Ⅴ 涙 ー19
夢にまで見た再会だというのに、ターシャの心は落ち着いていた。落ち着きすぎている。
そう自覚してから、ああ、そうか。やはり自分は怖がっているのか、と思った。動揺して取り乱したりしないように、自分の心を殺しているのだ。
自覚してからも、ターシャはそのままでいようと自戒した。自分ぐらい殺せなくては、自分の望みは叶えられない。
隣でナルが緊張しているのが伝わってきた。
ナルもいよいよ主と再会できるというわけだ。
…事と次第によっては、わたしは二人とも失ってしまうかもしれない。
そう思ってナルに目をやったのと、ナルがこちらを向いたのが同時だった。ナルは驚いた顔をして、そのあと、咎めるような眼差しを、一瞬だけ向けてきた。
わたしが落ち着いていることに、気が付いたのかもしれない。ナルとユースティスの絆は、多分自分たちのそれより強い。
『テス様を助けて』
そういえば、ナルは最初にそう言った。
今さら、そんなことを思い出しているうちに、ターシャたちが乗る馬車が止まった。
白い建物を守る、銀色の大門。それを神々しいと思うか、威嚇に感じるかは、そこを通る者次第だ。
もちろん、ターシャは初めてくぐるわけではない。
昨年の豊穣祭以来だ。
毎年大神殿で開催される豊穣祭に、大公一家はいつも参席していた。大公が唯一参加していた、神殿の行事だ。
今年はその顔ぶれがガラリと変わったらしい…。
『嫌な感じがする』
ナルが手話で伝えてきた。
ナルのこういった直感は、大体当たる。
『この神殿は、もう神聖な場所ではないからね』
白い神殿はもう白ではないはずだ。真に白かったことがあったかどうかは別として、今は恐らく真っ黒だ。
ターシャの婚約者によって。
銀色の門がゆっくりと開いた。
「会う気はあるみたいだな」
外から昂が声をかけてきた。
迎えが来るので待つようにと門番に言われ、しばらく待っていると、向こうから男の姿が現れた。日頃執務をする軽装であり、正装ではない。公女に対してなら、礼儀にかなっていないが、ターシャは遠目でも一目で分かった。
婚約者の父に私的に会う時でさえ、身なりが軽々しくないか気にしていた男だ。性格まで変わってしまったのかもしれない。
「久しぶりね、ユースティス」
ターシャは馬車から降りて、婚約者と相対した。ナルも続いて馬車から降りる。
ナルの真摯な目線を一切無視して、ユースティスはターシャにだけ目を向け、一礼した。
「公女様が何の御用で。大公様の居場所を伝えに来られたのですか」
後ろでナルがビクリと震えたが、ターシャは動揺せず、ユースティスの目を見つめた。
「あなたに会いに来たのよ。直に話をするためにね」
ユースティスも動じない。固い声が、ターシャの耳に返ってきた。
「婚約破棄を願ったお手紙を、お渡ししたと思いますが」
「わたしは同意していないわ」
ユースティスがそう言うことくらい分かっていた。自分は何の為に、ここに来たのか。
「わたしたちの婚約はまだ有効よ」
そう。今はまだ婚約者同士だ。
「話をしたいの。わたしを中に入れて」
「お元気そうで何よりです」
ユースティスは、自ら入れた蜜茶を、ターシャの前にそっと置いた。
「元気だと思う?」
言いながら、ターシャは目の前に置かれた蜜茶をじっと見つめていた。
そうして、ためらうことなく茶器に指を掛けると、優雅な仕草で一口蜜茶を飲んだ。
「ひさしぶりね」
視線は、まだ蜜茶に注がれている。
その言葉が、蜜茶に対するものか、自分に対するものか分からず、ユースティスは返事をしそこねた。
「あなたは?元気だった?」
やっと目線を上げると、ターシャはユースティスの顔を見て、そう訊ねた。
曖昧にほほ笑むと、ターシャはプッと吹き出した。
「相変わらず、バカ正直ね。悲痛な顔か、傲慢な顔か、どちらかぐらいしなさいよ」
今、ユースティスの私室となっているこの部屋には、ユースティスとターシャの二人しかいない。
婚約している者同士が話すのだからと、他の者は部屋に立ち入らせなかった。
もちろん、扉の外には、神殿の者とターシャに付いてきた者が、張り付いているだろう。
