Ⅳ 狂気 ー9
力を思いとどまらせることは叶わず、翠は悶々とした日々を過ごした。力はあの日のあの会話が存在しなかったかのように、以前と変わらない様子で修業に励み、あの会話のことには触れなかった。
いつ、力が突拍子もないことを始めるか、翠は気が気ではなかった。あの日結局、「俺の考え」とやらを、力は翠に明かさなかった。
また反対されるのを疎んだのかと最初は思ったが、信用されていないせいだと思い始め、力にそのことを尋ねることが、ますます怖くなってしまった。
力に問いただしてみようと思ったり、いやこのままそっとしておいた方がいいと思ったりを繰り返しているうちに、翠の中でもあの会話は薄らいでいった。
結局、力は思いとどまったのだと、心のどこかで安堵していた。
そんな時、それは起った。
力たちの作業場に、翠は久しぶりに顔を出した。父の仕事を手伝い始めたので、最近なかなか時間が取れなかったのだ。
父に命じられるのは、簡単だが面倒な、書類の見直し作業がほとんどだった。他の資料と照らし合わせ、間違いがないか確認していく。単純だが、恐ろしく手間と時間がかかる。部下に手分けしてやらせればいいのだが、他人は信用できないと、翠に全部書類を持って来るのだ。そう口では言っているが、単に翠につらい仕事をさせたいだけではないかと、翠は思っている。そうして父は、のろまだの愚図だのと、散々文句を翠に浴びせていた。
命じられた仕事がひと段落し、次の仕事を言われる前に、翠は館を抜け出し、銀細工の作業場に向かった。切れ目なく仕事を持ってこられるので、最近抜け出す暇がなかったのだ。翠にもガス抜きは必要だった。
だが、久しぶりに覗いた作業場に、力の姿はなかった。親方が背中を丸めて、銀を溶かす火を焚いていた。
「あの……」
翠は親方の背中に声をかけた。
いつもは作業中にそんなことはしない。邪魔をしたくなかったし、そんなことをしなくても、翠は自然にこの場所に入れた。
親方はのっそり振り返り、翠の姿を認めると、目を丸くした。
「坊ちゃん!」
そう呼ばれて、翠は身を固くした。
親方にそんな呼ばれ方をしたことはなかった。「坊ちゃん」それは氏族の子どもを指す呼び名だ。
「なんで、なんで止めてくれなかった!」
親方の絞り出すような声が、翠を貫いた。
何を言われるのか、翠はすぐに悟った。
「力が何か」
そう問うと、親方は立ち上がり、翠に掴みかかった。
「あいつ、大店の下っ端の若い連中をけしかけて、銀の材料を横流しさせやがった。一週間前に官吏が来て、あいつを引っ張っていった。今日まで、何の音沙汰もねぇ」
なんてことを。
翠は向きを変え、作業場から飛び出していった。
「おいっ」という声が背中から追いかけてくる。応える余裕はなかった。
一週間前。一週間も抑留されるのは、拷問されているか、もう死んでいるかだ。
翠は一つの館の門にたどり着いた。息を切らし、髪を振り乱して、一人で走り込んできた男に、門番たちは当然厳しく誰何した。
「誰だ!ここが誰の館か分かっているのか!」
分かっている。四大氏族遜家の館。職人町の元締めは遜だ。大店ももちろん、遜の持ち物だ。
「允家の嫡男、翠だ。ここにわたしの友人が囚われているはずだ。会わせてくれ」
門番たちは顔を見合わせた。こんなボロボロの姿で、供も連れていない男が、允の嫡男とは信じられなかった。しかし、氏族の名前は絶対だ。もし本人だったら、とんでもないことになる。
「恐れ入りますが、しばらくお待ちを。確認してまいります」
口調だけは丁寧に、門番はそう告げると、胡乱な目で翠を一瞥し、館の中に入って行った。残った門番が、出しかけた槍の先をどうすればいいか迷うように、宙で揺らしている。
しばらくして門番は戻ってくると、「主の許可が出ました」と声高に言って、翠を通した。無礼な態度に、翠は腹を立てる余裕はなかった。
何でもいい。自分をあざ笑うために遜が招きいれたのだとしても、力が助かるのなら、それでいい。
館の者に引き渡され、翠は館の執事らしき者に続いて、館の地下への階段を下りていった。允家の館にもある。地下は罪人を留め置く場所だ。
「力!」
地下に並ぶ牢の端に、力は繋がれていた。足を鎖でつながれていたが、そんなことをしなくても、牢を破る力などないだろう。顔は見分けがつかないほど晴れ上がり、片腕と片足は変な方向に曲がっている。破れた服にはどす黒い血が滲んでいた。そのシミの作り方から、負った傷の血が滲み出たのだと分かる。身体を九の字に曲げ、内臓を守るように丸まっていた。
「誰が、こんなことを……」
分かっていることなのに、つい口に出てしまう。
拷問と見せしめのためだ。このまま死んだら、職人町の門前か家の前に捨てられる。
「この者はわたしの友人だ」
翠はここまで案内してきた執事に言った。
執事は少し俯いたまま、何も言わない。
「わたしの家に連れて帰りたい。すまないが、そう当主殿に伝えてもらえないか」
遜の当主の高笑いが聞こえてくるようだ。自分はさぞ無様だろう。友人をこんな風にした張本人に頭を下げるしか、為す術がない。だが、その無様さに免じて、遜の当主は翠の頼みを聞いてくれるかもしれない。
「頼む」
翠は、執事に頭を下げた。執事が驚いて、少し後ずさった気配がした。
「おか…え……さい」
牢の中から、かすれた声が聞こえて、翠はハッと力を見た。
「力!」
鉄格子に飛びつき、声を上げた。
意識が、まだある。
ピクリとも動かないが、口が確かに動いて、音が出ていた。
「い…ん…すい……さま」
允翠様。今まで呼ばれたことのない呼び方に、翠は心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。どうして、今、そう呼ぶ。
「おかえ、り、くだ、さい。あな、た、には……かん、けいない」
「力!どうして!」
縋るように翠は叫んだ。どうか、あの時のように「手を貸してくれ」と言ってくれ。
「あ、なたは、…允…のにん…げんだ。しん、よう…など…し、ない」
その後、ヒューっという細い息が漏れ、途絶えた。
「どうされますか?」
控えていた執事が、初めて口をきいた。
翠はノロノロと顔を上げた。見つめていても、力は動かない。
「あなた様は無関係だと、彼は言っておりましたが」
翠が答えられないでいると、執事は無表情のまま続けた。
「自分の死にも関わってほしくないと、彼は言っているように聞こえました」
それから、静かに頭を下げた。
「どうかこのまま、お帰り下さい」




