第97話:『最初から』
『出ていってやるんだから』
……その言葉を、毎日の様に発していた頃。
『お屋敷が私の居場所なんです』
……その言葉を、涙ながらに発していた頃。
彼女はきっと、今よりも遥かに『気楽』だった――
怒れば、それで済んだ。
叫べば、それで済んだ。
泣けば、それで済んだ。
――少なくとも。
心に、こんな苦しみを抱える事は無かった。
……それは、得難い幸せを得た証拠であり
最も信頼している相手からの『誤解』に
耐えられなくなってしまった
ぐちゃぐちゃの感情が故だった。
「……私は、帰って来た筈。
怖い思いをして、嫌な思いをして
それでもちゃんと、帰って来た……のに……」
……雨が強まり、震える彼女の肩を濡らす。
期待が故に感じた寂しさ。
絶望にも似た悲しみの中、そして。
『思い出した』――
「そう言えば……誕生日、祝われてないな……そっか。
馬鹿だ、私……レナード様は
私の事なんか……最初から……何もッ……!」
――強く拳を握り、直後
堰を切った様に嗚咽を漏らし
ボロボロと涙を流し始めたアイナ……だが。
この瞬間、そんな彼女へと掛けられた
優しくも強い
『声』――
「……大丈夫ですか?」
「へっ……?」
「……貴女とは、いつも此処で
それも、雨の日ばかりに出会うのですね……」
――その声の主は、セシリアだった。
「セシリア……さん?……ど、どうして此処が……」
「どうしても何も……貴女との『思い出の地』ですから。
兎に角、此処に居てくれて良かった……アイナ。
風邪を引きますよ?……せめて、雨宿りをしましょう」
「……帰りません」
「ええ……では、私も一緒に居ましょう」
「え……っ?」
「言ったはずです……私は、貴女を見守る為に居ると」
「……何で、怒らないんですか?」
「何を怒る必要が在るのですか?
貴女は、何も悪くありません」
「で、でもっ……私。
『退職願』さえ出さずに、お屋敷を飛び出して!
誰にも言わず、こんなところにまで……」
「全てを完璧に整え、要らぬ伝言を残さず。
ですが『道は閉ざさず』……貴女は此処に居るだけです」
「へっ……?」
「最初から……いえ、あの日から既に
貴女は、先ず自分を責めてしまう人でした。
……貴女が悪いわけでも、
パン職人が悪いわけでも、
或いは、御使いを頼んだご両親が悪いわけでもありません。
あれは、唯の事故です……でも、貴女は自分を責めた。
私が、詭弁とも思える方法でパンを拾い上げなければ
貴女はきっと、その事に気付きもせず
ずっと自分を責めていたでしょう。
……でも、貴女は昔から変わらない。
最初からずっと、貴女は真心のある人なのです。
純粋で、優しくて……時々、不安になる
とても素敵な、一人の女の子なのです」
「セシリア……さん……私……私っ……!」
「ええ、全て吐き出しなさい……我慢など
必要の無い苦しみです……沢山、貴女は耐えました。
今の私は、貴女を抱き留められる。
その為の黒……いいえ、灰色なのですから」
「セシリアさんっ……!」
……雨が降る、叩きつける様に強く。
だが、それは……彼女を苦しめる為では無く。
何も吐き出す事が出来なかったアイナの言葉を
優しく……洗い流す為かの様に。
苦しみを、水に流す為かの様に――
……
「ずっと……ずっと分からなくて……居て良いのかも
レナード様の事も……私がこんな立場になった事も。
何も……何も……ッ……!」
「ええ……ええ……分かっています。
アイナ、貴女は全てを整える。
それは……私の白とは違った形。
全てを受け入れる白として
例え、何かに染められてしまったとしても。
時間は掛かっても……必ず、自分の色に戻せる白として。
貴女は、強く優しく……私の苦しみさえも
優しい白で包んでくれたのです……ですが。
アイナ……貴女はどうか、無理の無い白で居て下さい。
……貴女らしい、優しい白で」
「無理です……っ……
私は……ずっと……帰って来て居たのに……」
「……アイナ。
一つだけ、私のお願いを訊いてはくれませんか?」
「へっ?……な、なんですか?」
「パン職人、フリューゲルのバゲットを
それも……『焼き立て』でなければなりません。
私の名前を出して構いません、何としても今必要なのです。
どうか、買って来ては頂けませんか?」
「パ……パンですか?
でも、今雨降ってて……」
「店内で待っていなさい……私も後から向かいます。
ですから……必ず。
店内で待っていて下さい……頼めますね?」
「は……はい……」
直後、セシリアに促されるままに
パン職人フリューゲルの店へと向かったアイナ。
一方……彼女が店に入った事を確認すると
セシリアは馬に跨り、雨の街へと駆け出した――
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