Ⅴ 涙 ー13
広い国だ。
眼下に広がる白水湖を眺めながら、今更ながら震えが駆けあがってきた。
いつもそうだ。
自分でも度胸はあると思っている、とっさに機転もきく。はったりも得意だ。
だが、後になって、本当にこれでよかったのかと不安になる。
客人である自分が、与えられた部屋から勝手に外に出ることは、いい顔をされないだろう。だが、部屋から続く露台ならいいかと、ターシャは外に出てみた。
景色は薄闇に沈んでいるが、興奮した身体に涼しい風は気持ちがよかった。
王城は、白水湖に三方を囲まれた小高い丘に位置するので、どこから見下ろしても、白水湖がよく見える。薄闇の中でも、月明りに照らされて、水面がさざめいているのがよく見えた。
「眠れないのか?」
急に声をかけられて、ターシャは声を上げそうになった。
離れてはいるが、庭園のようになっている広い露台の奥に、男の影が見えた。
改めて叫ぼうとしたが、既視感に思い留まる。室内の明かりが漏れて、照らされた一角に現れた姿に、ターシャは一拍おいて、その人の名前を思い出した。明るい金の短髪には覚えがある。
「昂?」
子どもの頃会ったその人は、あまり変わっていなかった。
「きちんと呼んでくれるようになったんだな」
昂ははにかんで答えてくれた。
最初に出会った時は、針森の名は呼べなかったから、「コウ」と呼んだ。
「陽に教えてもらったの」
もっと言うべきことはあるのに、ターシャはそう言った。
「ああ」
昂は苦笑して、「あいつは元気か?」と訊いてきた。
「会わないの?」
どうしてわたしの所に来たのだろう?と今さらながら、疑問に思う。陽の部屋と間違えたのだろうか。
だが、昂は首を横に振った。
「あいつとは今会いたくない」
嫌そうなわけではなく、困ったような顔で言う。陽の剣幕を思い出して、ターシャは小さく笑った。
「兄弟愛が強いのね」
それから、今気が付いたように、「元気だと思うわ」と付け足した。
「燦王女に喰ってかかっていたわよ」
そう言ってやると、昂は「はぁ」とため息をついた。
「誤解を解きたいんだけど、あいつ怖いんだよ」
情けない顔でそう言う昂を見て、陽と違って、明け透けな人だと思った。弱い部分も臆さず人に見せられる。案外、そう言う人間の方が、強い。
「でも今回は、ターシャに会いに来た」
真っすぐ言う昂の目を見て、燦がなぜこの人に惹かれたのか、分かった気がした。
わたしたちのような人間は、彼のような人間に肯定してもらうことを、欲してしまう。
ただ、燦とターシャの違いは、燦は自分が自分にとって正しい人間であろうとするのに対して、ターシャは必ずしも、そうでないことだ。
「六年前はターシャに助けてもらったから、今度は俺が助けようと思う」
ああ、なるほど。
昂はまっすぐな人間だが、融通は利くらしい。
「どうやって?」
言いながらも、決して近づかず、昂が近づいてくるのを待った。足元を見られたくない。
昂はターシャの意図が伝わったようで、ゆっくり近づいてきた。
今、陽がこの光景を見たら、少しはやきもちを焼いてくれるかしら。関係がないそんなことを、チラリと思う。
昂が一人でこんなところに忍び込んできたのは、ガザ側に黙って、わたしに何かを伝えるためだろう。恐らく燦にも言ってはいない。
「ユースティスの真意を知るために、ターシャは神殿に行くのだろう?」
「ええ」
ターシャが間髪入れずに答えると、少しは面食らうと思っていた昂は、意外にもすぐに、理解したように頷いた。
「そしてもし、彼の目的がターシャと敵対することが分かったら、ターシャは彼を抹殺することも厭わない?」
考えなかったわけではない。政敵として敵対すれば、その反動が大きければ大きいほど、相手を殺さざるを得なくなる。
「厭わないわけないじゃない」
ターシャは目を逸らさないように、昂を見た。
「ユースティスを愛しているわ。彼を殺したくない」
昂はため息のように、「よかった」と吐いた。
ターシャは昂の言葉を一つも聞き逃さないように、彼の微かな仕草を一つも見逃さないように、密かに全神経を集中させた。
ユースティスの翻意が明らかになった時に、彼を殺せるだけの事を、昂が知っているということだ。
「ガザ王妃が崑の翁を、王城に連れてきた。王妃の肝いりで、崑と王族が手を組む。王妃も翁もガザの氏族制度を崩そうとしている。そうなれば、公国の神殿の連中は、孤立する」
ターシャは知らず、奥歯をグッと噛みしめた。
ガザの氏族連中が手を貸している企みが阻止されるのは、ターシャたちにとっては良いことだ。
そして、公国の反逆者たちは、何の援護もなく、大国に押しつぶされる。大国自ら抹殺するか、新しい公国の為政者に、早く処理するよう圧力をかけるかのどちらかだ。おそらく、後者だろう。
……彼を抹殺することも厭わない?
その言葉の意味が、今更ながらズンと胸に来る。
昂はわたしの目的を知っている。
「あと、もうひとつ」
昂は続けた。
「大公の襲撃事件、最近のカエルム騒動。あれは同じ犯人だ。枝葉は広がっているけどね。目的は…多分、凛たちと同じなんだよね」
「凛」という名が、王妃のものであることを、ターシャは少し遅れて理解した。
「犯人は」
突き詰めると、昂はあっさり言った。
「ターシャにとっては、誰でも同じだと思うけど、四大氏族の一人だよ。允族の者だ」
確かにそうだ。氏族の中の誰でも、ターシャにはあまり関係ない。
昂もその話はすぐに打ち切った。
爽やかともいえる笑顔で、手を差し出してくる。
「神殿に向かう護衛を、炎に頼んだだろ?俺も行くよ」
これにはターシャも驚いた。これからも、「助ける」ことは続くんだろうか。
驚いたまま、ターシャは口を開いていた。
「じゃあ、結局、陽には会うわね」




