第56話:『激化』
「ど、どう言う事だ?……インクなんて
簡単に見分けは……」
凍りついた空気の中、ジョセフはそう問うた。
だが、直ぐにレナードは行動に移った。
「料理長……済まないが、
水に少し酢を入れて持ってきてくれ」
「お、おぅ……っと、これで構わねえですか?」
「ありがとう……皆、見ていてくれ。
先ず、筆跡は間違いなく彼女の物だが
一方で、筆跡を似せる事自体は容易い……だが。
このインクは違う――」
そう言うや否や、レナードは酢を混ぜた水を一滴
セシリアの名前に垂らした――瞬間
黒い線は滲まず、その縁だけが灰紫に解けた。
「――やはり、間違いなく。
これは、セシリアだけが用いるインクだ」
……『結果』を見つめながら、
そう言って拳を握りしめたレナード。
そして、更に彼は続けた――
「セシリアは……彼女は、厳しい人だ。
だが、弱い立場の者を踏み潰す様な人間では無い。
少なくとも――私の知る。
あの、セシリア・ヴァレンティアならば」
――『苦しみ』『悲しみ』『思い出』
どう呼ぶべきかさえ定かではない何かを思い出す様に。
レナードは、そう苦く呟いた。
そして、事態は更に動いた――
……
「レナード様……そして、アイナ様。
お伝えする事も心苦しい限りですが……」
悲痛な表情を浮かべ、そう言った執事エドガー
直後、彼が伝えた来訪者たちの名前は
アストラル家に再び暗い影を落とした――
「……セシリア様が、またお見えになっております」
――その名に、食堂の空気が僅かに揺れた。
だが、エドガーはそこで言葉を切り
更に苦しげに目を伏せ、続けた。
「並びに――クラウス様も」
「なっ……何しに来ただっ!!!」
「……落ち着いて下さいジョセフ様。
向こうも正式な手続きを踏んで居る以上
無下に追い返す事も出来ません。
アイナ様を心配して居るのは私めもでございます。
ですが……今、我々が怒りに任せれば
それこそ、相手の思う壺にございます」
……重苦しい空気の中、
レナードは、静かに立ち上がった。
そして――
「……見極める必要が在る」
それは、低く静かな声だった。
「エドガー……二人を応接室へ通してくれ」
「畏まりました」
「そして……ジョセフ。
出来る限り、アイナの傍にいてくれ」
……静かに、だが強く頷き
アイナの“側付き”として気合を入れたジョセフ。
だが……各自が覚悟を決める中、アイナは
一歩も動けずに居た――
「怖い……嫌だ……私は……唯……
ヤダ……よ……」
それは……最早
メイドと言う立場の人間から発する“発言”ではなかった。
唯『アイナ・リーネル』という、一人の少女が
限界を超えてしまった、あまりにも小さな
そして、余りに大きな『異変』に依って
発せられたものだった――
「アイナ……私は今、君に対し
無責任に『大丈夫だ』などとは言えない。
だが……必ず護る。
いざと成れば……刺し違えようとも、君を。
その時は、ジョセフ……後を頼む」
「……何言ってるだ?
若様が本気で剣を振るったら、
刺し違えるまでもねぇだよ……けど」
ジョセフは、ほんの少しだけ顔を歪めた。
「それは、誰も望まねぇだ」
そう言ってから、彼はアイナの方へ向き直る。
「……アイナ様。
正直に言うと……おらも怖えだ。
だって、前会った時、
あの黒い女の人……おらだけ睨んだだ」
「……ジョセフ、さん」
「だから、本当は会うのすっげえ怖えだ。
でも……アイナ様が怖くねえ様に
おらも、皆も……頑張るだよ。
それに、いざと成ったら鍬持って追いかけるか
厨房から一番硬え大根を借りてくれば良いんだ」
「駄目……そんな事したら、二人が……」
「ばっかだなぁ、アイナ様……冗談だよ?
ツッコミ忘れちまう程怖いのはよく分かるだが……」
ジョセフは不器用に笑みを浮かべ、更に続けた。
「……おらたちは皆、アイナ様の側にいるだ。
それは、こんな紙切れなんぞには変えられねぇだよ」
「ジョセフさん……はいっ!
私っ……負けませんっ! ……頑張りますっ!!」
「違う……頑張るな、アイナ」
「レナード……様……?」
「私が“王都を嫌う理由”は、恐らく君と同じだ。
相手は権力者たちだ、対処法は少ない。
だが、無いわけじゃない……その一つを伝えておく。
良く訊いて、どんなときでも覚えていてくれ。
……奴らの発する何一つとして
“真正面に受け取るな”」
そう言い残し、応接室へと向かったレナード。
彼の目は、静かに燃えていた――




