11
寒い。止んでいた雪がまたちらつき始めた。フェリシアは太い木の枝に身を預けて、外套の襟を掻き合わせた。
毛皮の外套に毛皮の長靴、そして毛皮のミトン。それぞれにたっぷりと獣脂を塗って防寒には気を配ってきたが、臭いが逆に魔性を引き寄せてしまう。だが雪山で防寒具を脱ぐのは明らかに自殺行為だ。
山に入るときはいつも、死ぬかもしれないという思いを抱えてきた。だからといって死ぬつもりでいたことはただの一度だってないのだ。
破望山脈、二ノ峰。尾根を越えた中腹あたり。豚鬼の群れが徘徊する中、息を潜めて抜けたところを、人喰い鬼に見つかって必死で逃げた。なんとか視界から外れた瞬間に結界を起動させやり過ごしたが、疲れきって一歩も動けそうにない。仕方なく木に登って一息ついたところだ。
とはいえここも決して安全ではない。そもそも二ノ峰に安全な場所など存在しない。今のところ周囲は大地を歩く魔性ばかりだが、翼持つ魔性も数多く三ノ峰から下りてきている。フェリシアは木に登ることは出来ても、枝から枝へと飛び移るような技術は持ち合わせていない。見つかれば、逆に窮地に立たされることは間違いなかった。
地面に目を落とす。積もった雪の上にフェリシアの足跡がくっきりついてしまっていた。このまま雪が降り続いてくれれば消えるかもしれないが、そんなに時間は取れない。三ノ峰登り口の結界を張り直しに行きたかったのだが、この分では諦めたほうがよさそうだ。どうにかして一ノ峰まで引ければいいが、もうそれも難しいかもしれない。
フェリシアは首に下げた小袋を服の下から引っ張りだして開いた。残りの屑魔石の数も心もとない。体内の魔力もほぼ空だ。魔術を使わずに切り抜けることを考えなければならなかった。
「……カミルさま」
小袋の奥に、カミルにもらった竜の逆鱗を忍ばせてある。ずいぶん役に立ってくれた。小鬼くらいなら向こうから逃げてくれるし、豚鬼も一匹二匹なら近寄ってこない。群れになるとさすがに厳しいが、それでもないよりははるかにマシだ。いつもなら遠くから匂いを嗅ぎつけた魔性が寄ってくるのだが、竜の気配がいい目くらましになってくれている。
一粒だけ残っていた干し葡萄を口に放り込みじっくりと噛み締めた。凍りかけてしゃりしゃりしていたが甘さに慰められて少しだけ元気が出る。持ち込んだ食料もこれが最後。やはりなんとしても一度戻らないといけない。深呼吸をひとつ、咳き込みそうになるのを抑え、神経を研ぎ澄ませ気配を探る。いない。慎重に木を滑り降りた。白い世界を這い蹲るようにして進む。まずは尾根へ。魔素が濃くて息苦しいが、上れば楽になるのは経験から知っていた。
ゆっくり、普段の倍、いや三倍以上の時間をかけて尾根を上る。一番高いところまでたどり着いてフェリシアは深く息を吐いた。振り返り自分が這ってきた跡を見下ろす。二ノ峰の樹木は一ノ峰とは違って葉を落とさないから見通しが悪い。雪をかき分けながら樹木の合間を通ってきたが、逆にそれがよかったのか、赤い目は今のところ周囲に見えなかった。
その更に奥、白い世界でかすかに見える三ノ峰の登り口。そこにたくさんの影が蠢いている。いずれはこの尾根を越え、一ノ峰まで溢れて――その後のことは想像したくなかった。あの細い一ノ峰の登り口に罠を仕掛けることも考えたが、おそらくほとんどは崖を駆け下りることを選ぶだろう。そしてその勢いのまま、村を蹂躙するのだ。
二か月前、ヴォルフスブルクに帰るカミルを村まで送ってから、すぐに二ノ峰に取って返した。恐れていた通り、三ノ峰登り口の結界は無残に破壊され、その向こうから無数の赤い目が機会を窺っていた。
