第96話:『伝えたくて』
「待って……くれ」
……それは、アイナが去って暫くの事だった。
誰も居ない扉に向け、
無意味に発せられた手遅れの声。
……レナードは、拳を握り締めたまま
深く、項垂れていた――
「伝えるべき言葉は他にもあった筈……ッ!!」
『君が大切だ』
『君を護りたい』
『君が苦しんでいないかを知りたい』
『君が望む事を、知りたい』
……その、どれ一つとして
伝えられなかった自らの拙さに
彼は深く思い悩み……結局、この日
彼は執務室を出なかった。
そして――
◆
――気付けば。
執務机に突っ伏したまま
翌朝を迎えていたレナード。
「ッ?!……眠って……居たのか」
……シワの入った書類を伸ばしながら
深く溜息を吐いた。
瞬間――
「若様ぁぁぁっ!!!」
――扉の向こうから聞こえて来たジョセフの声。
そして……この直後。
立ち上がる気力さえ無い
レナードのもとへと現れたジョセフは――
……
「た……大変です……だッ……!
アイナ様が……アイナ様が何処にも居ねえだッ!」
――そう、最悪の事態を伝えた。
「何ッ?!……どういう事だ!?」
「……朝、余りに遅いから
メイド長がアイナ様の部屋に入ったら
アイナ様どころか……荷物が何もなかったんだ」
「なッ……」
尚も慌てるジョセフ、だが
彼の説明を最後まで聞く前に
レナードは椅子を蹴るように立ち上がり――
「全て……私の所為だ」
――そう言い残し、そのまま執務室を飛び出した。
彼が最初に向かったのは『アイナの部屋』だった。
……だが、ジョセフの情報通り
部屋には何一つとして残されてはおらず、
それどころか……全てが綺麗に掃除されていた。
それはまるで
アイナ・リーネルという存在が
綺麗に抜き取られてしまったかの様ですらあった。
「くッ……!
……ジョセフ、済まないが
念の為、屋敷中を探してくれ……私は、街を探してみる」
『立つ鳥跡を濁さず』
――そんな言葉がレナードの脳裏に過った。
「な、ならせめて馬車を……!」
「不要だ……アイナは恐らく馬車など使っていない。
馬さえもな……ならば、歩きで向かえる道を探すべきだ。
裏道であろうと、細い路地であろうと……兎に角。
ジョセフ、後を頼む――」
「あぁっ!わ、若様っ!!……」
◆
「……あのトランクは
彼女の腰の位置より少し高めだった筈。
……重さは分からないが
このあたりの石畳では早くは歩けない筈だろう。
だが……そもそも、方向は合っているのか?
くッ……!」
……宛もなく飛び出した屋敷。
護衛さえ付ける事無く、レナードは街へと急いだ。
それは……公爵家当主として
余りにも軽率な行動だった。
……だが、この瞬間の彼に
その様な“体裁”など、既に些末な事だった――
◆
「……突然済まない、私は
アストラル公爵家の当主、レナード・アストラルだ。
この辺りで、うちのメイドを見かけなかっただろうか?
アイナ・リーネルと言う名前で、髪留めにピンクのリボン
恐らく、腰よりも少し高めのトランクを持っている筈だ」
――レナードが最初に向かったのは
屋敷にほど近い、パン屋であった。
だが――
「レナード・アストラル様ッ!?
ア……アイナ様でしたら、昨日
山程パンを買っていかれましたが
今日は見かけておりませんで……
……ど、どうかされたので?」
「いや、見かけていないなら良いんだ。
済まない、迷惑を掛けた……では、失礼する」
――情報は得られず、
次に彼は市場へと向かった……だが、やはり
どの店に訊ねようとも――
『今日は見ていない』
――と言う答えが返ってくるばかりで
めぼしい情報は得られず。
唯、時間だけが過ぎて行き――
……
「アイナ……君は今、何処に居る……ッ……」
――日差しが雲に隠れ、僅かに空気が湿り始めた。
『ポツッ……ポツポツッ……』
石畳を濡らし始めた雨粒……街を行く人々は早足になり
レナードは静かに拳を握った。
「……ッ。
アイナ……何処だッ……私は……私はッ……!」
……雨に濡れた前髪から雫が落ち、レナードの頬を濡らす。
呼吸は荒く、足は思う様に動かない……それでも
彼は立ち止まろうとしなかった。
……道行く者達は
異質な物を見る様な目で彼を見つめては
直ぐに視線を外し、見て見ぬふりをする――
「何処だ……アイ……ナ……ッ……」
……
◆
――時を同じくして。
「はぁっ……雨……か……」
……小雨の降る、街角。
薄っすらと泥の目立つ石畳……
……トランクの影に隠れる様に
小さく座っていたアイナは、動く事の無い
ある『寂れた噴水』を見つめていた――
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