Ⅰ 幻の村 ー7
あなたは挑発されると、すぐに乗ってしまうわね。
母の言葉を思い出しながら、ターシャは必死に手を伸ばしていた。
腰には命綱を付け、その先は奥の木に結びつけてある。ターシャが張り付いている木の根元の方で、陽が言葉通り、しっかりターシャの足を掴んでいた。
それでも眼下に見える地面は、はるかに遠くて、もうそれだけで勝手に身体が震えてしまう。あちこちに力が入っているせいで、どう動かしてよいか、分からない始末だ。
ターシャは手を伸ばした。
なぜ自分がこんな危険なことをしなくてはならないのか、そもそもこんなに命を懸けてまで、その花弁とやらは採らなくてはならないのか、いろいろ言いたいが、今ターシャを動かしているのは、ただの意地だった。
挑発に乗ってしまった。
分かってはいるが、あそこで「無理」と言えるターシャではなかった。
それが、いつか、あなたの禍になるわよ。
分かってはいるけど!
ターシャはエイッとばかりに、自分の身体を前に押し出し、その勢いで、花の付いた枝ごと折り取った。
勢い余って、身体がふわりと浮く。
あ、と思ったとき、腰にまわした縄をグイッと引っ張られ、次に腕で胸を支えられた。
引き戻され、地面に立とうとすると、膝が笑ってへたり込んでしまった。
「豪快だなぁ」
へたり込んだターシャの前に陽は屈みこみ、ターシャが握りしめていた枝を指さした。
「枝ごといくとは。枝折っちゃって、木が可哀そうだよ」
そんなこと言われても、あそこで悠長に花をひとつひとつ採るなんて、無理だ。
「なによ。花弁ついてるんだからいいじゃない」
かすれた声で、そう抗弁すると、陽は意外にも素直に「うん」と頷いて、「ありがと」と礼を言うと、ターシャの手から枝を抜き取った。
「さぁ、次行くよ」
そう言って立ち上がり、さっさと歩き出した。
なんなのよ、もう。
こっちは死ぬかと思ったのに。
ターシャは足にグッと力を入れ、なんとか立ち上がった。
陽は少し先の方で、何か探しているのか、岩の隙間を覗いている。
絶対泣き言なんて言わない。
ターシャは鼻息荒く、陽に近づいた。
「見て」
近づいて来たターシャに、陽は岩を指し示して見せた。岩と岩が重なったところに、苔が生えている。
「なに……」
言いかけて、ターシャは口を閉じた。
苔がほのかに発光していた。さざ波のように、光が走り、消えていく。また光り、消えていく。
「ヒカリゴケだよ」
教えてくれる陽の声を聞きながら、ターシャはしばし見惚れていた。
光は密やかで、静かだ。だが、圧倒されるような生命力と神秘に満ちていた。
「これも、薬になるの?」
ターシャが訊ねると、陽は「ブッ」と噴き出した。馬鹿にされたようでムッとすると、陽は楽しそうに笑った。
「ごめん。昔、同じことを訊いた人のことを、思い出したんだ。ヒカリゴケは特に用途はないよ。でも、きれいだろ?」
では、わたしに見せる為だけに、探してくれたのだろうか。
ターシャの考えたことが分かったかのように、陽は付け足した。
「杏に見せてあげようと思ってね」
そう言いながらも、陽自身が熱心にヒカリゴケを見つめていた。
「好きなの?ヒカリゴケ」
ターシャが思わずそう訊ねると、陽はハッとしたように我に返り、照れたように笑って肩をすくめた。
「これを見るとね、初心に帰れるんだ。嫌になったり、行き詰った時にね。どうして自分がこの仕事をしようと思ったのか、思い出せる」
「……どうして、しようと思ったの?」
興味を惹かれて、ターシャは尋ねた。
ターシャは生まれた時から、なりたいもの、なるべきものが決まっていた。公女は大公の跡が継げないと知った後も、その決意は揺るがなかった。
逆に言うと、他と比べて何かを選択したことはなかった。
「まぁ、森は好きだったし、蘭や青と一緒に薬草を摘むのも好きだった。でも、一番はあれかな、このままではこの村に薬師がいなくなると思ったからかな」
「他にやりたいことがあったの?」
ヒカリゴケをあれほど熱心に見ていたのは、今がその行き詰っている時なのだろうか。
だが陽は、きっぱりと首を横に振った。
「他の生業を選ぼうと思ったことは、一度もない」
ターシャは更に何かを訊こうとして、結局何も言葉に出来なかった。
きっと陽もこれ以上言うことはないだろう。そう思えた。
どんな経緯も葛藤も、この言葉の前では無力だ。
「杏は?」
急に陽がターシャの方を向いたので、その近さにターシャは驚いて、少しのけぞってしまった。
ターシャは気まずい思いになったが、陽は気にしている様子はなく、相変わらず正面からターシャを見つめたまま、もう一度言った。
「杏はどう?少しは頭が冷えた?」
「え?」
余計にカッカしていると言いたいところだったが、陽はそんなことを訊いたわけではないということは分かっていた。
確かにヒカリゴケの神秘的な光は、ターシャの逸る気持ちを宥めてくれた。
地球に根付く小さな神秘。小さいが限りなく永遠に近い。永遠に近いが、一瞬の光。
わたしがここに来たのは何の為か。
「うん、冷めたよ」
ありがとう、とターシャは言った。
「しばらく、ここにいるわ」
お母様はラン様を頼れとおっしゃった。蘭と信は自分たちに任せて、しっかり体を休めろと言った。
わたしのすべきことは、ここで情報を待ち、英気を養うことだ。そうしないと、いざという時に、何もできない。感情に任せて、無駄な力を使うべきではない。
陽はまた、プッと笑った。
「偉そうだな。さすがお姫様」
「違うわ。公女よ」
ターシャがニコリともせずにそう訂正すると、陽はいよいよ楽しそうな顔になった。
「そうですね、公女様」
そして、横に置いてあった荷籠を手に取ると、「はい」とターシャに渡した。
「だけど、ここでは杏だからね」
忘れないように、と釘を刺す陽に、自分から言い出したんじゃないかと、ターシャは心の中で、舌を出した。