すぐに結界を張り直して、十日。変化はなかった。安心したのもつかの間、その十日後にはまた破られた。張り直して次は七日、様子を見て五日。次第に間が短くなって、今はもう、三日と結界は持たない。それでも結界を張ることしかフェリシアにはできない。
こんなことならもっとちゃんと父に教わっておくのだった。渋る父を説得して、戦い方を学んでおくのだった。不器用なお前が戦う必要はないという父の言葉に納得などせずに。
どれだけ多くの魔性が二ノ峰に下りてきているか、フェリシアにはわからない。三ノ峰から下りてきてそのまま居座るとも限らない。結界がなければ何度でも行き来して、そのたびに他の魔性も二ノ峰に下りられることを学んでいく。初めから二ノ峰に潜む魔性も心なしか狂暴化していた。二ノ峰は以前より騒がしく、以前より重苦しい。夜までに一ノ峰に引けなければ夜通し歩き続けた。一所に留まればその分魔性に見つかり易くなるし、何より動いていないと凍え死ぬ。
領主さまは動いてくださっただろうか。村の皆はちゃんと逃げられただろうか。特にユリアンは緊急時にまで悪戯をして皆を困らせていないだろうか。不安にじわりと滲んだ涙を振り切って、今度は一ノ峰に向かって尾根を下りる。
踏み出した足は雪を踏み、地面を、踏まなかった。
「きゃあああああああああっ!!」
甲高い悲鳴を上げながら人ひとり分ほどの高さの斜面を滑り落ちる。木の幹にぶつかって身体は止まったものの、背中への衝撃と頭上から降って来た雪の塊とで一瞬意識が飛びかけた。
いけない。こんなところで気絶したら死んでしまう。
それに、今の悲鳴で、何かを呼んでしまったかも。
「いっ……痛……」
全身がずきずきと痛む。分厚い毛皮の防寒具のおかげで擦り傷などは出来ていないだろうが、打撲ぐらいはしているかもしれない。身体が冷えすぎてまともな感覚もないのが逆に幸いだ。今動けなくなるのはまずい。下半身が完全に雪に埋もれてしまっているが、なんとか脱出しなければ。
自由な上半身を動かして必死に雪を掻き出していると、ふいに喉を締められるような感覚と共に毛皮のフードが後ろへと強く引っ張られた。そのままずるずると雪の塊から引きずり出される。
「……ろ、ローボ」
凍えた頬を長い舌が舐めた。血のような赤い瞳がフェリシアを覗き込む。魔狼はまるで体温を分け与えるかのように身体を寄せてきた。
「ローボ、ローボ……お前、どうして……」
ローボは二ノ峰では生きていけない。もともと弱い個体だったのだ。弱いから二ノ峰から追い出された。追い出され、死にかけて、一ノ峰まで逃げた。命の危機は魔性避けの結界の不快感など簡単に吹き飛ばしてしまう。そうしてフェリシアに出会い、命を救われた。
ローボがここにいるはずはない。今まで一度だって二ノ峰には行こうとしなかった。なのにどうして。
「ローボ、ごめんね。迎えに来てくれたのね。一緒に帰ろうね」
フェリシアは魔狼の首に抱きついた。顔を寄せると人よりずっと高い狼の体温が、ぬくもりが伝わってくる。スピスピという規則正しい鼻呼吸の音はフェリシアに落ち着きを与えてくれた。
「好きよ、ローボ。大好き」
黒い毛皮に何度も唇を寄せる。魔性でも構わない。もうフェリシアにはローボしかいないのだから。
父を亡くしてひとりになっても、山に入ればローボがいた。来てはいけない、離れなさいと言いつつも、寄って来てくれるのが嬉しかった。会って何をするでもない、ただ一緒に山を歩ければそれでよかった。この一年、ローボがいたからひとりでも頑張ってこれたのだ。
魔狼の身体を支えになんとか立ち上がったフェリシアだが、その足は何かに縫いとめられたように動かなくなった。目の前の木立の合間にゆらりと現れた巨大な影がこちらを見ている。薄闇の中には赤い光が二対、爛々と輝いていた。すさまじい威圧感がフェリシアを襲う。
ローボがフェリシアを護るように前に出た。体勢を低くとり、唸り声を上げる。
