Ⅴ 涙 ー21
あの扉を出てから、どうやってこの部屋まで来たのか記憶がない。
寝椅子に横になり、白い天井を見上げながら、ターシャはぼんやりとしていた。
何も考えられない。
日も暮れ始めたので、一晩神殿に泊まるよう言われたこと、予定されていた大神官との晩餐が、大神官の体調不良を理由に中止されたこと、聞いた気はするのだが、そのどちらもどうでもよかった。
違っていたら、よかったのに。
遠慮がちに扉を叩く音がして、ターシャは返事をしようと口を開きかけ、思い直して立ち上がった。
そうだった。彼に言わなくては。
彼も自分と同じく、ユースティスに会いたくて、針森まで来た人なのだから。
扉を開けると、思った通り、ナルが立っていた。
先ほども、ユースティスの部屋の外で、陽と共に控えていてくれた。そんな彼に、だが自分は目もくれなかった。それなのに彼は、黙って待っていてくれた。
そして今、大きな目で真っすぐターシャを見つめてくる。
「ナル」
呼ぶと涙が溢れそうになる。
先ほどまでは、どうにか涙を押しとどめる為、表情が動かないように苦心していた。
泣いてしまったら、きっとタガが外れてしまう。
ターシャはなんとか手で形を作った。
『入って』
ナルが部屋に入り、扉を閉めると、彼がどんな表情をしているのか見えなくて、ターシャは部屋が随分暗いことに気が付いた。
だけどそれでよかった。
明るいものを暗くすることは難しいが、最初から暗いのなら、暗い方が良い。
ターシャはナルにくっつきそうなほど近づいた。そうでないと手話も指文字も見えない。
そうやって近づくことで、やっと覚悟が決められる。
『ユースティスはラウル公らと結託して、わたしの父を大公の座から引きずり下ろすつもりよ。その後は、ガザの氏族連中を後ろ盾に、公国を自分たちのものにする』
ナルの目は揺れなかった。
『それって』
ナルが言葉にする途中で、ターシャはその手を掴んだ。
『わたしは彼と離縁したわ。そんな蛮行を許すわけにはいかない』
今度はナルがターシャの手を払いのけた。
『全部あんたの為だろう!』
暗くても、ナルが怒っているのが分かる。
分かっている。分かっているのだ。
ユースティスは全部ターシャの為にやっている。
アランは自分が大公に降りてまで、階級制度を失くそうとしたが、その政策は中途半端だった。ガザとの関係を保つために、中の権力構造は名前を変えただけで、実態は変わっていない。結局は神殿を切り捨てただけだ。
そこに腐心している間に、中身のない特権階級の連中は、能力もないくせに、地位を利用して私腹を肥やしていた。
公国という木は幹の中が腐り始めていた。
ユースティスはターシャの望みを知っていた。ターシャが口にする理想と、実現の手立てを、熱心に聞いてくれていた。
微笑みながら、ターシャが望みを叶えるために、力になると約束してくれた。
今さら違えるはずがない。
彼は災いとなる者を道連れに、地獄を行こうとしている。
『それでもわたしは、ユースティスが言うことを、そのまま聞くわ』
それは彼が望んだことだ。そして、自分はそれを受け入れる。
真実がどこにあろうとも、別にあると分かっていても、彼の行動と言動を利用する。
たとえそれが、彼を滅ぼすとしても。
ナルの目が、今度こそ揺れた。
その目を見ながら、ターシャはこれが最後だと思った。
『ナル、選んで。どちらの側にいる?』




