 自然な流れで外へ出る導線を作る。


 照明の落ちた階段。音楽が遠のく。


 異様に静かだ。


「あなた、白檀の匂いがしますね」


 背後に投げるように言う。


「……そうですか」


「変わった香水だなって最初は思いました。でも懐かしい気がして」


 女の肩がわずかに強張る。ホミカは揺さぶりをかける。


「どなたです? 父親か、それとも――」


「ここでお待ちを」


 遮る声。扉が開く。


 外気と共に、気配が流れ込んできた。


 十人前後。いずれも刀を持っている。


 配置が良い。待ち構えていた形だ。


 ホミカは一歩外へ出る。


「どいていただける?」


「それはできない」


 想定通りの返答。


 ホミカはため息を一つだけ落とした。


「華族をまとめて眠らせ、その間に事を起こす……ずいぶんと派手な計画ですね」


 ざわり、と空気が揺れる。


「誰が漏らした」

「推測です」


 視線を一巡させる。


「毒にイヌサフランを選んだ時点で、“事故”で終わるわけありません。内部の無力化を狙ったもの」


 言葉が刺さる。


「遅効性の致死毒を使えばいいのに、わざわざこのような迂遠なやり方をするのは、華族らに血をもって償えということなのでしょう?」


 沈黙が肯定になる。


 男の一人が刀に手をかけた。


 ホミカは手袋を外す。


「今ならまだ見逃して差し上げます」


「黙れ」


 刃が閃く。


 ホミカの踏み込みはそれより一拍早い。


 ホミカの指先が、相手の首に触れた。


 それだけで崩れ落ちる。


 周囲が一瞬、動きを止める。


(理解していない)


 それで十分だった。


「どなたか、話の分かる方は?」


 礼の形だけ整える。


 返るのは殺気だけ。


 ホミカは小さく息を吐いた。


「では――こちらから」


 次の一歩は、舞踏のそれよりも軽かった。

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