「ローボ……だめよ、逃げて……」
初めに現れたのは白い獅子の頭。次に黒い山羊の頭。それから堂々たる体躯の後に、長い尾の代わりの蛇頭。合成獣と呼ばれる魔性が、ひとりと一匹の前に立ちふさがった。
「ローボ! 逃げて!」
フェリシアの悲鳴は届かない。
魔性の鋭い爪の一撃をかわしながら、ローボは果敢に飛び掛かった。じりじりとフェリシアから引き離すように、飛び退る方向を変えながら、わずかな隙をついて牙を剥く。狼は本来群れで生きる獣、単体では敵うはずもない。ましてやローボは普通の魔狼より弱いのだ。それでもなお、ローボは合成獣に立ち向かう。自らの命を賭けてでも。
一瞬の隙をついて、ローボは合成獣の尾の蛇に喰らいつき、噛み千切った。だがそれは、魔性を激昂させるのには十分すぎる戦果だった。
合成獣は一声吼えると目にも留まらぬ速さで前足を振る。ギャンッと高く鳴いて、魔狼の身体が弾き飛ばされた。
「ローボ!」
フェリシアは弾かれたように飛び出して倒れたローボの身体に取り縋る。腹が大きく裂かれていて、弱々しい鼓動にあわせて後から後から血が溢れて出していた。雪が赤く染まっていく。フェリシアの手が裂かれた腹を押さえるが、その両手もすぐに真っ赤に染まってしまう。
「ローボ、ローボしっかりして! 死なないで! わたしを置いていかないで!」
ローボの瞳がフェリシアを捕らえる。奥底に燻っていた赤い炎が和らいで、穏やかに揺らめいていた。
クゥンと甘えるような声の後、魔狼は最期の一息を吐き出した。
「いや! 嫌だローボ! いやああああっ!」
ローボが死んだ。フェリシアの大事な大事なローボが。最後の家族が、目の前で、腕の中で死んだ。
熱を失っていく魔狼の身体を抱きしめながら、フェリシアは生まれて初めて、憎しみを持って魔性を睨み付けた。これまで魔性を恐れはしても憎んだことはなかった。異なる存在として遠ざけることはあっても、憎んだことなどなかった。でもあれは、あの魔性は憎い。フェリシアのローボを殺した、あの魔性が憎い。
「よくも……よくもローボを……!」
合成獣は、どこから喰らってやろうかと考えるかのように、フェリシアの目の前を左右に行ったり来たりしながら少しずつ近づいてくる。白い獅子の頭には深紅の瞳、背中の黒山羊の瞳も赤い。きっとローボが食い千切った尾の蛇の目も赤かったろう。複数の頭を持つ魔性の瞳はそれぞれ色が異なるのだと初めて知った。どちらの頭も浅ましく涎を垂らし、酷い悪臭を撒き散らす。
フェリシアは歯の根も合わないほどにガタガタと震えながらも何とか深呼吸を繰り返した。きっとこのまま喰われる。ローボと一緒に。ローボと一緒ならそれでもいい。でも絶対に、絶対に、一発殴ってやらなければ気が済まない。
身体に残ったわずかな魔力を絞り出して手のひらに集める。触れてかける魔術なら使えるだろうとカミルは言っていた。自分から近寄れないなら、近づいてくるのを待てばいい。どうせ喰われてしまうなら、内側から焼いてやればいいのだ。かつてカミルの母がやったように。
涙で潤んだ瞳で睨みつける不遜な生贄に対し、真正面から喰らってやろうと決めたらしい白獅子の頭が、牙をむき出しにして近づいてくる。
フェリシアはミトンを外した。冷たい外気などもう感じない。手のひらには青白い炎が揺らめいている。
もう少し。あと少し。あの薄汚れた牙が食い込むその瞬間に、この炎で横っ面をひっぱたいてやる。
震える腕を振り上げた、その時に。
「貴女はそんなことをしなくていいんです!」
突然の斬撃で魔性の巨体が千切れ吹き飛んだ。
いつの間にか黒く長い足が目の前にあった。下げた剣の刃先からは血が滴り、白雪に転々と赤黒い染みを付けている。
「カミルさま……」
