G IFT
研究パートです。事件→日常or研究→事件という形式で進行していきます。
子爵は玄関まで見送りに出た。
その背を横目に、ホミカは一歩だけ先を歩きながら口を開いた。
「そういえば、私のことをどこまで調べられたのですか?」
「公爵家の援助を受けていることは分かった。だが、それだけだ。問題は——なぜ先代公爵が君を見出したのか、だ」
子爵の視線が、ホミカの所作をなぞる。
「立ち居振る舞いも、言葉遣いも、場慣れしている。あれは一朝一夕に身につくものではない。君はどこで、それを覚えた?」
少しの間を置いて、ホミカは肩をすくめた。
「野暮なことをお訊きになるのですね。馴れ初めなど」
「先代公爵は好色で知られていた。……その類か?」
「さあ。どうでしょう」
くすり、とだけ笑う。
「ただ、遊郭というのは——案外、教養の集まる場所でもありますよ。芸事も、学問も」
子爵の眉がわずかに動く。
「……ほう」
「長州の港町で、少しばかり世話になったことがあります——それだけのことです」
嘘は言っていない。
ただ、肝心なところを抜いているだけだ。
「遠戚だと聞いたが?」
「さて。どうでしょう?」
視線を外したまま、ホミカは答えた。
「調べれば分かることだ」
「ええ。ですから——」
そこで、ようやく子爵の方を見た。
「調べる必要があるかどうかを、お考えになった方がよろしいかと」
(調べて分かることではないと思うが、一応保険を用意するか……これは透子のためでもある)
「どういう意味だ?」
「古代希臘語では、毒と薬の区別がなかったと申しましたか?」
「……前の茶会で聞いたな。それが?」
「同じく、“与える”という言葉には、投薬の意味も含まれているのですよ」
子爵の歩みが、わずかに鈍る。
「何が言いたい?」
「本日は、閣下のご希望どおり、私の身の上話を“差し上げました”。ですが——」
ホミカは振り返らない。
「それ以上をお求めになりますと、次に差し上げるものに困ってしまいます」
沈黙。
「情報というのも、扱いを誤れば毒になります。薬と同じように」
子爵は何も答えなかった。
それで十分だった。
「では、ごきげんよう」
玄関の外へ出たところで、ホミカはようやく息を吐いた。
——少し、踏み込みすぎただろうか。
だが構わない。
子爵は、境界を測っていた。ならばこちらも示しておく必要がある。
玄関扉が閉じられたあと、子爵はすぐさま玉のように吹き出た額の汗を拭った。彼女は子爵の知るどの人間とも異なっていた。いや、上級華族の老公には似た香りがする者もいたかも知れん。だが……
(何だあれは? とても18の娘が帯びて良い空気ではない。猫を被っているとは思ってはいたが、その中身は怪物だな)
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ホミカは男爵家のお茶会で、ある違和感を覚えていた。
供された菓子を食べたとき、実験サンプルにかすかに甘い――バニラに似た香りがしたのを思い出したのだ。
その正体を知っている気がした。
香雪邸へ戻るや否や、実験台へ向かう。
「……これだ」
棚の奥から取り出したのは、開発中の改良征露丸の試料。
いくつも作ったサンプルの中に、一つだけ――妙に甘い匂いを放つものがあった。確かーーアルカリで煮たサンプルだ。
征露丸は本来、ブナの木を乾留して得られるクレオソートを主成分とする。
征露丸の臭いはとても菓子に使えるような代物ではない。
だが、この試料だけは違った。
「まさかとは……」
ホミカはそれを温める。
征露丸の主成分であるグアヤコールは、およそ三十度で軟化する。
人肌でもじわりと溶け出すはずだ。
しかし――
「溶けない?」
試料は柔らかくなるだけで、明確には融けない。
「融点が違う……?」
ならば、分離できる。
私はすぐに再結晶の準備に取りかかった。
温めたメタノールに試料を溶かし、ゆっくりと冷ます。
やがて、溶液の底に結晶が析出し始めた。
「同じ香りがするのなら同じ構造のはず」
結晶の一部を取り、エタノールに溶かす。
紙に滴下し、そこへシッフ試薬を吹きかける。
周囲が赤に染まる中、滴下した部分だけが――即座に、濃い紫へと変わった。
「アルデヒド基……」
グアヤコールにはない。
だが、バニリンにはある。
私は息を整え、最後の確認に移る。
キャピラリーに詰めた結晶を油浴に浸す。
温度計の目盛りがゆっくりと上がっていく。
三十度――変化なし。
六十度――まだ動かない。
そして、
「……八十度」
隣に置いた標準品のバニリンが、先に液化を始める。
それに遅れて、試料の結晶もまた、静かに崩れた。
「やっぱり」
思わず、笑みが漏れる。
「この方法なら――作れる」
あの鼻を突く悪臭から、甘い香りへ。
征露丸からバニラの芳香成分バニリンを取り出すことができる。
もしこれが実用化できれば――
「金になる」
ホミカは出来たばかりの結晶を指で遊ばせながら独り言ちた。
(この情報を一人で持つには惜しい)
ホミカそのまま先生のもとへ向かった。
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「それはライマー・チーマン反応だな」
開口一番、教授はそう言った。
「……ご存じなのですか」
「知っているも何も、二人とも吾輩の留学時代の知り合いだ」
さらりと言う。
ホミカは一瞬だけ肩の力を抜き、それから言い返した。
「ですが、ここで征露丸が使えるとは、先生も気づいていなかった」
子爵に買取依頼をしたのは征露丸だった。戦争が終わり、使用されることがなくなったため在庫を圧迫していたのだ。
「……うむ」
先生はわずかに言葉を詰まらせ、苦笑した。
「そこは君の手柄だな」
その一言で、十分だった。
「では――これで報酬は期待しても?」
「交渉の続きは私が引き受けよう。君はもう少し実用化の詰めをしておけ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、先生は思い出したように付け加えた。
「そういえば、不二川子爵から詫び状を預かっている」
「詫び状、ですか」
「どうやら君に随分踏み込んだらしいな。華族相手に何をしたのやら」
口調とは裏腹に、どこか面白がっている。
「それで、その詫びとして――」
先生は封を切り、紙面に目を走らせる。
「君を舞踏会に招待したいそうだ」
「……はあ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「華族会館での催しだ。年頃の娘には悪くない機会だろう」
「私のような者が、ですか」
「呼ばれている以上、断る方が無礼かもしれんな」
なるほど、と私は頷いた。
嬉しさと、わずかな不安が胸の内でせめぎ合う。
――体質のことを考えれば、油断はできない。
「……準備が必要ですね」
少なくとも、肌の露出は避けなければならない。
「おいおい、そんな怖い顔してたら嬉しいようには見えんぞ」
甘い香りの奥に潜むものは、まだ誰にも知られていないのだから。
さて、次は舞踏会です。当然ホミカが踊れるはずもなく……




