Ⅴ 涙 ー5
「あまり、うちのをいじめないでやって下さい」
苦笑する小柄な老人を、凛はしみじみ眺めた。王である炎よりも、長く強い力を持ち続けている男。
緩んだ顔は好好爺のそれだが、その顔にほだされるほど、凛も呆けてはいない。
実際の身体の重さより、身体にため込んだものの方が確実に重そうである。あの翁から、本体の翁が出てきても、凛は驚かないだろうと思った。
凛は勧められるまま。上座にある椅子に座った。
昂もナナライも連れていない。
一対一の対談を望んだのは凛だ。こちらも一人で行くからと、誰の同席も望まない旨を千に伝えた。使いの者が翁の返事を持って来ると、千は心底気に喰わないという表情を隠しもせず、凛を案内するよう、使いの者に命じたのだった。
翁は凛の対面ではなく、なぜかテーブルの角を挟んだ、隣に座った。向き合うと、思ったより近い距離で話すことになる。
「あの人を『うちの』というなんて、随分開けっぴろげなのね」
千はもちろん翁の妻ではない。崑の隠密頭であるが、彼女がずっと翁の女であることは、界隈では有名な話だ。
翁は「おやっ」と言うように眉を上げた。
「あなた様の故郷では、そんなこと気になさらないでしょう」
丁寧だが、そこに含まれた揶揄を感じ取り、凛もニコリと微笑んだ。
「わたしの故郷では、女性のことを、そんな物のような言い方はしないわ……崑桜」
凛が翁の名前を呼ぶと、翁のこめかみが少しだけピクリと動いた。
「これはこれは、さすが王妃様。わたしの愚名をご存知とは……あなた様の優秀な番犬が探し当てたのですかな」
翁の本名を知る者は、崑の身内でも、ほとんどいないと言っていい。
崑の翁は崑の翁であり、それ以外の何者でもないからだ。かつて名前があったかもしれないが、それはもう過去のものであって、だれの記憶にも残っていない。
彼が「翁」と名乗りだしたのは、それほど昔のことだった。
「皆がわざわざ知ろうとしなかっただけよ。あなたが過去に捨てた名前を知ったところで、得るものはないもの」
「では、なぜ、あなた様は知ろうとされたのですか」
「桜と話がしたいからよ」
翁の口から「ハッ」という声が漏れた。
構わずに、凛は話を続ける。
「わたしは腹の探り合いは苦手なの。単刀直入に言うわね。この国の氏族制度を壊そうと思うの。どうなると思う?」
「ハッ、ハッハッハ」
こらえきれなくなったように、翁が大きな笑い声を上げた。
部屋の大扉の外で、気配が動いた。扉の外には当然だが、兵士が控えているのだろう。だが、誰も飛び込んでくることなく、そのうち気配も静かになった。
「面白いことをおっしゃいますな」
翁は眼鏡を取って、しょぼくれた目を指でこすった。
「涙が出るほど笑ったのは久しぶりです……王妃様、崑がガザ国一大きな氏族だとご存知ですか」
「もちろん」
その巨大さは四大氏族の中でも群を抜く。それは何も王妃でなくても、全国民が、ともすれば他国の者でも、知っていることだ。
「それなのに、氏族を潰すという話を聞くとお思いですかな?」
「わたしは崑を潰すなんて言っていないわ。氏族という枠組みを壊したいの。それに付随している特権もね」
「同じことです。崑の不利益になり、衰退の要因となる」
「だから桜と話がしたいのよ」
にべもなく切り捨てたつもりなのに、凛のなぜか自信満々な様子に、翁は眉を顰めた。
相手の意図が読めないなど、翁には珍しい。
「でもあなたも、崑が大きくなりすぎているって、思っているでしょう?」
「……」
翁は黙って凛を見つめ返した。
この王妃がどんな女なのか、会ったことはなくとも、隠密たちからの報告を注意深く聞き、知っていたつもりだった。千からも散々聞かされている。あの千を苛立たせるとは、確かにただ者ではないと、甘く見ていたつもりはなかった。
だが、これは……
崑は帝国一強大な氏族である。それは王族である全をも凌いでいる。
そうあるべきだし、そうあり続けなくてはならない。それが崑族の総意である。
だが、翁は密かに崑が大きすぎると思っていた。末端まで意思が届かない。そういった組織は、根腐れか空中分解を起こす。
だが、翁がそう思っていることは、誰にも知られていない。国土の隅々まで崑の支配が行きわたり、自分たちがその一員であることの優越感に、崑の人間は胡坐をかいている。
「氏族制度が崩れれば、混乱をきたすでしょう。この国のあらゆる制度が氏族制度に基づいています」
「そうね、だから国民は氏族に逆らうことができない」
凛は否定せずに、そう返してきた。
生産から流通までの全てを、氏族が指揮を執って行っている。確かにそれは、国民からの搾取を助長しているが、だからと言って、その制度自体が崩れると、生産流通が滞ってしまう。
「もちろん、混乱すると思うわ。でも国民も気が付いている。このままでは、氏族たちが重しになって、この国を潰してしまう」
翁は、いつの間にか凛の言葉を待っている自分に気が付いた。
「わたしはね、国民に氏族が倒される前に、緩やかに力を譲っていきたいの」
「血を見るのが嫌だから」と、綺麗ごとを臆面もなく言ってのける。
「でも、国民に氏族を倒させようとしている者がいる。国民を疲弊させて、怒りによって立ち上がらせようとしている。そうでしょう?」
急に矛先を向けられて、翁は瞬きしそうになるのを、すんでの所で抑えた。
凛は返事を待たずに続けた。
「大公を嵌めた人間を、あなたは知っているでしょう?そして、その人間がカエルムに似たものを広めようとしている」
王妃が手の内をペラペラとしゃべるのは、こちらもそれを把握していると分かっているからだ。そして披露するからには、更に上の手を持っている。
「これを野放しにしているのは、あなたの大きくなりすぎた崑が、手を出しているからね。それも深いところまで」
だれが腹の探り合いが苦手だと?
翁は痛快すぎて、思わず笑みをこぼしてしまった。崑の者が見たら、仰天するだろう。
「うちの嫁に来てほしかったですな」
多分に本気を含んだ冗談でそう言うと、王妃は何故か真剣な顔で頷いた。
「桜がうちに来てほしいの」
「は?」
「王家の参謀になってもらえないかしら」
表情を作るのを、翁はとうにあきらめていた。
作ろうが、作るまいが、この王妃には関係ないらしい。なんといっても、自称腹の探り合いが苦手なのだ。様子を伺うということをしない相手に、化かし合いは無駄な労力を使うだけだ。
何より、その突飛な提案を、翁は面白いと思ってしまった。
「……諾と言う前に、一つ条件があります」
「何?」
こんなに他意のない目を久しぶりに見た。翁に対しては、誰しもがその目に言葉以上の何かを宿す。例えば、恐れ、嫌悪、哀願、媚び……
「わたしのことを、『桜』と呼ぶのはどうか勘弁してください。女のようで、子どもの頃から嫌いなのです」
「あら!」
心底驚いたように、凛は声を上げ、自分の口を押えた。
「そうなの?いい名前なのに。わたしの村に、あなたと同じ『桜』という名前の人がいたの」
凛王妃の目が、一瞬だけ柔らかくなる。
「とても偉大な人だったのよ」




