第62話:『出て、生きて』
「……帰ってくる。
絶対帰って、くるんだから……この家にっ!」
――セシリアの指示に依り、アイナ・リーネルは。
屋敷の奥深く、自室へと戻り
アストラル公爵家を出る、準備を行っていた――
『最悪の場合……貴女は、メイドとしての資格を失い
そうでなくとも、このアストラル家には
二度と戻れないかも知れないのです』
――この日、望まない試験へ向かうと言う
『苦しみを誤魔化す為』かの様に
臨時家政の準備を行っていたアイナ。
だが……彼女は、今
自室でトランクの蓋を涙ながらに踏みつけていた――
……
「な……んでっ! ……閉まらない……のよっ!!
この状況を……私の置かれた『状況』をっ!!!
皮肉ってるとでも……言うのっ!? 」
――二日後は、試験先に到着している。
そう考えただけで
『震えが止まらない』身体を抱き耳を抑え
刻々と過ぎる時間の中『行かなくて良い』の一言を待ち続けた。
だが……現実は残酷だった。
彼女の頭に回るのはアストラル家での日常と
二週間と言う期日が彼女に与える『焦り』
王都の悪意から発せられる、狂乱の音だけだった――
「私は別に、白の継承者なんて評価は欲しくない
ただ、この家に居る為にどうしても必要だというのなら。
……ふぅ。
やっと閉まったわね……ッ!
忘れ物……して、行きたいな――
“帰ってくる為の、寄す処を”
ジョセフが、レナード様が……誰かが。
気付いてくれる様な形で――」
――サイドテーブルの上に置かれた『退職願』
直後、久しぶりに見かけた“それ”をくずカゴへ落とし
深く息を吐き、ゆっくりと皆の待つ応接室へと向かったアイナ。
◆
『コン、コン、コン、コン……』
……応接室の扉を鳴らす微かな“確認”
瞬間『決意』を以て発したその音と共に
返事も待たず、扉を開けた彼女は――
「……お待たせ、しました。
全て、整えてまいりました」
――涙に濡れた目を拭いながら、そう報告をした。
その手にはめられて居たのは『白薔薇の手袋』
それは、この瞬間の彼女にとって
精一杯の『表現』だった――
『引き止めて欲しい』
――それが、不可能な事とは知りながらも
アイナは、その言葉が欲しかった。
そうすれば、帰ってくる為の理由を胸に
踏ん張れる気がしたから。
だが……レナードは何も言わない。
唯……固く握られた拳だけが
彼の心を雄弁に伝えていただけだった。
「おら、手紙書くだよ……お屋敷の近況と
アイナ様の近況、お互いに伝え合えば
離れてても寂しくねえだ。
……アイナ様にそんな暇が無くても、寝る前にでも
おら達の事、読んで思い出してくれたら……」
いつも、明るく振る舞うジョセフですら
言葉に詰まる中……セシリアは
敢えてかの様に、日程を『早め』た――
「……アイゼンドルフ邸までの距離は
此処からならば然程でもありません……ですが。
万が一、期日に遅れが生じれば王都に対し
要らぬ理を与えてしまう……アイナ・リーネル。
……準備が整った以上、
アイゼンドルフ邸への出立は。
今日、行うべきでしょう」
「そんな……でもっ……いえ。
わかり……ました」
発しかけ、飲み込んだその言葉を
アイナは決意を堰き止める『杭』にした。
……言えば、決意が決壊してしまうから。
言わなければ、悲しみが薄れてくれる気がしたから。
この日、この瞬間……『白薔薇』に包まれた彼女の手は
雄弁に……その想いを語っていた。
「……では、馬車に」
心做しか冷たく発せられたセシリアの声。
「はい……では、皆様。
私、アイナ・リーネル……行ってまいります」
重く、張り詰めた応接室の空気と共に
重く、張り詰めた荷物鞄を手に
アイナは、出立の準備を整えた――