誰も「婚約者同士」という言葉を、鵜呑みにする者はいない。
「説明してちょうだい」
ターシャはまっすぐユースティスを見た。
「あなたは何をしているの?」
よかった。
ターシャの視線を受け止めて、ユースティスはほとんど見惚れるように、見つめ返した。
ちゃんと怒っている。
ターシャから溢れる怒りの眩しさに、ユースティスは目を細めた。
「おそらく、ターシャの知っている通りですよ」
ターシャが胡散臭そうに目を眇めるのを無視して、ユースティスは続けた。
「大公は神殿の権威を堕としすぎました。わたしがもともと、太陽神の熱心な信者だったことは、あなたもご存知でしょう。大公が、自ら太陽王を返上なさったまでは、わたしも許容できた。実際あのころの神殿はやりすぎていましたからね。だが、ここまで神殿の力を失墜させると、国が乱れます。この国の人間は、根本のところで太陽神を信仰している。身近なんです。その事に対して、大公は思慮が足りなかった。神殿の力を弱めることに、固執しすぎた。想いが強すぎたのでしょう。しかしそれでも、大公の力は強い。何か、それを上回る失態を犯さない限り、少々国が乱れても、大公は大公の座を追われることはない」
「だから、ガザの出迎えの兵を襲撃して、その罪を父に着せたの?」
ほとんど言葉を重ねるように、ターシャがそう問い詰めると、ユースティスは困ったような、ホッとしたような顔で頷いた。
「やはり、ターシャは気が付いていましたか」
「うそよ」
言ったそばから、ターシャは言葉を翻した。
「あんなの、ガザに通用するなんて、あなたは思っていなかったはずよ。そんな策に乗るはずないわ。ラウルや他の連中が持ってきた愚策に、巻き込まれただけでしょう?だからあなたは、わたしに離縁状を出した。わたしを巻き込まないように」
「ガザにばれても、結果は変わらないんですよ」
今度はユースティスが、ターシャを遮るように、言葉を挟んだ。
「大公は嵌められただけだとガザが分かったところで、何もなかった事には出来ないでしょう。大公はその責を負わざるをえなくなる。それでわたしの目的は達成できる」
ターシャはユースティスを睨みつけた。
「つまりあなたは、父をエサに、排除したい人間をおびき寄せたかったのね」
「……結果的に、そうなりましたね」
「違うわ」
掴みかからんばかりの公女を、ユースティスは何も見逃さないように、目を見開いて見つめていた。
「それが目的よ」
今この瞬間、世界には自分とターシャだけだと、ユースティスは強烈に思った。
この瞬間が、永遠に続けばいいのに。眩しいばかりのエネルギーの塊を放つこの娘が、怒りのまま、焼き尽くしてくれたらいい。
彼女はなおも言い放つ。
「わたしがそれを望んでいるとでも思ったの?」
ユースティスはフッと息を吐くと、テーブルの上の茶器に目をやった。
「茶が冷めてしまいましたね。入れなおしましょうか」
ターシャも力を抜いて、椅子の背に身体を預けた。
「ええ、そうね。ありがとう」
ユースティスが茶を入れる間、ターシャは額に手をやり、目を閉じていた。
二人分の蜜茶を入れなおし、新しい茶器をテーブルに置くと、ターシャは間髪入れずに茶器を手に取り、一気に飲み干した。
「帰るわ」
ターシャは短く言って、立ち上がった。
「もういいんですか?」
恐らくこれが最後になる。
ここからターシャを送り出して初めて、目的が達成される。だが、二度と会えないのだと思うと、少しでも引き止めたくなってしまった。
だが、ターシャは未練がましい様子もなく、あっさりと言った。
「いいわ、分かったから。婚約破棄も受け入れます」
そう言って、挨拶もせず、部屋を後にしようと背を向けた。
「ターシャ」
思わず呼び止めてしまった。
「先ほどのお茶、毒が入っているとは思わなかったんですか?」
躊躇う様子もなく、一気に飲み干していた。
大公を廃した後、次の障害になるのは公女であるターシャだ。それが分からないターシャではない。
ターシャは振り返った。顔が怒っている。
「思うわけないでしょ」
そう言って、今度こそ振り返りもせずに、出て行ってしまった。




