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かほりの奥に

「先生、一つ確認したいことがあるのですが」


 珍しく改まった声音に、教授は眉を上げた。


「公爵様が先生宛てに出した推薦状のことです」


 先代伊刀公爵。ホミカの学費も生活も、その遺言に近い一文で賄われている。


「推薦状の内容について、少し疑問がありまして。公爵様は私を薬剤師にするために便宜を図ったのであって、大学に通わせること自体が目的ではなかったのでは?」


 教授は茶を吹きかけ、咳き込んだ。


「ど、どうしてそう思う?」


「先生は、使っていない執務室に人を入れない。ならば、そこに触れられたくないものがあると考えるのは自然です」


「……見たのかね?」


「はい」


 嘘だった。だが、教授の反応で十分だった。


「薬剤師免許の取得に、必ずしも在学は必要ありません。仮に必要でも、公爵の権限があればどうとでもなるはずです。なのに、私はここにいる」


 教授はしばらく黙っていたが、やがて観念したように言った。


「ここでの生活は不満か?」


「いえ。ただ――理由が知りたいだけです」


「……公爵の意向に背いた理由、か」


「はい」


「君なら試験は通る。問題はそこじゃない」


「では?」


 教授は視線を外した。言うべきかどうかを考え、言い淀んでいるようだった。


「まだ薬剤師にしたくないからだ」


 一瞬、ホミカは言葉の意味が理解できなかった。


「人手不足では?」


「それとこれとは別だ」


 きっぱりとした否定だった。


「君の腕は十分だ。だが若い。早すぎる」


「では、いつまで待てと?」


「時間をかけろと言っている」


 教授は苦笑した。


「免許は、能力の証明ではない。少なくとも私はそう思っている」


「では何のためのものです?」


「――背負うものを、覚悟しているかどうかの確認だ」


 少しだけ言い淀む。先ほどのような断言ではない。


「薬は、人を救うが、同じだけ害することもできる。扱う側がそれを理解していなければ意味がない」


 ホミカは黙って聞いていた。


 理解はできる。だが、納得とは別だ。


「君はどうしたい?」


「結婚したいです」


 即答だった。


「ああ……そうだったな」


 教授は困ったように頭を掻いた。


「だが、公爵はそれだけでは困ると考えたのだろう」


「なぜです?」


「君を見出した理由が、それでは足りないからだ」


 その言葉に、ホミカの内側がわずかに軋む。


 ――見出した理由。


 そんなものがあるのなら。


 人を殺すことに生業にし続けた血筋など、役に立つはずがない。


「可能性、ということですか」


「そうだ」


「曖昧ですね」


「君も吾輩の歳になれば分かるというものだ」


 教授は肩をすくめた。


「最短距離が最良とは限らない。回り道の途中でしか見えないものもある」


 ホミカは視線を落とす。


 回り道――。


 そんな余裕が、自分にあるのかは分からない。


 だが。


 それでも足掻けと言われているのだろう。


「……分かりました」


 納得したわけではない。ただ、これ以上は無意味だと判断しただけだ。


「ところで」


 教授が唐突に声色を変えた。


「一つ頼みがある」


「今度は何ですか」


「バニラビーンズを用意してほしい」


 話が飛びすぎて、一瞬思考が止まる。


「研究費で買えばよろしいのでは?」


「君は値段を知らんからそう言う」


「知ってて言っているのですが」


 バニラは舶来の高級品だ。だが、教授はバニラの研究をしていたはずだ。


「以前の在庫は?」


「換金した」


 教授は悪びれもなく言った。