カミルが見下ろしている。二か月前と変わらぬ軽装で、寒さなど感じないかのようにそこにいた。俯き加減で影になったその顔には焦りの表情が浮かんでいる。
「貴女は、戦わなくていいんです」
「でも、でも、ローボが」
口にするとぶわりと涙が膨らんだ。ぼろぼろと零れ落ちるのを止めることも出来ず、ただ俯く。カミルが横たわる魔狼に一瞬痛ましげな視線を投げ、ゆっくりと片膝をついた。手が冷え切った頬に添えられ優しく撫でられる。
「……貴女には戦ってほしくない。勝手な言い分ですが、それが私と、レオンの気持ちです」
「領主さまの……?」
「フェリシア、魔力はまだありますか?」
フェリシアが力なく首を横に振ると、カミルはふと笑って彼女の手を取り、小石ほどの大きさの魔石を乗せた。ゆるく握らせるように外側から大きな手で包み込む。
「ではこれを。魔性避けを刻んでありますから、使ってください」
そのままフェリシアの身体が引き寄せられる。カミルの唇が頬に触れた、と思うと、舌でぺろりと舐めあげられた。
「そこでおとなしく待っていてくださいね。周りを片づけてきます。邪魔ものを片付けたら……すぐに……戻って……すぐに食べに戻ってきますから」
陶然と、まるで口説くかのように吐き出される、熱を帯びた台詞に慄然とする。あまりの行為に涙も引っ込んでしまった。カミルが朱の瞳で舐めまわすようにフェリシアの全身を眺め、唇を吊り上げて妖しく微笑んだ。
「大丈夫、フェリシア、怖がらないで。最後に美味しく、美味しく、貴女を食べてあげます」
雪が跳ねる。カミルの姿がぶれるようにして消えた。すぐ側で斬撃音、続いて爆発音。魂消るような魔性の咆哮が轟き、それはすぐに断末魔の悲鳴となった。
フェリシアの目ではその姿を追えない。音だけが右に左に移動して、視線を向けたときには既に艶やかな血の花が咲いていた。炎が見えたと思えばすぐに消え、反射する刃の軌跡が空を裂く。
何かの躍動と共に、朱の光が流星のように尾を引いた。
なんて美しいのだろう、あの朱の星は。
暁の燃える空の色に似て、熱く胸を焦がす。
直前にされたことも忘れてフェリシアは見入る。一度止まったはずの涙が目尻にまた盛り上がり、世界がぼやける中、朱の星が幾重にも滲んで輝いた。
「だめ……カミルさま、だめです……」
斬撃音も断末魔の悲鳴も少しずつ遠くなっていく。カミルが遠くなっていく。周囲から魔性の気配が消え、すべてが遠ざかっていく。
「だめです……このままじゃ、堕ちて、しまう……」
フェリシアはひとつ大きく息を吐くと頬をパンと両手で張り気合いを入れた。もらった魔石を使って結界を起動し、凍り始めたローボの身体に隠す。寒さがわずかに和らぎほっと息を吐いた。ローボの冷たい鼻先に二度唇を落とすと、フードを被りミトンをしっかりとはめ直して準備を整える。
「待っててね、ローボ。カミルさまを連れてくるから、そしたら、一緒に帰ろうね」
フェリシアは痛みを押して立ちあがると尾根に向かってよろよろと進み始めた。
カミルが行ってしまう。カミルが戻ってこれなくなる。あんなにも、堕ちることを忌避していたあの人が。
朱の瞳の美しい獣。あれほどに美しい獣を、フェリシアは他に知らない。でもあの人は獣であることを望みはしなかった。人でありたいと切実に願っていた。
これ以上、何かを失うのは、嫌だ。これ以上、あの人が己を失うのは、嫌だ。
「カミルさま! カミルさま! カミルさまー!!」
山よ聞けとばかりにフェリシアは叫ぶ。フェリシアは森と山で生きてきた。ここはフェリシアにとって庭であり家だった。だからどこで叫べばどこまで声が届くかなんて、何もかも全部わかっている。
破望の山々はその名を忘れたかのようにフェリシアに応え、美しく木霊を響き渡らせた。




