第64話:『居ないもの』
アイゼンドルフ伯爵家執事
『エルンスト・ハルトマン』は
直後、何事も無かったかの様に踵を返し
屋敷へと二人を案内した。
……腰に提げられた鈍色の鞘は
一切隠される事無く、当たり前のように
静かに彼の傍らへと収まっていた。
「……さぁ、こちらへ」
短く告げられ、セシリアと共に
屋敷の中へ足を踏み入れた瞬間……アイナは
屋敷の『停止』を理解した――
……
「相変わらず、整っていますね」
――セシリアから発せられた僅かに険のある言葉。
アイナは、その異質な態度の『理由』を理解した。
……眼前に広がる廊下は完璧に整えられ
『磨かれた床』も『飾られた絵画』も
『花台に飾られた花瓶』……その『中身』さえも
そのどれもが、在るべき場所に在るべき角度で存在している。
だが――
「音が……無い、ですね……」
――使用人たちは等間隔に並び、確かに其処に居る。
だが……一切の『気配』が存在しない。
皆、口を開かず……呼吸さえ浅い。
完璧に調温された邸宅内は、何故か寒々しく
皆が息を潜めているかの様だった――
「ええ、夜でございますから」
「で、ですよね……すみません」
「とは言え……昼も、朝も。
不用意に音を発するべきでは在りませんが」
――何かを『閉じる』様にそう言ったエルンスト。
「……さて、お部屋にご案内差し上げます」
「え、ええ……」
エルンストの醸し出す異様な空気に
アイナは本能的な恐怖を感じていた。
◆
暫くの後……長い廊下の先、二人が案内されたのは
本来、使用人たちが使う使用人用の部屋では無く
どう見ても、客室と言うべき部屋で――
「あ、あのっ……こんな豪華なお部屋……」
「いえ、当家から見れば
外部からのお客様で御座いますので。
どうか、お気に為さらず……では。
おやすみなさいませ」
――案内を終えると、一礼し
直ぐに立ち去ったエルンスト。
……一方、アイナは
荷解きする気力さえ、失っていた。
……
「大丈夫……なのかな」
思わず口を突いて出た発言に、セシリアは――
「危険は、無いのでしょうが
あまり、不用意に出歩くべきでも無いのでしょうね」
「そ、それって……」
「ええ……少し妙な感じがします」
「つ、つまり……」
「アイナ」
「は、はい……」
「……明日から試験が始まります。
今日は、早めに眠っておきなさい……私は部屋に帰ります。
では、おやすみなさい」
――そう言い残し、
アイナのもとから立ち去ったのだった。
……
「お、おばけとか……出ないよね……」
……完璧に整えられた空間、手入れの行き届いた窓。
埃一つ、塵一つ存在しない空間の中で
アイナは、窓の外に浮かぶ月を見つめていた。
だが、そんな時――
『コツ……コツコツ……コツ……』
――部屋の外。
廊下の方から微かに聞こえた音。
人の足音にしては、音の位置が――
『合わない』
直後……息を潜め、
音のする方へと耳を澄ませていたアイナ。
まるで、自らの発言が
具現化してしまったかの様な状況の中――
『ミ゛ャア゛ーーーッ!!!!!』
――窓の外。
突如として、濁った鳴き声が響き渡った。
「にゃああああああああっ!?!?」
『コンコン』
「ひぃっ?!」
「……アイナ様、何かございましたか?」
「エ、エルンストさん?……な、何で……」
「……何で、とは?」
「い、いえ……今、外で変な鳴き声が……それと
変な音が、廊下側から…‥」
「……そうですか。
では、お調べ致しますので、
アイナ様はこの部屋からお出に成らない様。
それと……声をお控え頂きたい。
それでは……」
『パタンッ』
……直後、無機質に閉じられた部屋の扉。
一方……アイナは立ち上がる事さえ出来ずに居た。
そんな中、微かに聞こえた声――
『チッ……またかよ』
――低く、機嫌の悪そうな男の声。
その、発言の意味する所さえ分からず
再び背筋を凍らせたアイナは、恐る恐る窓の外を覗いた。
すると――
……
「あれは……猫?……って、あれ……はッ……!」
――煌々と照る外灯よりも僅かに遠く。
男は……手袋をはめ、
動かなくなった猫を慎重に掴み上げると、
苦々しい表情を浮かべつつ、小さく舌打ちをした。
……
「何?……何……なの……っ……?……」
その場にへたり込んだアイナ。
そして……直後、再び響いたノックの音。
『コンコンコンコン』
「ひぃっ?!」
「アイナ、大丈夫?」
「そ、その声は……セシリアさん?
い、今開けますからッ……!」
直後、慌てて立ち上がり
覚束ない足取りで扉を開けたアイナは――
「あ、あのっ……セシリアさん……
こ、此処ヤバいです……っ……!
か、っ……帰るのは……無理……でも……」
――震えを抑え、必死に伝えようとする彼女に対し
セシリアはゆっくりと近付き
そのまま――何も言わず抱き締めた。
そして――
「……『見た』のですね、貴女も」
「へ……っ……?」
「……毒蛇でしょう、恐らくは」
「ど、毒……蛇?……」
「……あの猫は、あの雑木林に近づき
何か黒いものに飛びつかれました。
……地面を這うあの速度は、蛇以外に考えられない。
外灯の照らす範囲に寄り付かない所を見れば
恐らくは光を避けているのでしょうが……」
「そ、それじゃあ……お化けじゃ……ない?」
「ええ、恐らくは違うでしょう……ですが。
何れにしても、早く寝なさいアイナ。
貴女は、貴女らしく……怯える事も、嫌がる事も。
良いも悪いも……全て、貴女のままで良いのですから。
……おやすみなさい、アイナ」
「あっ……」
――返事も訊かず、部屋へと戻っていったセシリア。
そして、一人残されたアイナ。
だが……彼女は既に
震えては居なかった――