「研究は金がかかる」


「でしょうね」


 ホミカはため息をつく。


 ――結局、ここに戻る。


 理想も倫理も、資金がなければ回らない。


「はぁ。でも、いくら先生でもお断りできる話では?」


「鹿鳴館だよ」


「……今は華族会館ですね」


 即座に訂正すると、教授は軽く手を振った。


「そのくらいは知っとる。そこで次の週末に催しがあるらしくてな。菓子に使うバニラが足りんのだと」


「それで先生に?」


「ああ。余っていないかと」


「そして余っていないから私に声をかけたと」


「そういうことだ」


 実に分かりやすい。


 華族会館――。名目はどうあれ、失敗の許されない場だ。そこで使う材料が不足している。だが、正規の流通では間に合わない。


 だから、横から手を伸ばしている。


「それなりの価格で買い取る、とも言っていた」


「“それなり”ですか」


 曖昧な言い方だが、悪い話ではない。


 問題は、入手できるかどうか。


「さっきの話に出た不二川子爵は、貿易会社をやっていたはずだ。あの筋なら何とかならんかと思ってな」


「でしたら先生が直接――」


「馬鹿を言うな」


 教授は即座に遮った。


「これは商売だ。私が出る話ではない」


 なるほど、とホミカは思う。


 研究者は金を使う側であって、稼ぐ側ではない。少なくとも、教授はそういう人間だ。


「君の方が適任だと思うがな」


「随分な評価ですね」


「事実だろう」


 否定はしなかった。


 教授は地位もそれなりの財産も既にある。だから、無理をする必要がない。でも、君は違うだろう?


 ホミカはそう言われたと思った。


「では、当たるだけ当たってみます」


「おお、そうか」


 教授は満足げに頷いた。


 最初からそのつもりだったのだろう。


 ――面倒を押し付けただけではない。


 そして、この話は、金になる。これが教授なりの優しさなのであろう。


「ただし、入手できる保証はありません」


「構わんよ。元よりその程度の話だ」


 “その程度”。


 つまり、確約のある依頼ではない。


 裏を返せば、失敗しても責任は問われない。


 ならば――やりようはある。


 教授は立ち上がり、帰り支度を始めた。


 用件は済んだらしい。


 やはり、これが本題だったのだろう。


「一つ、確認してもよろしいですか」


「何かね」


「依頼は、バニラビーンズそのものですか。それとも抽出液でも?」


「どちらでもいいとは思うが……」


 教授は少し考え、


「使い勝手で言えば、抽出液の方がいいだろうな」


「承知しました」


 それで十分だ。


「では、私はこれで。良い報せを期待しているよ」


 教授はそう言い残して去っていった。


 静かになった室内に、わずかに茶の香りだけが残る。


 ホミカはしばらく動かなかった。


 頭の中で、条件を整理する。


 華族会館。期限付き。高級菓子用途。供給経路。


 そして――信用。


「……さて」


 小さく呟く。


 教授は関与しない。ならば、自分で道を作るしかない。不二川子爵、先日のお茶会にいた透子の婚約者。交渉が上手くいかなかった場合も想定してっと……


「ダメ元でもやってみますか……」


 ホミカは机に向かい、紙を引き寄せた。


 まずは書簡をしたためる。


 形式は整える。だが、中身は簡潔に要件のみ。


 それだけで十分だ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 数日後、子爵から面会日時の連絡が来た。向こうから連絡を待っていたかのような速さである。だが、ホミカも暇のない身である。すぐさま訪問の連絡をし、子爵の屋敷へと赴いた。


