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 レオンハルトの青い瞳が揺れている。カミルはそっと視線を逸らし、ため息をついた。


「……彼女は戦う術を持っていなかった。つまり今は魔性が犇めき合う中を逃げ隠れしているということですか? 無茶な」

「あいつの隠密能力は一級品だ。ガキの頃かくれんぼで遊んでやったことがあったが、その頃から隠れるのだけは異様にうまかった」

「ですがそれを続けられるわけがない。いつかは力尽きる」


 フェリシアの魔力はどの程度だろうか。ある程度魔術に熟達していれば余計な魔力消費を抑え必要最低限で行使できる。彼女はそのくらいの実力はあるだろう。だが、あの山でちゃんと休めているだろうか。あの山でひたすら逃げ回っていないだろうか。休息できない状態では魔力は回復しない。それに三ノ峰から下りてきた魔性の強さがどの程度かはわからないが、仮にあの魔竜と同じくらいだというなら、姿隠しがどれほど有効なのかもわからない。あとは当人の体力と能力次第だ。


「そうだ。しかも今はあいつと連絡をつける手段がない。山まで鷹を飛ばしたところで魔性に落とされて終わりだ。早いうちに見切りをつけて降りてくれればいいが……真面目な奴だ、絶対に限界まで残るだろう」

「適当なところで引けとは伝えてないんですね」

「……本当は、俺がフェリシアに名前を与えてはいけなかったのだろうな。俺は領主だ。エーデルシュタイン辺境伯なんだ。配下と領民を天秤にかけることなどできるはずもない。だが、名付け親としての俺は……」


 レオンハルトの端正な顔が切なげに歪む。


「カミル、頼む。報酬も俺の個人資産の許す限りいくらでも出す」


 ここで戦いに身を投じたらもう戻れない気がする。二ノ峰まで行ってフェリシアだけを攫って帰ってこれるだろうか。無理だ。次に魔性に出会ったらカミルはもう自分を止められない。奴らが死滅するまで剣を振るうだろう。奴らが灰になるまで燃やし尽くすだろう。


 魔性の悍ましさを知っている。自分があの悍ましいものに成り果てるのが本当に恐ろしかった。自分がいつか成り果てるものを見たくなくて殲滅し続けてきた。魔性に堕ちたくないが故に戦い、戦うが故に魔性に近づく。


 ならばもう、とっくの昔に、カミルは魔性に堕ちているのではないのか。


「報酬の話は後にしましょう。私はもう傭兵ではないのだし、友人に金をせびるような真似はしたくないので。馬を貸してください。出来る限り脚の強い馬を」


 もう、どちらでもいい。あそこに行けばフェリシアがいる。あの美味しそうな娘が。

 今はただ、彼女に会いたい。


***


 いったん家に戻って装備を整えたカミルが東街門に出たとき、そこに待っていたのはレオンハルトだけではなかった。馬の手綱を握るのは騎士コンラート、そして鷹を連れたジギスムントがいた。


「ジギスムント、傭兵たちはどうしたんです?」

「あん? あいつらは揃いも揃って脳みそに筋肉詰まってるか、逆に空っぽになってるような大馬鹿だが、同時に救いようのない戦馬鹿だ。戦の臭いを嗅ぎつけりゃ勝手に準備を始めるさ。そんなところまで面倒見ていられるかよ」


 辺境伯が軍を編成するのであれば、当然そこにはヴォルフスブルク傭兵組合も含まれる。率いるのは『隊長』ジギスムントだ。


「……にしてもお前、その格好で行くのか? 破望は雪山だ。死ぬぞ?」


 ジギスムントがカミルを上から下まで眺めて呆れたように声を出した。カミルの格好はいつも通り、黒の上下に黒竜鱗の胴鎧。外套だけはやや厚めのものに変わっているが、この季節には驚くほどの軽装だ。


「大丈夫ですよ。服にもマントにもこれでもかというほど強化をかけてありますから」


 実際どんな環境でも生きていけるように、糸の状態からカミルにかけられるありとあらゆる強化魔術をかけて作られた服ではある。だが今のカミルはこの服でなくても、たとえ全裸であっても、どんな過酷な環境でも死にはしない。真昼の砂漠に放り出されようが、永久凍土に閉じ込められようが、それだけでは死にはしない。そういう身体になってしまった。生命の絶えた魔素の海の中でも平然と呼吸をし、生き存える、そういう身体になってしまった。


 これが終わったら、きっともうカミルは戻ってこられない。魔性そのものに成り果てて人の世には戻ってこられない。そうなったら、今まで避けていたあの場所へ行こう。滅びたエスパーダの死の都で、ひとり彷徨いながら浅ましく生きるのだ。

 友を懐かしむ心も、彼女を想う心も失って。


「カミル、面倒ついでにもうひとつだけ頼まれてくれないか」


 コンラートから手綱を受け取り馬に跨がったところで、レオンハルトが声をかけてきた。


「なんです?」

「もし、もしフェリシアが、まだその手を汚していないなら、どうかそのままでいさせてやってくれ。あいつから戦う術を奪ったのは俺なんだ」


 レオンハルトは苦みばしった声で吐き捨てて唇を噛んだ。

「あいつに魔術を教えたのはうちの魔術師どもだが、俺は意図的にある種の制御を外させた」


 フェリシアは不器用で当てられないと言っていたが、そうではなかったということか。


「……射出系、教えなかったんですね」

「今となっては愚かなことをしたと思っている。だがそれでも俺はあいつに戦う力を持って欲しくなかった。戦後生まれたあいつが、戦いを知らないあいつが、そのまま戦わずに生きていけることこそが、俺たちにとって何よりの救いだったんだ」


 レオンハルトだけではなく、彼女の父親も、おそらくジギスムントも。そして間違いなくカミルもそれには同意する。あの地獄から生きて帰った者たちは例外なく思うだろう。フェリシアが、魔性さえも受け入れてしまう彼女が、戦争の悲惨さを知らずに生きていけるなら、日だまりのように笑っていられるなら、真綿で包んで大切に大切に閉じ込めておくだろう。彼女の意思など関係なく、勝手に平和の象徴を押しつけてでも。


「ですがレオン、それでは片手落ちです。だったら彼女の父親が亡くなった時点で森番を辞めさせるべきでした」

「あいつが森から離れるものか!」

「……婿を取らせるとか」

「あいつを滅多な男にやれるものか!」

「ここに来てまさかの親馬鹿ですか!」

「馬鹿? ああそうだ、俺は大馬鹿だとも! どんな思いで俺がフェリシアをあそこに置いてると思ってるんだ!」


「カミル殿、行ってください。こうなってしまうと伯はその、長いのです」


 コンラートが激昂し声を荒げるレオンハルトを押しとどめ、宥めるようにしながらジギスムントに目配せをした。


「鷹が先導する。荒野を突っ切っていけ」


 ジギスムントは苦笑し、右腕の手甲に止まらせていた金の瞳の鷹を空に放つ。鷹はくるりくるりと輪を描くようにして上昇し、やがて北東の一点を目指して力強く羽ばたいた。

 馬の腹を強く蹴る。いきなり最大速度で駆け出した馬の背で、灰色の空を飛ぶ黒点を追いながら、カミルは自嘲に唇を歪めた。

 はやくフェリシアに会いたい。はやくフェリシアを食べたい。

 彼女が他の魔性に喰われるくらいなら、その前にカミルが喰らいに行く。


 なあ、ローボ。お前もそうだろう?

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