Ⅳ 狂気 ー10
それからどうやって允家の館まで帰ったのか、翠は覚えていない。
気が付いたら、自室に閉じ込められていた。
允家の長男がフラフラと一人で町を歩いていたら、それは格好の噂になっただろう。遜からも父へ連絡があったに違いない。父はいつにもまして怒り狂っていたが、翠に対する噂や、遜がどういう風に翠の失態を利用したのか、全く教えてくれなかった。
だが、銀細工師の息子の遺体が、ぼろ屑のように銀細工師の家の前に打ち棄てられていたことだけ、教えられた。
翠が関わっていたのかという問いかけは、一切なかった。
館を抜け出すのに協力してくれていた下男が、いつのまにか辞めさせられ、翠は職人町に行くことができなくなった。父の命を受けた使用人たちに監視され、陰鬱な生活に閉じ込められてしまった。
「疫病?」
翠が執事の言葉を繰り返すと、彼は表情を変えず、頷いた。
「はい。職人町で疫病が流行っているそうで、今年は製品が手に入りにくくなりそうです」
感情のこもらぬ声が、事態への理解を遅らせる。沈黙の後、翠は出し抜けに立ち上がった。きちんと整頓されていた机の上の書類が、怒りに触れたように崩れ落ちた。
「どちらへ」
居室の入り口へ向かう翠に、執事は変わらず平坦な声で問った。
翠は答えず、そのまま部屋を出ようと扉を開けた。警備兵が二人、行く手を阻むように、こちらに顔を向け、立っていた。
「どけ」
翠がそう命じても、兵はピクリとも動かず、翠を見下ろしていた。
「部屋からお出にならないよう、当主様のご命令です」
背後で執事がそう言った。構わず警備兵を押しのけようとしたが、反対に押し返され、尻餅をついて部屋に戻された。
「それに今は、あの地区は蔓延防止のため、封鎖されていて、出入りできません」
平坦な執事の声が、上から降ってくる。
「落ち着いたら、あの一帯は火をかけて浄化するそうです」
翠は虚ろな目で執事を見上げた。
「薬の精製をこちらでやっていて幸いでしたな。調薬用の器具が手に入りにくくなるかもしれません。その対策をたてよと、当主様のご命令です」
「……薬は送ったのか?」
翠がかすれた声でそう問ったときだけ、執事は片眉を上げた。
「あそこの人間は薬など買うお金がないでしょう」
ああ。
翠は絶望する。
僕は何の役にもたたない。
力の両親は、息子の事件では咎められなかった。力が拷問に屈せず、家族は何も知らないと言い張ったからだ。
力が命懸けで守った両親さえ、翠は守ることができない。
僕は力に庇われる資格などなかったのに。
どうして「関係ない」などと言って庇ったのか。どうなってもいいから、僕は……
翠は胸を押さえた。あの時のことを思い出すと、心臓が早く打ちすぎて胸が苦しくなる。
このまま、心臓が止まってしまえばいい。
あの時、僕はどうなってもいいから、力に「助けて」と言ってほしかった。
ひと月ほどで疫病は終息に向かった。長期化しなかったことに安堵しながら、翠は力の両親の安否を確かめられないことに、歯がゆい思いをしていた。
だが、それも、自分への罰であるような気がしていた。もう力の家族に関わることは許されないということなのか、と。
そんな時、一人の男が、翠の部屋に入ってきた。父の侍従であるが、父の命で、翠の側にも付くと言う。
また、監視役か。
うんざりしながら、翠がその男の顔を見る。
既視感に翠は瞬きした。
「力?」
そんなはずはない、と思いながらも、上ずった声でそう訊ねた。力は死んだ。それにこの男はもっと年上に見え……
「練と申します」
男は頭も下げずにそう名乗った。部屋には翠と男の二人きりだった。翠が思わず身構えるほど、男の雰囲気は異様だった。
「力がお世話になりました」
表情一つ変えず、練と名乗った男はそう言った。
「力の……お兄さん」
疑問が驚愕に変わり、続いて翠は恐怖に震えた。
そんな翠の様子に頓着せず、練は淡々と続けた。
「父は疫病で死にました。残された母一人では立ち行かないでしょう」
残酷な現実に怯む翠を追い込むためにか、練は大きく息を吸って、吐いた。
「わたしとあなた様は同罪です。わたしたちは力を見殺しにした。止めることも、一緒に行ってやることもしなかった」
そうでしょう、という目顔に、翠は微かに首を縦に振った。
「母一人残されたあの家に、わたしは戻るつもりはありません。弟との約束を、何を犠牲にしても、守らなくてはならない。翠様……」
もう、それは、脅迫だった。逃れることができない、修羅の道。
「弟の願いを叶えるために、共に地獄に落ちて下さい」
翠が、生きる意味を見出した瞬間だった。