 子爵の視線は柔らかいままだったが、その奥にあるものは測りかねた。値踏みというより、秤に載せる前の重さの見当をつけている――そんな目だとホミカは感じた。


「さて、バニラの件だったね」


 来た。だが、子爵はすぐには続けない。間を置く。言葉の選び方ひとつで主導権が動くことを知っている間だ。


「バニラが必要とのことであれば、手配できないわけではない」


 やはり、とホミカは内心で頷いた。

 “ある”とは言っていない。“ないわけではない”――逃げ道を残した言い方だ。


「ですが、“確実に入手できる”とは仰っていませんね」


 先に踏み込んだのはホミカだった。


 子爵の眉が、わずかに動く。


「……商いに、確実などという言葉はないよ」


「ええ。ですから」


 ホミカは一歩、言葉を重ねる。


「確実に用意できるものをご提案に参りました」


 子爵の視線が細くなる。試す側の目から、値踏みされる側の目へ――いや、違う。目を見張ったと言うべきか。


「ほう。君は“持っている”と? ならばなぜ私に依頼する? 一人で動けばいいだろう?」


「バニラビーンズそのものではありませんが」


 一拍置く。


「同等以上の用途に耐えるものなら、いくらでも」


 子爵は黙った。沈黙は否定ではない。計算だ。


「……代替品で、華族会館を納得させるつもりかね?」


「納得させるのは“品”ではなく“結果”です」


 ホミカは即答した。


「菓子が評判を取れば、それで十分でしょう。逆に言えば、用意できなければ評判以前の問題です」


 わずかに、空気が変わる。


 子爵は椅子に深く腰掛け直した。先ほどまでの“上から測る姿勢”が崩れている。


「……品質は?」


「均一です。むしろ天然よりもばらつきはありません」


「量は?」


「ご希望のままに」


「供給は継続できるのか」


「途切れません」


 そこで初めて、子爵は小さく息を吐いた。


 ――試されている。


 その事実に気づいたのは、今この瞬間だろうとホミカは思った。


 最初から、彼は“持っていない”。だからこそ、言葉を濁し、相手の出方を探っていた。だが、提示されたのは“より確実な供給”だ。


 ならば選ぶべきはどちらか。

 商人であれば迷う余地はない。


「君は……商いに向いているな」


 その言葉に、ホミカはわずかに首を傾げた。


「心外です。私は一()の女学生ですよ」


「君は灰かぶり(シンデレラ)ではなく猫かぶりだろう。少なくとも、“こちらの事情”を読む目はある」


「それは買いかぶりすぎです。それに猫は食べるものではなく、愛でるものですわ」


 やはり、と思う。

 どこまで見抜かれているかは分からないが、少なくとも“持っていない側”であることは悟られた。


 だが、それでいい。


 重要なのは、そこではない。


「では、この話に乗ると?」


「乗るも何も」


 子爵は肩をすくめる。


「私にできるのは“場を整えること”くらいだ。華族会館との話は、私が通そう」


 やはりそこに落ち着く。

 供給ではなく、信用と流通。


「ただし」


 子爵の声がわずかに低くなる。


「出所のはっきりしないものを、そのまま出すわけにはいかない。名義は私が預かる」


「構いません」


 即答だった。


 むしろ、それが狙いでもある。


 個人の名では通らないものも、華族の名なら通る。教授はこうしたことに関わる気はない。ならば、この男を使うのが最短だ。


「対価は?」


「後ほど、成果に応じて」


 ここでもホミカは具体を出さない。


 子爵もまた、同じだった。


「いいだろう。まずは一度、品を見せてもらおうか」


「承知しました。しかし、もう一つ条件があります」


「条件?」

 子爵は怪訝な顔をした。

(巧いな。相手が乗り気になったところでさらに条件を追加する。本当は商家の娘か?)


「こちらの物を安く売っていただきたく」

 ホミカは小さな紙切れを子爵に渡した。

「これは……いいのか? 本来ならこちらが処分代を払わねばならないものだぞ。これを売ってくれと?」


「戦争が終わって在庫を持て余していると聞きました。それに、薬を薬屋に売って何の問題がありますでしょうか?」


「分かった。軍に取り計ってみよう。だが、こんなもの何に使うのか?」


「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじなさいませ」

 ホミカは深々と頭を下げた。

 交渉はせいりした。


 だが、それは条件の合意ではない。互いに腹を探り合ったまま、同じ方向を向いただけだ。


 ――この男は使える。透子には悪いが、折角手に入れた華族家とのコネを利用しないわけない。


 ホミカはそう判断した。


 同時に、


 ――この娘は危うい。


 子爵もまた、そう判断していた。だが、取引が続く限り透子に悪い影響もないだろうという打算があった。


「ひとつ、聞いてもいいかね」


子爵は書類を整えながら、何でもない調子で言った。


「君は――結婚する気はあるのか?」


一瞬だけ空気が止まる。しばし虚空を

見つめたホミカは静かに答えた。

「それって今回の商談に必要ですか?」


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